(1) 潟Nライマックスの再スタート! 1966年の後半時期は、すでにモデルカーレーシング・ブームは去り、本当のマニアやファンによって続けられていたと言っていい時期であった。多くのメーカーや営業サーキットが急激に衰退したモデルカーレーシング市場から撤退して行く様はとても寂しく思う。しかし、金型などに資金をつぎ込んでいたメーカーからすると、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのかもしれない。 そして、熱心なマニアやファンは、AYK製などのシャーシや、自作シャーシにより新たな方向性を見出していた。例外として、タミヤ製シャーシはかなり後まで利用されていたと思う。 そして、時代に適したボディがあれば、その後もモデルカーレーシングを続けることは可能である。 ところが、当初からクリヤーボディを発売していた「ポール・コンパ」「ゴーセン」を筆頭としたパイオニア的存在だったメーカーも、その後の広告宣伝を追っていくと徐々にクリヤーボディ部門から撤退していったように感じられる。 |
![]() TOP : Chaparral Cliar Body by Right Industry Co., Ltd. |
メジャーレースなどの結果を見ていると、1966年半ばから後半は、ほとんどライト工業のクリヤーボディが各クラスを(ストックカーは別)独占していたことからもクリヤーボディ市場の状況がわかる。上の写真は、メジャーレースなどによく使用されていたライト工業のチャパラルである。 しかし、ライト工業も問題点があった。車種が限定されていて、年代的に古くなっていることである。 ボディは、スーパーボディを発売したことで、圧倒的に軽量ボディとなり、レースには有利であったが、マニアからすると車種が古臭くなってきていて不満であった。 いつまでの1964〜65年当時のエルバ、ローラ、ロータス40、チャパラル、インディ500F1(本当はワトソン・ロードスター)では、物足りないのである。 ただし、レースを主体に考えるファンにとっては、あまり関係ないことかもしれないが、やはりモデルカーレーシングという名称があるからには、実車に近い雰囲気を持ち、さらに最新のレーシングカーのボディが欲しいのが本音ではないだろうか。 それは、ストックカーレースで、ワイルドキャットを使い続けること(新車種が発売されない)と似ているかもしれない。 その辺のところのマニア心理を上手く掴んで販売を伸ばしていったのが、クライマックスだったのではないだろうか。 他のクリヤーボディメーカーと違うところは、最初に車種を沢山作らず、最新の話題性のある実車レーシングカーを数か月のサイクルで製作販売し、年間通して10台近くを発売するというやり方を最後まで押し通した。 さらに、青柳金属工業の最新のシャーシに対応したボディを同時発売するなども積極的に行い、売り上げを伸ばしていったのだと思う。 |
![]() ![]() ![]() TOP : The 6thAll Kansai GP race in Osaka 1966. |
上のレース結果は、1966年4月号元祖モデル・スピードライフ誌に掲載されていた2月6日大阪府堺市“サンコーサーキット”で行われた「第6回関西グランプリレース」のものである。 ご覧の通り、ストックカーは別として、その他のクラスは、ライト工業製クリヤーボディの独占である。 そして、下のレース結果は、4月24日にやはり大阪で行われた「第7回関西グランプリ」のものである。 このレースでも、ライト工業は1/24Fクラス以外は独占している。 ちなみに、第7回では早くもタミヤ製サスA型シャーシが登場している。 関西地区は、この時期がモデルカーレーシング人気がピークを迎えており、その後世論などの影響で急激に活動が激減することとなるのだが・・・。 しかしながら、この時期は、クライマックス再登場前のライト工業一人勝ちの時でもあった。 |
![]() ![]() TOP : The 7th All Kansai GP rece in Osaka1966. |
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