今年もやってきた「ホビーフォーラム」が無事に閉会した。
どちらかというと限定商品、または掘り出し物が出品される販売ブースをお目当てとする来場者がほとんどだと思うのだが、天候にも恵まれて10時オープン後会場内は大変な混みあいとなっていた。
 
 その点、クラブ展示ブースは同じ会場内なのだがまるで別世界のように静かである。
販売ブースが一段落する昼過ぎよりクラブ展示を目当てに来場される方々が徐々に目立ってきたように感じた。
 

 さて、今年の「くるま村少年団」のテーマは“1968年から50年 ニッサン&トヨタのメーカーチームに正面から挑んだプライベートチームであるタキ・レーシングチームの功績”、そして、68年日本グランプリ&日本カンナム”などである。
また、富士グランチャンピオンシリーズに目を移せば、あの“高原 敬武”が初めてシリーズチャンピオンとなった1973年から45年のメモリアルイヤーだ。 そして高原氏自らのオーダーを受けて製作し続けている“西岡 照夫”氏の高原コレクションも今回の展示は、1973年度に高原氏が乗り継ぎチャンピオンとなった “LolaT292”と“シェブロンB23”である。

また、新たに1/43スケールオリジナルレジンキットを製作販売を開始した個人メーカー「BEMヨコハマ」の処女作“シェブロンB23”の高原 敬武仕様と風戸 裕仕様も同時に当クラブメンバーのSEBRING氏が仕上げて展示する。
 今後もBEMヨコハマブランドとして、マニアックな富士グランチャンマシンを作り続けるとのことなので要注目である。 
ちなみに次回は津々見 友彦駆る“LolaT212”のモデフォイ仕様とのこと、気になる存在である。

 そして、Tetsu Ikuzawa マシンを作り続けている相原氏も意外なマシンを製作展示されるので注目である。

 以上のテーマを念頭にゲストモデラー、そして当クラブメンバーの製作した作品群を中心に展示構成されている今回のくるま村少年団ブースである。

 また、今回も67年オートスポーツ&モーターファン協賛で開かれたフォト・コンテストで優勝された“小倉 洋”氏も日本カンナムと日本グランプリでの写真を持参し参加していただいた。 この場をお借りしてお礼を申し上げる次第だ。
小倉氏の作品はいつ見ても迫力に満ちており、見るものを飽きさせない。 特にTetsuさんへの思い入れは半端ではなく、写真にもその熱意を感じることが出来る。 余談であるが、小倉氏の風貌はあのワークス・ポルシェの監督であった“フォン・ハンシュタイン”氏にソックリでありTetsuさんとの因縁を感じずにはいられない。

 当クラブの作品はスケールで言うと 1/43〜1/12スケールまだとかなり幅広く展開しており、それが他にない独特の雰囲気を作り出しているかと思う。 そして、ただ展示するのではなく、当時のサーキットにおける雰囲気をなんとか出せないかと絶えず考えていることも特徴です。映像や写真、イラスト、そしてジオラマ風なディスプレィなども行うのはいかに当時の雰囲気を出すためである。
  ただ、どうしても大きなスケールモデルと小さなモデルを並べるとその大きさに圧倒されて小さなスケールモデルが目立たなくなってしまう。 このことは今後の当クラブの課題になるかと思う。

では、今年の「くるま村少年団」の展示をご覧ください。
 
テーマ1
68' Japan GP & Nippon CanAm
50th Aniversary
68年日本グランプリ & 日本カンナム
50周年アニバーサリー

 下の写真は68年日本グランプリ&日本カンナムに出走したマシンたちである。
68年日本グランプリで優勝した“ニッサン・チーム”が送り出したR381やR380A-IIIなども大石秀夫以外のマシンはなんとかクラブメンバーやゲストモデラーの作品で揃えることが出来た。 
 #19 R381(砂子車)、#18 R381(高橋車)、#21 R380A-III(黒沢車*注)、日本カンナム優勝車#52 1/20 McLaren M6B Ford、更に68年日本グランプリ仕様 #5 Toyota 7、日本カンナム仕様 #32 Toyota 7はメンバーである”野上 稔”氏の作品、 #18赤のエアロ・スタビライザーで1/24スケールR381は“須藤 武彦”氏の作品でスロットカー仕様。
 それ以外の1/24スケール #1Lola T160 , #52 McLaren M6B Ford, #22 Nissan R380A-III, #20 Nissan R381, そして、ゼッケンなし Chaparral 2Gは、「世田谷模型車庫」のMさんの力作だ。 
実は Chaparral 2G は日本カンナムには出場していない。 本場のCAN-AM最終戦で発生した大クラッシュ事故のため残念ながら欠場となったのだ。 オーガナイザーの塩澤進午氏にインタビューした時にエントリーも正式に受けており、事故がなければ必ず来日していたとお聞きした。 そんなこともありMさんにお頼みして特別に展示して頂いた。
 もしChaparral 2Gが日本カンナムに来ていたらという妄想をフィクションにしたものを昔書いていたので良かったらお立ち寄り願いたい。「フィクション 68年日本カンナム」
 

 *1/20scale #21Nissan R380A-III NBK/Ikko modefyd by Minoru Nogami
:
TOP: 1/20scale #21Nissan R380A-III NBK/Ikko modefyd built by Minoru Nogami
テーマ2
TAKI RACING TEAM
タキ・レーシングチーム
 




TOP :Shintaro Taki of Team Boss and Kenjiro Tanaka, Hiroshi Kazato in 1970 at Suzuka.
And Transporter Track of Taki Racing.
(C) Photographs by Shin Ibuki

 60年代後半の日本での最高峰のレースと言えば“日本グランプリ”をおいて他にない。 年一度の大イベントであり、そのレースに勝つことがすなわちトップの自動車メーカーであるという証であり、日本中に技術力をアピールすることが出来る絶好のイベントであったからだ。
 しかしながらその争いはたえず自動車メーカー同士の戦いであり、プライベートでそれらに対抗することなど皆無であり、まして莫大な資金を投入してマシンを作り上げるメーカーに対抗するなど夢のまた夢であった。

 ところが1966年日本グランプリに実業家で名古屋でも有数の名家の生まれとして知られていた“滝 進太郎”が、当時の最新鋭スポーツカーであった“ポルシェカレラ6”を輸入し、メーカーへ挑戦状を叩きつけたのだった。 彼はビジネスではなく趣味の1つとして自動車レースに参加し、ロータス・エランなどで国内格式のレースでは常に上位に食い込んでいた実績を持つ。

 当時の自動車メーカーは世界最高峰のスポーツ・プロトタイプカーなどの特殊車両を作るのではなく、あくまでも量産車をチューンナップした車両に専属のドライバーを乗せて大きなレースに勝利していたのが現実であった。 
1966年日本グランプリは鈴鹿に変わり新しく誕生した“富士スピードウェイ”に場所を移しての戦いであり、初めて国際自動車連盟FIA公認のグループ6 スポーツプロトタイプカー&グループ4スポーツカーによるグランプリを開催した最初のレースとなっていた。
 ところが当時の日本メーカーで本格的なスポーツプロトタイプカーを所有していたのは“プリンス自動車”だけであり、それも実績はなく海外のブラバムを手本に製作したものであった。 開発するきっかけは1964年の鈴鹿での第2回日本グランプリのGT-IIクラスで“ポルシェ904GTS”に惨敗したからであり、そのポルシェの対抗馬として開発したのが“プリンスR380”であったのだ。
しかし、滝が持ち込んだ“カレラ6”は“904”をさらに進化させたマシンであり、実力的にはプリンスは劣勢に立たされていた。
しかし、ミッドシップマシンの経験がない滝は日本グランプリではマシンの総合力ではプリンスを上回りながらも、プリンスのチーム総合力に屈して惨敗してしまったのだ。その時、滝の脳裏に浮んだのは プライベートでも強いプラベートチームを結成すればメーカーチームに勝てるかもしれない ということだった。 それが後の「タキ・レーシングチーム」誕生のきっかけとなったのではないかと思う。
 

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(C) Photographs by Hirofumi Makino