★★★ 是非一度ふれてみて下さい。おすすめマーク。
★★ 機会があればふれればいいように思います。
★
時間の無駄です。ふれるなマーク。
「日本の」の意味の変化を恐れ、
引き続き「民族」と戦前の外交の意義を考える
あの鈴木宗男にいじめられ有名になったNGOピースウインズ・ジャパンの大西健丞が非常に面白い逸話というか事実をコラムで紹介している(毎日新聞三月一九日朝刊「私はこう考える」欄)。イラク北部スレイマニアで四月からの時期、氷売りが「日本の氷!日本の氷!」と声を響かせて街を練り歩くという。「日本の」の意味は、日本から輸入したと言う意味でなく、「完ぺきな」とか「奇麗な」とかを強調する形容詞なのだそうだ。日本はこれまで憧憬の対象になってきたのである。これを読んで私は衝撃を受けた。小泉首相が国連の新決議なしでの米英軍のイラク武力行使を支持したのが三月一八日だったから、この日以後、イラクで一つの言語が変化したのではないかと思えるからである。「日本の」は氷などを表現する美しい言語から、「ずるい」、「自分のことばかり」、「不甲斐ない」という意味を有する薄汚い言語へと。
★★★
酒井直樹「死産される日本語・日本人 『日本』の歴史―地政的配置」(新曜社 一九九六年)。本誌前号で評論した姜尚中・森巣博「ナショナリズムの克服」のなかでしばしば引用された理論家の論文集である。不明にしてこの人のことは名前も知らなかった。日本のマスコミ、論壇紹介などがいかに特定の人々にしか言及していないかがわかる好例であろう。突然だが、故中筋修が、私の聞いたことのないような人々の本を濫読しており、私はしばしば彼の読書から自分の読書の幅を貰っていたが、彼はもういないので自ら気をつけねばならない(中筋への追悼文は本誌四九号を参照されたい)。本書の名となった基本論文のなかで著者は、日本語、日本人というものが生まれると同時に死んでいた理由を説き起こす。考えてみれば確かに日本語の起源は過去への無限溯行である。時期の特定は不可能かつ無意味であるから、次に著者は国民語としての日本語を考察し、国民文化の生成過程との類似性を辿る。国民共同体、国民文化、国民語、社会、国民経済、民族、人種という統一体が一致するように作られていくのは近代である。そしてそれらは国際的には他の国民共同体との比較と区別を媒介にして構想される。つまり他との排他性を前提とする。近代は分割不可能な「個人」主義を発達させたが、分割不可能な「国民」共同体または「国民」全体主義を同時に共犯的に内在させたという。そしてそのように成立した日本語の起源として非言語との区別、そのなかのどのような要素がいわゆる日本語として取り上げられたかを考察している。前者すなわち言語と非言語の区別は常にタウトロギーに落ち込み難しい。その区別を言語で考えるからである。多言語主義は国民国家の分裂につながるから反発する動きも強いが、これがまさに近代化進行過程であると分析し、その反証に日本の一八世紀の状況を上げている。そこでは人々は漢文、和漢混交文、いわゆる擬古文、候文、歌文、俗語文、地方別俚言などのなかに重層的に帰属し、ひとつの言語共同体に無媒介的に同一化するとは思いもよらなかったことをあげている。そしてその一八世紀に日本語を古代に仮設し生み出す作業がおこなわれだす。日本語の誕生は日本語の死産としてのみ可能であったという。これは中国においても同じだと筆者は言う。つまり古代に日本語が存在したかどうかは実証できず、仮設するのみで、これを外国語のように「真似び」=学んでいく必要があり、制作されていく。著者は日本語と日本という国の成り立ちを一八世紀においており、一九世紀、明治政府にはおいていない。一八世紀を日本の近代への始まりと捉え、やがて最も成功した近代国家日本が生まれ、成功した国民主義は帝国主義になっていったという。もちろん著者は、近代の分析として平等の二面性も考察している。既存の社会体制内での同じ待遇を受ける権限としての平等、社会体制そのものが産み出す差別の撤廃を要求する平等である。この分析に見られるように著者の立場は近代悪論ではない。結論としては、過度の国民国家観、日本のような国体意識を持った国民国家観の脱構築が主張される。このほか、丸山真男批判も面白いのだが、あまりに長くなりすぎるので、他日評論したい。
★★★
小倉和夫「幻の史料『日本外交の過誤』を読む」(論座六月号)。本誌前号で城山三郎「落日燃ゆ」を取り上げ、広田弘毅を中心に据えた日本の外交の特徴と軍部との矛盾をいささか検討した。本論文は、前駐仏大使で青山学院教授の筆者が、一九五一年に外務省課長クラスが吉田茂首相の命により作った「日本外交の過誤」を分析している。今年四月に初めて公表された貴重史料の分析である。五一年に課長クラスであるということは、作成者達は戦争末期に外務省にいて、幣原外交、広田外交など城山が描いた外交を直接体験した人々である。この史料は、幣原外交の消極性を批判し、広田外交の軍部寄り姿勢を批判する。また国際連盟脱退、ワシントン海軍軍縮条約破棄、日独防共協定、日中戦争などを各論的に全て批判し、反戦の立場から戦前の外交を総括している。ただ、この史料もこれをコメントする筆者の言及にも、その外交上の誤りを産み出さないためには、どのような動きが可能であったかの立ち入った検討がないので、底が浅いと感じるのは私だけではないのではあるまいか。むしろこの史料を、城山に分析してもらったほうが、よほど成果が上がるのではないかと感じるのである。
★★
シェエラザードで軍国主義を
半落ちでヒューマニズムを学ぶ
石田衣良「スローグッドバイ」(集英社 二〇〇二年)。作者の初めての短篇集で恋愛小説集だそうである。男の気持ちを描いた一〇篇を収録。標題の「スローグッドバイ」は、別れることになった恋人達が最も素敵な時を過ごす「さよならデート」という友人間のしきたりに従っておこなう不思議な経験を描く。同棲前にプレリュードを駆って彼女を迎えに行っていた思い出を辿ったり、いつも行った横浜の中華街でゆったりと昼食をしたり、元町を散歩しながら、七時間もかけて、たくさんの物語を紡ぐ。しっとりとした味わいが残る。「You look good to me」は、ネットの世界の喫茶店「パラダイスカフェ」で出会った醜い「アヒルの子」と名のる本当に自分が醜いと思っている女の子と現実の世界で出会い、恋人になっていき、美醜が関係なくなるまでの道行きをサラリと描く作品。なかなか切ない作品が「フリフリ」。女友達の一方清香が結婚した途端、独身の潤子にどんどんと男を紹介する。紹介された男が潤子と恋人のフリをして楽しみ感情移入しつつあるうち、清香が離婚する。すると潤子は男をサッと捨てバイバイをして清香の方に向かって歩くという。レズの話か、女の友情の話かはよくわからないが、力が抜ける。「真珠のコップ」は、仕事と恋愛が最も煩わしいと思っているソフトウエアのマニュアルづくりを生業とする男が、デートクラブの女性と本当の恋をするすばらしい道行きである。「夢のキャッチャー」はシナリオライターとして才能ある女に、納得する仕事をするまで結婚をじっと待っている男とそのことに心から感謝する女の単純な愛情物語。どの篇もさらりとうまくまとめられているが、石田のような才子にして、恋愛物語には苦労しているなという感が強い。男と女の肉体的交わりの描写で読ませず、心や感情の物語で読ませるのはたいへんである。
★★★
横山秀夫「半落ち」(講談社二〇〇二年)。ベストセラーである。私はこの本を表紙絵を担当した西口司郎さんからいただいた。アルツハイマーで壊れつつある妻から頼まれて殺した元警部を、取調、取材、弁護、裁判、刑務の立場から描いた周到な内容である。息子を一三歳の時、骨髄性白血病で亡くし、アルツハイマーに苦しむ妻を愛するが故に頼まれて殺したとき、誠実な警察官であったこの男は、絶望の連続線上で自殺をせず、謎の二日間を過ごして自首した。嘱託殺人までは素直に自白したが、その後の二日間の真相を頑としてしゃべらない。これを半分自白して半分否認と言う意味で半落ちという。この真相が、本作のもっとも優れた点であり、感涙を誘う。茨城県の水戸が舞台であろうか。警察幹部の妻殺しの真相がどのようにして隠ぺいされていくかを章ごとの主人公の生き様を交えて多様に描く。刑事の章ではたたき上げの優れた警視志木(県警捜査一課強行犯指導官)が捜査を知らないメンツばかり固守するキャリア組と暗闘する。誘導して自白を取る方式(向けて調べるという)に抵抗するが、結局身の保全から屈服していく様が描かれる。検事佐瀬の章は、東京地検特捜を経験したエリート検事が、小さな地検で、圧倒的な物理的捜査能力を持つ警察と対決し、警察からの捜査妨害、上司の事なかれ主義に疲れ果てていく様が描かれる。志木との友情に似た交流も描かれる。法曹である検事と非法曹である事務官との根深い不信も挿入されている。周到である。記者中尾の章では、新聞社間の特ダネ競争の熾烈、報道の危険性、警察発表と違うことを書く勇気と孤立化が描かれる。弁護士植村の章では、大都市での弁護士の競争と小都市での弁護士の伝統的不要性(争いは親族、地域共同体が解決)を対比させつつ、この事件での警察のウソを暴こうと必死に活動するものの、迫りきれず、自沈していく様が描かれる。判事藤林の章は秀逸である。キャリア判事は非常識との風評に抗い、名判事であった実父のアルツハイマーの介護を妻の献身的な愛情と自らの努力で補いながら、必死で良い判決のために努力している。本件では検事も、弁護人も、刑事も被告人である警部に心から同情しつつ裁判が進むという非日常に判事も真相のかけらを発見するようになる。同じくアルツハイマー病の義父から殺してくれと頼まれ必死にその激情に耐えた妻から、殺した犯人は優しい人なのだと教えてもらいながら、どれほどこの警部が優しい男であっても、人を殺すことはいけないと改めて剛直な結論を出している。刑務官古賀の章で、押さえに押さえた本件の謎が志木警視との共同行動で解かれていく。刑務官としての受刑者に対する絶対的権力行使の危険も描かれてる。名作である。文学形式として、同じ主題を立場の異なる章ごとの語り手を作って深めていく方式で、丸山健二「千日の瑠璃」(本誌二九号で絶賛)などが開拓した独特のものである。ところが、この作品が受賞最有力視されていた直木賞選考委員会でクレームが出て、受賞はなかった。次に有力視されていた石田衣良も含めて、今回の同賞は該当者なしとなった。クレームとは、作者が、受刑者には実際には骨髄性白血病のドナーとなることが認められていないという事実を見逃している点であり、それが本作品の決定的弱点とされた。ミステリー作品としての未完成とも評された。しかし受刑者をドナーにしないのは運用であり(確かに受刑者から必要なものを取りだす環境は良くはないことは事実である)、法律上の基準ではないのだから、そのクレームを過大視することはなかったのではないか。競争相手の出版社か何かの強引なアピールが奏効した例とも言えるのではないか。私としてはこの本と、石田衣良作品との同時受賞が順当だったと思う。
★★★
浅田次郎「シェエラザード上・下」(講談社文庫 二〇〇二年)。一九九六年から七年に新聞各紙に連載されたものの文庫化。一九四五年四月一日にアメリカの潜水艦によって撃沈された「阿波丸」事件をかなり忠実に下敷きにしながら、浅田は明確な帝国陸軍批判を追加して本作品を世に問うている。徴用された世界最高の豪華客船を「弥勒丸」と名を変えて。各地で日本軍が捕えた連合国の捕虜へ連合国からの支援物資を運ぶ目的を与えられ、安全航行が保障された船(これを安導券を持つ船と言う)がなぜ撃沈されたかの謎はなお解明されていない。浅田は、判明している史実に加え、昔から謀略の典型として出てくるM資金の話しを合体させた。軍部が中国支配を続けるための金塊をシンガポールを拠点としてマレー半島で地元金満家から騙してかき集め、船に積み、国際約束の航路を無断変更して上海で降ろそうとして、完全に
★★★