死ぬまで   。 これしかおまへん

                                    夢路いとし・喜味こいし

 

―二〇〇三年三月一八日、関西テレビにて。当日、ブッシュ米大統領はイラク攻撃を言明した。

 

いつも戦争。人間は進歩しない

 

こいし どうしても戦争がしたいんですな。湾岸戦争の時はおとっちゃんでしたね。こんなん継いだらアカンのや。

わたしは兵隊に志願兵でいったんですけどね。当時は兵隊に行かんかったら恥ずかしい時代でしたから。だけど、おかげさんで野戦には行かず内地で済んだんですけど。最後が広島のお城のすぐ下。そこで被爆した。爆心地から二キロも離れてない。その時の戦友にはほとんど会わない。一人だけ生き残っていて、山口の宇部で新聞記者やってはったが、その人も去年亡くなった。

人間は進歩しないのでしょうな。

いとし 人間て絶えず何かしら喧嘩しとかなあかんのでしょうな。学校行ってる子ども同士も喧嘩するし、夫婦喧嘩もするし。喧嘩の大きいやつが戦争ですわ。国同士の喧嘩いうても、国をあげてやるというのではなく、上の人がやりたくてやる。やった後はしゃあないからついていくか、逃げるかどっちか。

 

こいし だからやりたい人だけ、上の人だけが行ってやったらええねん。そやのに弱いものがさきにやられる。「将校商売、下士勝手、兵隊ばかりが苦労する」いう諺がある。兵隊だけが先にいかんならん。

今度の戦争でもブッシュさんだけ行って、むこうでもめりゃあよろしいねん。

 

いとし だけど話し合いでおさまろう思うてんのがおさまらんと、どつきあいになるんやからね。どっちが先に手だして殴るか、殴られた方が謝るか逃げるかせんと格好つかん訳や。

戦争で一番気になるのは残された家族の事やね。別に参加してるわけやないけど、悲しい思いせなあかん。今度のやつもこれからどうおさまるか知らんけど、戦争というのは永久にあるんやないか。小さな戦争、大きな戦争。

こいし 日本の歴史自体がそうですからね。戦国の前の時代からこっちでもめて、あっちでもめて。五〇年以上も戦争がないのは、こっちに来てからですからね。

 

いとし まとめて大勢の人間が死ぬというのは嫌ですね。昔の日本の戦争みたいにしたらよろしいねん。一人一人が名乗りあげて「我こそは何々なり。勝負、勝負!」と喧嘩してどちらかが負けたらそれでいいという。大勢でやるからあかんねん。

こいし 「フセイン! 我こそはブッシュなり」いうて。

 

漫才人生、六六年

 

いとし 漫才やりだしてもう六六年にもなるんですな。秋田實先生との出会いで戦後漫才の基礎が一つに固まった。

戦前の漫才は古い形で、今考えたら懐かしい。今は全然ありません。歌って、芝居をやってみたり、コントをやってみたり。小唄にしろ日本独特の数え歌などやって面白かった。そういうのは今はない、今は話すだけですから。

いとし・こいしの名前は東京に(並木)一路・(内海)突破という名があって、一路突破でも意味がある、それぞれ独立しても意味がある、そんなんを探してたんです。夢路いとし・喜味こいしは少し女のような名ですけど、この名になった。漫才的な着想です。この名前になってからでも五五年。

こいし わたしは兵隊から帰った時、もう漫才やる気はなかったんです。でも結局食うためにはこれしかなかった。

いとし これをやってることによって自分の人生がある。自分の家庭であれ、何であれ。だから本当の意味での職業に徹している。

 

こいし 今の若い漫才の人はアルバイトせんと食べていけない。僕らはおかげさんでバイトしたことがない。小さい時は芝居の子役。旅回りの役者のおやじとおふくろがいて四人家族、一座と一緒に芝居してまわった。漫才になってからも、おやじが事務をし、おふくろが三味線弾いて出囃子やってたりしたから、バイトというのを知らんのです。バイトやりながら一つの事をやっていくのは大変、今の若い子はえらいなあと思う。

僕らは師匠・荒川芳丸に弟子入りし(一九三七年)、荒川芳博・芳坊の名前をもらった。師匠の紹介で吉本に入った(一九四〇年)。同じ年師匠が亡くなった。法善寺横丁にあった大阪花月劇場が吉本の初舞台でした。

その時分の吉本は千日前だけでも五軒、大阪市内で二五、六軒も寄席があった。名古屋にも東京にもあった。それが今は一軒もないんですから。東京は上野や浅草に三、四軒残ってます。席亭さんのものやから席亭さんが頑張れば続く。大阪は吉本と松竹。会社がいらんいうたらなくなる。そういう面では漫才の発祥地である大阪が情けないですね。お金に勘定してしまう。

吉本の専務をしていた林正之助さんなんか「漫才はいらん。落語もいらん。あれらはやらしたら文句いいよる。映画は文句いいよらん。だから映画館にしよう」てなこといって寄席がなくなってしまったんです。

いとし 回数が多いとえらいやしんどいや休ませやいうて人間は文句言いますからな。

 

こいし あの時分は寄席の芸人もえらかった。おれはこれだけしかやらんとか、これだけのもん持ってるいうて。

昔のことですけど、ミナミに南陽館という小屋がありましてね。正月公演で四回やる。みんな酒のんでる。楽屋に一升瓶がおいてある。酒に酔ってるから二〇分の高座が短くなる。支配人が「今年の出番は時間ようやらんのか」言うたのをお茶子さんが聞いていて「おおそれながら」と芸人に言うたんだ。すると「何ぬかすねん。大阪の芸人、時間ようやらんやと。ほんならやったろやないか」と、酔ってるさかいに一人の高座最低一時間はやる。僕ら若いもんでも四〇分はやる。一二本の出番で一一時間ぐらいかかる。ついに三回目の真ん中ぐらいで夜の一一時くらいになってしまった。支配人も逃げておらんようになる。「何十年やってた漫才のネタすべて出したる」いうて芸人は張り切る。そうなると客は大喜びだ。とうとう本社から謝りに来はったけど。

いとし ふつうストライキをやるんやけど逆でしたな。漫才の連中がそれだけ結束したのは初めてでしたな。

こいし それだけのものを持っていた。

 

聞かすんでなく、聞いてもらう

 

こいし 普通コンビ組んだとき、ボケとツッコミを決めるが、僕らは中途半端でしたからどっちでもええ。立ってしゃべるだけのことやから。

右、左の位置が違うだけでもやりにくい人もいるようやが僕らはどっちでもええんです。

先輩にもおったけど、舞台に出てから下りるまでボケッぱなしの人がおるんですが、ところがそのボケでも間で賢うなってまんねん。ボケでない賢うしゃべってはりますねん。だから、二〇分の高座でもボケきるというのは難しいことです。

僕らは、マラソンにたとえたら二番手で行く。二番手やと風除けがあるし、ゴールの寸前で抜いてテープを切ればいい。ずるいやり方ですけど。トップ走りたい気もあるが、しんどいことや。引っ張って行かんならんし。一番最初はえらい。階段は一段一段上がるのが良い。三段いっぺんに上がるのしんどいし、三段上がって一段下がるとえらい落ちたような気がする。一歩一歩確実に、が良いのでは。

 

いとし 若い人の漫才、とにかく爆笑をとろうと派手なアクションやギャグが目立つ。出始めはそれでいいけど、だんだん自分の形を作って行くのが肝心。いつまでも同じ形やなしに、長年やってる間に自分の形はこれだと自分で作る。たとえ殴られようが蹴倒そうが笑ってもらおう、上って行こうの気迫は分かりますが、いつまでもそれではダメ。

 

こいし 昔の漫才、先輩たちは拍子木でよう頭どついたもんです。チョンいわして。アチャコの名はアチョンといわしたからそれでついたという説もある。だから、漫才やってる最中にエンタツ・アチャコもハリセンやないけど竿竹で頭どつく漫才やってはったそうです。

ドツキ、ハリタオシは昔の漫才の常套だったのが、今はシャベリだけの漫才になりました。僕らの漫才は年代に合わせたネタをやる。だから、漫才いうのは「ワー」と爆笑を求めたらいかんと思う。まして、シャベリだけでやるものは。この頃はみんな爆笑を求めはるからどうしても無理する。寄席でやっててもクスクス笑いぐらいがいいんです。落語もそうです。だから、漫才やるんやったら三〇〇か四〇〇席くらいがちょうどやり易い。

要するに、聞かすもんではなく、聞いてもらうもん。特に大阪の漫才は。

 

一〇〇〇人を超えるような会場だとスミからスミまで聞いてもらえません。どうしても前のお客さんだけが対象になる。

楽しんでやればいい

 

こいし 僕ら小さいときから、吉本の座り席のお客でスミからスミまで聞いてもらえる、それが癖になっていたからどうしても客の目を見る。そして、今日の客はこんな客かいなって、やりながら。今はテレビの場合、タイトルが決まっていてそれをやらなあかんけど、昔の寄席はつかみのネタやってみて、今日の客は違うな思ったらネタを変えられる訳です。

若いとき、先に出るから客一人しかいない舞台もある。常連さんで舞台を見ない。お茶子さんが座布団と灰皿を持ってきて、お茶子さんと話ながら聞いている。こっちがコチコチになってやってたんやろうね。その常連さんに「そんなに気張りな。気楽にやれ」といわれて、我々だけで楽しんでやればいいという気になったんです。そのあと、たまにニコッと笑ってくれたんです。今の大きなホールではそんなことはない。

 

人間国宝でも目指そうか

 

こいし 長く続けるのは大変でしょうとよくいわれるが、他にアルバイトしたことない。これしかないから、これにしがみついているしか仕様がおまへん。我々には定年はないんです。足の運びができてマイクの前に立ってシャベレたらやって行ける。死ぬまでこれでしょう。仕事がある限りはね。僕らみたいな年寄りはあまりお呼びでなくなってくるし、仕事も段々少なくなってくる。だけど、死ぬまでこれ。他にやることがない。

僕らの後、漫才界を引っ張って欲しいのは、もうベテランですけど、オール阪神・巨人、中田カフス・ボタンですね。

もう目標ちゅうのはおまへんな。賞はあげるいうもんは遠慮なくいただいていますが、お金にならんものが多い。昔は死んでから賞をもらっていたがあれではあかんと思う。生きてる間にもらうのが励みになる。

勲四等の時、宮中で数十人が並び、お立ち台の陛下に頭を下げる。頭を上げるとみなまだ頭を下げていて私だけ。すると、陛下と目が合うたんだ。これ格好悪いよ。また下げるわけにもいかんし。

さあ、今度は人間国宝でも目指してやろうかな。でも、人間国宝になったらやりにくいて米朝さんがいうてました。格式ばった感じでやりにくいと。ことはお笑いですからね。人間国宝になったからいうて舞台が変わる訳やない。漫才では人間国宝がいないんで、後輩のためにもひとつそれを目標にしてもよろしいな。でも、もろたらこそばいやろね。

このひと(いとし)は、目を悪くしている。腰も悪くなった。歩くの杖突いてちょぼちょぼしか歩けない。お互い入れ歯やからかみますわ。でも体の続く限りやっていこうと思っています。

一時間のインタビュー、後半はほとんどこいし師匠が話してくれました。本にサインもいただきました。本当にありがとうございました。

いとし・こいし

夢路いとし 本名・篠原博信。1925(大正14)年生まれ。

喜味こいし 本名・篠原勲。1927(昭和2)年生まれ。

旅芸人の一家に生まれ、幼少より舞台に立つ。1937(昭和12)年、上方漫才の草分け、荒川芳丸に入門。子供漫才として、吉本の舞台に立つ。1948(昭和23)年、秋田實と出会い、若手漫才集団を結成。いとし・こいしに改名。漫才一筋、上方漫才を代表する兄弟コンビ。

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