保存運動にかかわった大阪市職員として

小畠一三・松本裕彦

―保存運動に関わった経緯は?

小畠 市の中之島東部開発構想が七一年六月発表されると、日本建築学会近畿支部が一〇月に保存要望を表明、続いて新建築家技術者集団(新建)大阪支部も保存を要望し動き始めました。新建のメンバーであった我々も市役所問題を考えよか、がスタートでした。

 

―市役所内部の反応は?

小畠 ほとんど反応はなかった。労働組合としても、労働条件の面でタコ足解消、狭い職場環境の改善で新しい建物は必要との考えだった。労働運動と保存運動とはまったく別のもので、必ずしも市役所が中之島にある必要はないとの立場でした。

 

建築群としての景観を守る運動は中之島全体が大阪の顔という立場。大阪市役所は、建築物としての評価は少し低かったが、景観としては必要と考えていた。

 

―「まもる会」がつくられ運動が発展していきます。

小畠 新建の一員として、後からついていくという感じ。

松本 当時の私たちが所属していた大阪市職員労働組合建築局支部は、職場環境改善がテーマで、即保存には結びついていませんでした。市民運動が盛り上がっていく中で、市民の要求と組合の要求を統一させ、住民との共闘を発展させる立場から七四年二月、支部として保全運動の支持を決議しました。

小畠 「中之島をまもるシンポ」のポスターを組合の了承を得て、建築支部の掲示板にかけたところ、営繕部長が私を呼び出し何をやっているのかと恫喝し、「ポスターを外せ」と新建に対する市の介入があり、新建では全国大会で決議、市に抗議することがありました。

これがきっかけとなり、否応無しに保存運動にのめりこみ、労働運動も始めたのです。

松本 その部長は、私が入局したときの面接官です。人事の責任者ににらまれたことになり、保存運動に参加することは許さないとの立場で人事面でのみせしめ的な差別が行われました。

 

小畠さんは六九年、松本さんは七〇年入局。共に大学で建築を学び、専門家として大阪市建築局に入局した技術者。市民のためのまちづくりをめざし正義感にあふれていた青年が、新建に入り、市の開発の方針に反して「中之島をまもる会」の活動に参加していったのは自然のこと。しかし、当局はそれを許さなかった。労働組合でいえば、当時の大阪市職員労働組合の中では建築局支部は反主流派。それが、ポスター事件であり、新建の抗議に対し謝罪はしたが、昇任・昇格差別は徹底して行われた。

 

―差別の実態はどんなものですか?

小畠 私の場合、大卒で入局して三四年ですが、二八年間ヒラ職員。課長代理になったのが三年前です。同期は十数人が局長、ほとんどが部長クラス。普通、大卒一〇年で係長、二十数年で課長に昇格します。差別の原因はこの運動をやったことしか考えられません。

松本 九〇年に七人が原告となって裁判に訴え、今後は処遇を改善するということで九七年に和解しました。課長代理に二年前になりました。

小畠 そんなことで課長代理になったが、三周遅れが一周遅れになったと言うことかな。

 

九〇年、労働団体再編の中で、反主流派は、大阪市役所労働組合を結成、大阪市職員労働組合から分かれた。裁判に訴えたのは結成の二日後であった。小畠さんは一周遅れというが、その間の賃金差別はほとんど解消されておらず、結局は差別を残されたまま数年後の定年を迎えることになる。

 

―こうした大きな犠牲の上に、公会堂が保存されたわけですね。

松本 市役所は建替えられましたが、日銀の外観とも調和するということで、計画の超高層ではなく、デザインも変更させました。ただ、評価されるデザインかどうかは分かりません。私はあまり評価していません。公会堂を残せたことは感無量です。

小畠 市役所に入り、保存運動が始まって、定年前に解決できました。この間、市のスタンスも変わった、保存方法はいろいろ考えられると主張してきたことが実証されました。迷いながらやってきましたが、やってきて良かったと思います。

市は七三年、四建造物(日銀、市役所、図書館、公会堂)の構造診断書を発表し、震度五の地震で崩壊の恐れと危険度をあおり、建替えの必要性をPRした。これに対し、「まもる会」や新建では、研究を重ね、建築学会は構造診断に対する意見書を提出、保存の方法はいくらでもあることを明らかにしていった。建築支部が主催した七四年四月の市民討議の中で、診断に関わったコンクリート構造の権威、坂静雄博士が「審査結果を破壊に利用することは残念」とある研究会で発言したと聞いて、勇気づけられたと小畠さんや松本さんは述懐する。

 

―振り返っての思いを語ってください。

松本 行政に入って、市民のために働かなければあかんと思っていました。市民運動の中で、市民に目を向けなければあかんと思いました。当時は、高度成長期でスクラップアンドビルドは当たり前の風潮。そんな時、「まもる会」の会合で京大の三村浩史先生が「都市の中に歴史的建造物を残す意味はどこにあるのか。歴史の重層性が重要。生きてきた歴史を示す建物があると言うことが都市には必要だ。それが都市のオアシス」と話しをされ、ストンときました。開発至上主義で古い物を壊し新しい物を作っていく。それでは、歴史的な建造物が社会資本として値打ちがないものかといえばそうではなく、環境として価値があることが見直されています。二一世紀はまさしく環境の世紀。文化財を生かしながら環境を守っていくことが評価されるようになったということで感無量。自分自身の考え方も変化し発展したと思います。

歴史的建造物は、一度つぶすと再生不可能です。我々の運動は、この絶対的損失から回避させる運動であったと言う点で評価できます。

小畠

「まもる会」もまつりもおおきな実験だと思います。日頃、目を向けることの少ない都心部の景観に市民の目を向けさせた。景観を生かすも殺すも市民、そして市民が守ったのだと思います。

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