愛媛丸事件から見えてくるもの lang=EN-US>

愛 媛 で 何 が 起 こ っ た か

                                  被害者遺族代理人 池田 直樹

ワドル来日に「県」の姿はなかった

二〇〇二年一二月一四日、米潜水艦グリーンビルのワドル元艦長が成田空港に降り立った。あっという間にカメラマンと記者の厚い壁。翌一五日、宇和島水産高校の祈念碑に献花した際も、一〇〇人近い大報道陣。しかし、そこに学校や県の関係者はなかった。

結局、ワドル元艦長に会ったのは、一五日宇和島で面会終了まで極秘に事を進めた生存生徒四人を含む家族ら一一人と、一六日東京で面会した寺田祐介君を失った亮介、真澄夫妻のみ。他の八人の遺族、教員や乗組員の家族も彼とは面会しなかった。

加害者の被害者に対する謝罪という、本来人間的な行為が、一方ではマスコミの脚光を浴びながら、他方では一部の遺族や県の反発を買うところに、えひめ丸事件の持つ社会的な難しさがある。二〇〇一年二月九日の事件発生以来、愛媛県では何がおこったのか、米海軍との和解に至るまでの道のりを、寺田夫妻を中心にふりかえってみたい。

二つの弁護団

寺田さん夫妻は二〇〇一年二月九日の事故発生後、ハワイの現場にも行き、三月から始まった米海軍の査問会議にも出席し、行方不明者の捜索と船体引揚げ、事実と責任の追及の最前線に立ちあってきた。彼らを突き動かしたのは、笑顔で旅立った祐介君がもう帰ってこないとは信じられない思いと、これほど広い太平洋でどうしてあのような事故が起こりうるのか、という疑問だった。

夫妻は当初から公に発言し、「行方不明者家族の会」のリーダーとして、米海軍や愛媛県への質問や要望の先頭に立った。しかし、その闘う姿勢は、対米政府との問題の政治化を嫌う日本政府や愛媛県の姿勢とは次第に摩擦を起こす。それは保守的な風土の下、遺族・家族間の人間関係にも影響しはじめた。

四月一一日、県は船体補償を委任した東京の有名な企業弁護士事務所を県主催の説明会に呼び、遺族・家族の組織化を図っていく。そんな中、他方、闘う姿勢を前面に打ちだし八家族の委任を受けた私たちの弁護団は、生存生徒六家族から、委任を撤回されるという苦い経験をする。家族にはさまざまな筋から助言や圧力がかかったらしい。現地の複雑な政治事情や人間関係に目配りした地元主力の幅広い弁護団を組めなかった私たちの方針の弱点の表れでもあった。こうして、寺田祐介君と機関長だった古谷利道さんの二遺族を代理する私たち弁護団と残り三三家族の委任を受けた県弁護団との二つの弁護団が同時並行して米軍との交渉を行うこととなった。

提訴も視野に

四月二三日、査問会議の勧告意見を受けて、ファーゴ太平洋艦隊司令官は、関係者を軍法会議にかけない決定を下し、ワドル艦長は「名誉除隊」となる。「そんなばかなことがあるか!」寺田さんの納得できない思いは強まっていく。

こうした遺族の当然の思いをもとに、私たち弁護団は、@情報開示、A真相の解明、B再発防止、C適正な補償、D船体引揚げ〔遺体捜索〕やワドル来日などの慰謝措置を基本方針として確立し、これらの実現に資するのであれば裁判も辞さないことを確認した。

この方針にそって、二〇〇一年六月から始まった米海軍との交渉は、情報公開の請求や事故原因についての質問等、遺族が求める真相解明活動が主体となり、米軍側が進めようとする金銭評価には一歩も入らない状態が続いた。交渉には遺族も原則として同席して発言し、その後、記者会見するスタイルをとった。少数派の我々としては、遺族の当然の心情を世論に訴えることで、交渉力を増す以外にはなかったからだ。

そんな中、一〇月二七日、ハワイでの船体引揚げ作業で発見された八番目の遺体が祐介君と確認される。事故当時、甲板にいたという情報もあり、見つからない可能性が高いとされていただけに、「よく船の中に…」と真澄さんは絶句した。重油まみれの変わり果てた祐介君と会い、あらためて事故の真相解明と再発防止の決意を強める。

他方、金銭交渉は、当時、暗礁に乗り上げていた。海軍は責任は認めつつも、それが賠償額に反映する重過失とは認めず、また公海死亡法という精神的慰謝料を損害として認めない法律の適用を前提とした法的主張を行っていた。我々の米人弁護士が有利な判例等を駆使して精力的な交渉が続いていたが、大きな進展はなく、二〇〇一年一二月には、一旦、提訴の方向で腹を固め、一部マスコミは「提訴へ」とフライング報道をした。

提訴のリスクと交渉の続行

しかし、簡単に提訴に踏み切れない事情もあった。

海軍は、裁判ではいきなり事故の全責任を認める作戦を取る。そして補償金額だけが争いであると訴訟を性格づけるだろう。となると、海軍に有利な公海死亡法が適用されるのか(となると慰謝料が認められない)、慰謝料を含む日本法の考え方やハワイ州法が適用されるのかが主な争点になってしまう。真相解明のためのワドル艦長や民間人の尋問等が行われない可能性が高かった。まして、三三家族の弁護団は和解解決の方針を出しており、提訴中に多数派が和解すれば、訴訟派は「金目当てではないか」とのレッテルを貼られるおそれもあった。

加えて、九・一一のテロ事件以来、アメリカの世論は一変し、軍の秘密情報の開示はますます困難な情勢にあるばかりか、訴訟を担当する超保守派のアシュクラフト司法省長官の発言力はますます増していた。

依頼者のリスクは相当に高い一方、非金銭面でも金銭面でも成果の可能性は低いと言わざるを得なかった。

こうして私たちは、提訴は最後の手段として残しつつ、交渉で遺族の要求をできるだけ実現する方向に方針を転換せざるを得なかった。

事故原因説明会

特に力を注いだのは、米軍による事故原因説明会の開催とワドル来日だった。米軍としては、「査問委員会の記録があるではないか、軍服をぬいだ私人ワドルに命令はできない」の一点ばりで、一向に進展しなかった。

寺田さんは横須賀基地へ自ら赴くなどして粘りに粘った。海軍はついに「家族のみが質問するのであれば」という条件で折れ、一〇月二三日、在日米海軍司令官チャプリン少将が自ら家族の質問に答えるという前例のない事故説明会が都内で開催された。

そこには、寺田・古谷の他に、他の遺族一家族三人も出席した。どの家族も、猛勉強して準備し、臆することなく堂々と、また切実に、それぞれの疑問点をぶつけた。普段、寡黙な古谷乙善氏も鋭い追及を見せた。

チャプリン少将の答えは、事故はワドル艦長以下の過失の連鎖であって、海軍の組織上の構造的問題はないとする査問委員会の枠を大きく越えることはなかった。しかし、役人答弁ではなく、搭乗した民間人の存在が事故の原因となったことを認めるなど全体に率直なものだった。また、再発防止策をまとめたレポートも用意されていた。

皮肉な見方をすれば、説明会は、遺族の心情と世論に配慮した米軍の儀式にすぎなかったのかもしれない。しかし、国家および軍隊という巨大な組織が介在する事故であるがために、遺族は、通常の事故の場合以上に、当事者であるのに加害者や関係する手続に手が届かず、疎外感を味わってきた。

かといって、裁判という手続はあまりにリスクが大きすぎる。自らが闘って勝ち取った説明会で、加害者側の最高責任者の一人に直接、面と向かって問いただすという手続は、遺族にとっての正義を取り戻す重要なステップだったのではないだろうか。

ワドル来日

さて、ワドル来日については、〇二年四月の渡米でワドルの弁護人と会って道筋はつけたものの、海軍の命令による来日が海軍側の最終拒否にあい、コーディネーターの骨折りで自主来日が決まったのは一一月半ばだった。さらに、そこから思わぬ事態となる。

訪日記者会見の翌日は、三三家族の米軍との和解の日と重なった。愛媛県はワドル来日発表に対抗するかのように、来日はPTSDの生徒の症状を悪化させるおそれがあるとの医師談話を発表。宇和島水産高校も献花を拒否すると表明したのである。寺田さんも、他の嫌がる家族の意向を無視してわがままを通そうとしているような非難を受けた。

寺田さんは、ワドルには会いたいが、ワドルの訪問で傷つける家族がいるのであれば宇和島には行って欲しくないと動揺。ワドルはワドルで、訪日をできるかぎりプライベートに行いたいと、もっともだが無理な要望を出してくる。遺族や家族の中には、ワドル来日でまたマスコミの取材騒ぎに巻き込まれたくない、和解して心のけじめをつけた後に今さら加害責任者の顔を見たくはないと、当たり前の感情を抱く人がいることは充分理解できた。

他方、人間として、会ってくれる人には誠心誠意謝罪したいというワドルの心情は本物に思えた。

家族の心情を傷つけずに、会いたい人には会う機会を保障し、会いたくない人にも間接的には謝罪の気持ちを伝えるにはどうすればよいか、寺田さんも弁護団も苦悩した。

突破口

そんな中での突破口は、PTSDが悪化するおそれを指摘した生存生徒の医師が積極的に協力してくれたことだった。医師のコメント原文を詳細に検討すると、PTSD悪化のおそれと同時に、加害者の真摯な謝罪を機に症状が改善する可能性も公平に述べ、大事なことは生徒にその選択を与えることだと指摘。そのため、医師自身がマスコミに極秘に動いて、ワドルと生徒との面会の機会を設けることが実現できたのだった。

もう一つは、ワドルの県知事への手紙だった。ワドル来日に関与していない県は、ワドル来日を県批判に利用されるのではないかと過剰に警戒していた節があった。そこで、ワドルから、県知事宛に、手紙を書いてもらうことになったが、彼は、その手紙の中で、「仮に献花ができなくとも、校門の前で祈りを捧げたい」との切実な思いをつづっていた。この手紙は、県知事からワドルの献花を認めてよいのではないかとの趣旨のコメントとともにマスコミに公開され、拒否から黙認へ県および学校の方針の転換を決定づけた。とはいえ、いったん、生徒の健康をたてに拒否したこともあり、学校関係者が献花に参加することはなかった。

寺田さんの心情

寺田さんらは、マスコミの目のない東京で、ワドルと会った。以下は真澄さんの記者会見からの再構成である。

 

―なぜワドルと会ったのですか。

じかに会って、えひめ丸に乗船していた息子のことをワドルさんに話したかったんですよ。実習に前向きだった息子のこととか、さまざまな想い、夢を抱いていた息子のことを知ってもらいたかったんです。息子の写真を見せ、小学校の卒業式のときに書いた「六年後のぼくへ」という手紙も読みました。

「私の息子は衝突後、えひめ丸の甲板に上がっていたんだ」ってことを話すと、「知らなかった」と泣かれました。

 

―ワドルの涙をどう感じましたか。

その姿を見て、ワドルさんの人柄に、ある人間らしい生き方を見ました。被害者と加害者という構造のなかでとても複雑な想いです。だからこそなおさら、なぜあんな事故が起こったんだろうと悔やまれてなりません。

 

―怒りは感じませんでしたか

私の最愛の息子、私の生きがいであった息子を奪ったのは、グリーンビルに乗っていた乗組員で、ワドル艦長が責任者であった事実は決して一生涯消し去ることはできません。事故そのものを私は許すことができません。でも、ひょっとしたらワドル元艦長も、海軍という組織のなかでのある意味被害者なのかなと、そういう風にも感じました。

 

―事故から一年一〇カ月の道のりを振り返って、今思うことがあれば。

この日まで、夫婦で歩んできた過程は、突然の事故で息子を失った親にとっての心の叫びだったんです。そういうなかで私たちは、息子の命を無駄にしたくないという想いから、真相究明、再発防止を要望してきました。

親として何がしてあげられるだろうと考えたとき、そういうことをせずにいられなかった私たち親がいたということです。でも私たちにとっても、生きるためにはそういうプロセスを踏む必要があったんです。そういう私たちの声に、多くの方々が支援してくださり、事故があった当初も多くの支援と、あたたかいお心をいただいたことには、とても感謝しております。

マスコミのみなさんには、ああいう事故で家族を失った遺族、生徒や乗組員の心の中が大事だってことを思いやってくださることをお願いしたいと思います。生きていくためには、みんな違うんですよ。苦しい状況のなか、どう生きるか、それぞれの選択があるんです。そこをどうか、大切に思いやっていただけるような取材をしてください。

弁護団とワドルの面会

ワドルの宇和島来訪をできるかぎり全家族のためのものにするため、弁護団は原則として同行せず、前面から退いた。ただ、ワドルに事実関係と再発防止の点で協議を申入れ、都内で会談を持った。

疲れた様子ではあったが、ワドルは率直に再発防止についての考えを語った。民間人のための体験航海は、本当に体験が必要な軍事関係の業者と政治家に限定すべきだと言う。また、浮上したところ、本来いないはずの船が近くにいるといったニアミスは日常的に起こっているらしい。最後は人の問題だと彼は述べる。

彼が率直なだけに私たちは迷路に入ってしまった。上命下服の軍隊、特に潜水艦隊といった特殊な世界では、艦長は絶対的であり、傲慢なくらい、自分はミスを侵さないと信じている。そういった「文化」に自分もそまっており、その傲慢さの中で事故は起きたと彼は認める。

では、その傲慢さを解く方法はあるのか? それは人は失敗から果たして学ぶのだろうか、という根本的問いでもある。彼は空軍の講習に講師として呼ばれ、今回の失敗経験を自ら語ったという。しかし、彼を見る目は冷たく、無関心だった。それが軍というものだ。ワドルは私たちに重い宿題を残して、今後の協力を約束して去っていった。

長い喪の道

ワドルとの面会後の会見で、真澄さんは和解の気持ちを固めたことを表明した。亮介さんも、ワドルからの直接の説明を聞いて、彼がえひめ丸を訓練ターゲットとしたのではないかという疑問は消えたという。しかし、その夜以来、真澄さんは、自分がワドルを赦してしまったのではないかと、自責の念に悩まされ続けている。

日航機事故の遺族の悲哀の研究を「喪の途上にて」としてまとめた野田正彰氏は、遺族それぞれに独自の時間の流れがあり、喪の道の歩き方があるのに、弁護士も含めた喪のビジネスがその「決まり」を押し付けていくことを批判している。

米軍、県、マスコミ、弁護士、地域社会の(見えない)多数者。「相手は米軍、事を荒立てても…」「死んだ者は帰ってこない、相手も非を認めているのだし」「そろそろけじめをつけては…」「いつまでもたてついていると他の人に迷惑がかかるよ…」。

少数者ながら物を言い続けることの大変さを、寺田さんと同じ愛媛出身の私は身にしみて感じる。自分たちとは違う解決の仕方を選んだ他の家族の気持ちも尊重しつつ、自分たちのやり方について「私たちも生きるためにはそういうプロセスを踏む必要があった」と述べる寺田さん夫婦。

彼らは、まだ長い喪の途上にある。

    

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