生 地 に 泣 か さ れ た タ ペ ス ト リ ー

                                                   

刺繍作家 長艸敏明

 

三階特別室の壁に鳳凰のタペストリーがある。変色し、ボロボロになっていたそれらを修復、あるいは新調復原したのは京都・西陣の刺繍作家、長艸敏明さんだ。

 

手始めは、腐った布、長年溜まったホコリと向き合う作業

龍村美術織物から依頼を受け、見積もりのため修復前の公会堂に三度足を運んだ。高いところにかかったタペストリーを、梯子に登って観察するのは「暗いし、高いし、こわいし」の大変な作業。一二枚あるタペストリーは長年の光に焼け、ホコリが溜まり、当初の色は残していない。東側ステンドグラスの対面にある四枚は、日光が直に当たるため特に傷みが激しく、新調するしかないと判断、比較的傷みの少ない南側、北側の壁にかかる八枚は修復することとなった。

まず修復から取り掛かった。届いたタペストリーは、「すごい状態」だった。布が腐って、折れば紙のようにパラリと破れる。長年のホコリが舞い上がる。「汚い、臭い、しんどい仕事でした」。地の布は使えないが、刺繍糸は丈夫なのでそのまま使うことができた。

修復の手順は、まず古いタペストリーの刺繍部分だけを切り抜き、ゴースという薄い絹地の上に綴じなおす。さらにゴースに綴じ付けた刺繍部分を切り抜き、新しい台の生地にアップリケのように綴じ付けていく。しかし、糸と糸の間には何十年間のホコリが溜まっている。それをレンズで見て、小さい刷毛で取りながらの作業。遅々として進まない。細かい作業には外科用のはさみを使う。「修復は外科手術みたいなもんです」。

台の生地に綴じ付けるとき、問題が起こった。龍村美術織物が修復用に新しく織った生地だが、京繍で使われる能装束などの生地にくらべ非常にやわらかい。斜め方向にすぐ伸びる。ストッキングのように伝線する。その癖がわからず、いつもと同じ感覚で縫い付け、出来上がって立てかけたとき、刺繍の重みで皺がよってしまった。「修復分八枚で、アップリケの段階で三枚やりなおしました」。

二〇〇一年九月の中旬から取り掛かった修復作業は、四カ月間六名がかかりきりだった。

 

色・太さ・縒り…当時の糸をつくってから新調復原

新調は、糸の再生から始まった。長艸さん自身が作った何百色とあるカラーチャートと対比し、当初の色を推定していく。何年に作られたのかがわかれば手がかりになる。明治の初期以前、日本では草木染めが主流だったが、その後イタリアなどから岩金染料、つまり鉱物などを原料とした化学染料が入ってきた。草木染めのものは変色がどんどん進むが、化学染料なら色落ちしにくい。しかし、何年に作られたのかわからないので建物と同時期ならば化学染料だろうと推定、色を決め龍村織物に染めを依頼した。

使われた刺繍糸は、細い糸が何本も縒り合わされ、ボリュームがある。「蚕が出す糸二本で一デニール。それを何本かかけわせてサンプルを作る。カベ縒り、蛇腹縒りという手法が使われていることがわかったので、何本あわせて何度回転をかけたらこうなるか、と修復前の糸を二センチほど切り、顕微鏡で見ながら調べて何回もやり直しました」。一九色全部に同じ加工をする。「それで見せたら色をもっとこうしてくれ、ああしてくれって、予算に関係なく強烈に言われる。そんなんやったらよそでやって、と五〇回くらい 言 い ま し た わ(笑)」。

糸が出来上がったら、台の生地に下絵を描き、刺繍糸を並べ綴じ付けていく作業。ここでも生地に泣かされた。「生地目に対して垂直になるように下絵を描いておかないと、出来上がったときに曲がってしまう」。新調分のうち、一枚は、一からやりなおした。新調の刺繍作業は二〇〇二年の二月から初め、納品を終えたのが六月。四枚に四カ月かかった。

 

「これでいい」―確たる証しのない不安の中で

それでも刺繍なんて楽だと言う。「技術を持った職人が時間をかけて懸命にやればなんとかなる。しんどかったのは、作業の過程でキャッチボールができなかったこと。修復の場合、技術者としては絶えずこれでいいのか、どういう風にするのか確認を取っておかないと不安になる。それやのに今度の場合は、これでいいという答えが返ってこない。それが一番しんどかったですね」。

予算がない、しかし元通りに、という役所の姿勢にも腹が立った。「お金がないんやったら新しいものを置いたらいい。古いものがなんでもいいとは限らない。単なる模写では見る人に感動を与えられない。修復、復原もやるけれども、僕はやはり新しいものを作り上げることに主眼をおきたい。職人の技を持つアルチザンであると同時にアーティストでないと、正しい伝統をつくっていけない」。

取材後、綴じた後の写真を見せてもらった。「細かいでしょ、最初にやらはったのと比べて。修復の方が時間がかかってる。いい加減な仕事して後々まで『長艸や』って言われたらいややから」。

ながくさ・としあき

1948年京都西陣生まれ。京繍伝統工芸士。

生活も仕事もできるだけアヴァンギャルドにしたいという長艸さんの工房には、世界中からデザイナーや実業家が遊びにくる。父が刺繍以前に織物もやっていたので緞帳や化粧回し、旗から能装束までさまざまな仕事ができた。その世界に触れたい方は「貴了館」(075-415-8917・http://www.nagakusa.com)へ。長艸さんの作品が常時見られる。

 

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