鎚起師 浅野美芳
公会堂の正面、屋根の上には、二体の神像がのっている。戦時中の金属供出で取り外されたと伝えられる銅製の「ミネルヴァ」と「メルキュール」。今回、新たに復原し、創建時の姿がよみがえった。
二○カ月以上かけて、この製作に取り組んだのは、京都の鎚起(ついき)師・浅野美芳さんだ。
できるかと聞かれたらイヤやとは言えへん
鎚起とは、金・銀・銅などの金属板を鎚でたたいて打ち延ばし、カーブをつくって立体にしていく伝統的な金属加工の技。浅野さんは鎚起師の家に生まれ育ち、三代目として普段は茶道具や神仏具などをつくるほか、古墳から出土した金属製品の復元も手がける。どれも繊細な小宇宙だ。
ところが公会堂の神像は、座った状態で高さ一メートル七○センチ強、等身大より大きい。「たまたま、作れる人を探しておられたとき、声かけていただいたのですが、こんなんやれるわけないと思いましたね。まず、デカすぎる。それに、作る日数を考えたら、ほかに抱えてる仕事ができません」。
そんな話も忘れかけた一年半後の二○○○年一一月、橋本さんから改めてやってくれへんかと頼まれた。「ほかにする人がおらんかったんでしょう。できるかと聞かれたら、イヤやとは言えへんのがうちの代々で。けど実は納品の一○日前まで、ほんまにできるやろかと思ってました」。
見上げては古写真と比べての模型作り
半世紀以上も不在だった神像の
一○分の一の模型作成に約二カ月。写真はどれも、建物全体を写したものにたまたまのっかっているだけで、像自体正面から撮ったものはない。だから作っては上の方に置いて眺め、写真と比べてチェックした。
手に何を持っているのか、マントや羽はどうなっているのか。事典などでそれぞれの神のアイテムを調べ、何とおりかのなかから、写真に近い形のものを選ぶ。
「見比べる実体がないので、あーでもない、こーでもないと。『こうや』て誰も断言できませんから。橋本さんは粘土の実寸原型をこしらえるまで、週に一回、日曜ごとに来はりました」
二○○一年八月上旬、粘土で原寸大の模型ができた。それをレーザーで実測し、CG再現の図面と照合、ズレているところを微調整する。八月下旬に粘土完成。石膏で型取りし、樹脂におきかえる。
「問題は金取(かなど)りでしたね。どれだけの大きさをたたけば、この大きさに仕上がるか。大きすぎたらロスがでるし、小さくては継がんなん。その点、粘土から自分らでやったから、質量の感覚がわかって良かったです。普通はよそで型をとってもらうんですよ」
銅板は最大で二×一メートル。これをどう切るか、樹脂の型を採寸して決めていく。
たとえば顔の部分は、直径が八三.四センチの丸板をたたいた。継ぎ目があると時が経てば筋になるので、頭一個は一枚でと、こだわった。
組み立てて、眺めて、バラしてたたく繰り返し
厚さ二・五ミリの銅板をたたいて、二・二ミリくらいになる。屋外の神像だけに、均一でないと強度の弱いところがでるし、調子がそろっていないと見た目のバランスも悪くなる。
「地金(じがね)として普段扱う金属板の厚さは、最大でも○・八ミリです。造形作家なら厚い板でも作りますが、作品として納得できればいいので妥協が起こる。今回はそれではダメで、確実にこの姿へもっていかんなん」。いくつに分けて、どう組み立てていくか。どんな道具を使うか。全体の設計こそ、確かな技術で発注者の意図に応える心意気ならではだ。
パーツは、一体あたり八.一○個になった。これを少しずつ仕上げていく。組み立てては眺め、カメラに収めて古写真と比べる。またバラしてたたいて調整する作業の繰り返し。
ある程度形ができてからは、あて金が使えない。内側に松脂まつやにを塗って、へこまないようにした。頭一つで十数キロの重さ。でも一ミリ狂ってもバランスは崩れるし、ボルトの締め具合で、像は傾く。しかも、いったん固定したら取り返しがつかない。
最終的に台座に組み立てたとき、うまくまとまってくれるかどうか。ギリギリまでプレッシャーを感じていた浅野さんに、橋本さんからは納品直前まで、マントの形や羽の長さが「なんかちがうで」なんて注文がきた。「最後の最後まで、たたいてました」。
雨が入らないように、鳩や小鳥が止まらないように、工夫もこらした。内部にはステンレスのパイプをとおしてしっかり固定、台風でも吹き飛ばされない。
二○○二年八月二六日納品。二体の神像は、技能の発展(ミネルヴァ)と商売繁盛(メルキュール)を願って、末永く大阪を見守ってくれるだろう。
あさの・びほう
1943年京都市生まれ。
六世高木治良兵衛としての釜師と、鎚起師の二つの立場で創作に励む。