中央公会堂の礎

〜よみがえらせた人々、守った人々〜

昨秋リニューアルオープンした大阪市中央公会堂。いったんは取り壊されそうになっていた大正生まれの建造物が、あでやかによみがえった。最新のホールに負けない使い心地と、新築にはない気品をあわせ持つ。

さまざまな形で保存・再生にかかわった人たちの思いを通して、その重層的な魅力と価値を紹介したい。

 

気概あふれる技術者集団〜先端と伝統が結集

 

公会堂は市民社会の誇り

          保存・再生工事の総合プロデューサー 橋本健治さんに聞く

大阪市中央公会堂の保存・再生工事は、三年半かけて行なわれた。現場内で汗を流した建築関係者だけでも、一日当たり平均一○○人。このほかに設備関係、修理や製作など多くの人が、さまざまなかたちでたずさわっている。

橋本健治さんは現場に常駐し、工事全体の指揮をとった。「現地だけでなく、各自の持ち場で修理復原作業に当たっていた人もいます。さまざまな仕事内容に目を通し検討する必要がありました。役所の担当者も、建築、電気、機械と分かれていますし」。

バラバラに発注しているものすべてに目を通して統合していく。いわば総合プロデューサーだが、形の上では、市の工事課から委託されている設計監理の実務を担当する現場代理人。「設計のはじめから工事のおわりまで連続して担当した立場として尊重していただいて、業務はスムーズに果たすことができました」。

 

復原と性能アップが同時に求められた工事

一九八八年、大阪市は公会堂の保存を決め、具体的な方向性の検討に入る。一九九五年に決定された基本方針は、次の三点が大きな柱だった。@当初の意匠を尊重しつつ構造を補強する。A損なわれた部分は可能な限り復原する。Bより活用しつづけるため機能性を高める。

「つまり歴史的建造物として保存修理し、現役のホールとしても活用整備する。こんな工事はまずありません。ふつう文化財の修理工事は現状を変えないことが前提です。公会堂に行ってご覧になっても、どこを補強したかわからないでしょう」

基本方針に沿って行なわれた公募型設計プロポーザルによって、橋本さんの所属する坂倉建築研究所グループが選ばれた。現在大人気のカフェテラスを含む、地階の使い勝手などが評価されたそうだ。

さらに、建築主体工事の施工者も公募型でコスト縮減提案入札だった。「設計者が工事の段階を監理するのは本来の姿だと思いますが、国の業務では今、設計と監理は分業する方向です」。

 

隠れていて現れたことが設計変更を迫ってくる

一九九九年三月、着工。全体の工事は、前半と後半に分けられる。「現状をはずしていく作業がまずありました。外周の空堀にある石とか、灯具等いろんなものを、前もってとりはずしていきます。はずす前を見ておく、はずしたものを見る、大事なものはとっておく、調査記録が重要なんです」。

文化財は通常なら、前もって調べたあと設計にかかる。だが公会堂の場合は同時進行のため、工事中にどんどん本来の姿がみえてきた。

築後八○年以上になる建物だけに、何度も大小の修理がされている。安上がりにきれいにはなるペンキ塗りは繰り返されたようで、本来の仕上げのよさが損なわれてしまっていた。「とにかく経過を見逃さんようにせんならんという前半に対して、新たに手を加えるのは、またちがう局面です」。

「失われたもので復原できるものは実行し、保存できるものは修理する」基本方針だから、新たに判明したことがらは、計画変更を迫ってくる。職人は毎日仕事をするし、稟議の間じっと待ってはいられない。役所と施工者との間で機動的に対応するため、「ワーキング」という実務対応チームをつくった。

「次々わかる新事実に対して指示をせんならん。館長さんにも入っていただいて要望も聞きながら、答をだしました。現場は待っているし、変更は費用にかかわりますから」。役所の人、学識経験者、文化財修理関係者、施工者も交えてのワーキングが、機動的な対応を可能にした。

「設計者は、設計後でもたえず検討していますので、変更はつきものですが、公会堂の場合、もの自体があって現物からの物理的な要求変更がでてきました。設計者側のこうしたいという思いと、存在している建物からはねかえってくるものとがあって、新築とはちがうやりとりになりましたね」

 

はしもと・けんじ

1945年、神戸市生まれ。坂倉建築研究所。公会堂工事の現場内に工事のない日も毎日詰めた。工事現場は朝が早いので、かえって規則正しい3年半の公会堂生活だったとか。現在は工事報告書の作成に忙しいが、その後、ひと区切りをつける予定。

 

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