速 人 物 往 来〈26〉

戦後大阪に咲いた新聞ジャーナリストの夢と挫折

――足立巻一『夕刊流星号』

倉橋 健一

あだち・けんいち

1913年東京生まれ。詩人・小説家。国語教師、『新大阪新聞』勤めを経て1956年より文筆業。児童詩の雑誌『きりん』の編集や、立川文庫の研究でも知られる。晩年は大阪芸術大学教授など。1985年病気のため死去

 

「その戦後の新興新聞を《夕刊流星号》とよぶのは、社章が流星に似ていて、そして流星のように光芒を曳いて虚空の暗黒に消え去ったからである」足立巻一が一九八一(昭和五六)年秋、新潮社から刊行した『夕刊流星号――ある新聞の生涯』は、こんなふうに書き出される。

夕刊流星号とは、戦後、タブロイド版横型というユニークな紙型で、多くの人びとの耳目をあつめた『新大阪新聞』の愛称であり、記憶される方も多いだろう。わずか二ページしかない創刊号では、その四分の一に近い紙面を学藝欄が占め、連載小説は武田麟太郎の『ひとで』(遺作となった)が、その挿絵は小磯良平が担当した。

編集局長は毎日新聞から出向した黒沼大治郎で、創刊に先立って、全員で三十名ほどの編集局員を集めると、こんな訓示をしたという

「目標は《ロンドン・タイムズ》だ。日本の《ロンドン・タイムズ》をつくるのだ。イギリスの大衆新聞《デイリー・ミラー》の発行部数はざっと五百万、《デイリー・エクスプレス》四百三十万、それに対して《ロンドン・タイムズ》はたったの二十五万だ。だが、《ロンドン・タイムズ》こそ、″イギリスの声″と呼ばれ、十九世紀をつうじてヨーロッパの新聞中の新聞といわれてきた。……」

この黒沼のモデルは、戦争中の歌謡曲『長崎物語』『空の神兵』『戦陣訓の歌』の作詩者梅木三郎のこと。作品のなかでは、「ドブネズミの感じがあった。四十六歳。小男で、いつも寝足りないように顔がすすけ、前歯がぞろりと抜けている」が、不思議な説得力をもっていたと、描写されている。

この新聞、一九四六(昭和二一)年二月四日に創刊された。もともと夕刊は、戦時中の一九四四(昭和一九)年三月六日からは全国いっせいに停止されていた。敗戦後も、占領軍総司令部が新聞用紙割り当ての管理権をにぎり、それを利用して既存新聞社を押さえ、朝刊を発行する新聞社には夕刊発行を許さなかったことから、たくさんの小新聞が生まれた。流星号も毎日新聞社の傍系として発行され、そのため、幹部はすべて毎日新聞社の出向社員で占められた。だが、往年の新聞人の野趣ぶりは、この出向という自由の獲得によって燃えたぎったのである。

足立巻一は一九一三(大正二)年東京の神田生まれ。九歳のとき、母方の叔父のいる神戸に移り住んで、神宮皇学館卒業後も神戸で教師になり、一九八五(昭和六〇)年八月の死にいたるまでこの地を住処とした。戦後、軍隊から復員して、新大阪新聞社スタートと共に入社、以後、学芸部長、社会部長、編集総務と歴任するが、そのため塗炭の苦難も体験した。十年経って退社、文筆業となり、ラジオ・テレビ番組の構成から文学全集の編集などにたずさわり、たくさんのエッセイ集、ノンフィクション、小説、研究書に詩を残す。なかでも竹中郁、井上靖、坂本遼らと組んだ子どもの詩雑誌〈きりん〉の編集、芸術選奨文部大臣賞を受けた本居春庭の評伝『やちまた』などは白眉だった。面白いのは四十五歳になってから第一詩集を出したことだ。おかげで私などとも交わりができたが、穏厚な人柄にひそむこの広角度の仕事ぶりに、私はひそかに憧れたものだった。

さて、この新聞社、「ベートーベンを、チャイコフスキーをゆかたがけ、下駄ばきで聴いたっていいではないか」という発想から、日響の西宮球場での野外演奏会を実現させたりするが、一九四九(昭和二四)年一二月一日は、まちがいなく転落をはじめる最初の日となった。毎日をふくめ、全国大手の新聞社もつぎつぎ夕刊発行が可能になったからである。むろん、ここからが正念場と、社員達は《ロンドン・タイムズ》の夢をかかえて奮戦するが、資本の攻勢の前には詮かたなく、みるみる発行部数は凋落していく。

経営権も右翼がらみのやくざに乗っとられ、主人公の伊坂も、彼らのいう人事を承諾しなかったことで、とあるキャバレーにつれこまれ、陰毛を焼かれたり、裸にして四つ這いにされるなどの凌辱によるリンチを受ける。十二時間が経過して、やっと外へ出たところで、「一挺のピストルが与えられれば、やつらの巣へ仕返しに乗りこむ前に、自分の心臓にぶっ放しているにちがいない」と感慨が書きとめられるが、足立巻一はまさに、戦後大阪のこの修羅を経験したのであった。

 

のち、足立巻一は、この本と同じ題名の第一詩集のあとがきに、こう書きとめる。

「彗星の時期は一九四九年一二月までだった。その年、大新聞が一せいに夕刊を発行するようになると、…みじめな転落がはじまった。そうなると印刷工場も社屋も持たない新聞が、それまで彗星のように輝いたということもナンセンスだった。しかし、そのころぼくたちは大資本から独立して、小共和国を作ることをゆめのように考え、一月一日大幅に減ってゆく発行部数にもむしろ敵意を湧かせていたものである」

この一方で、足立巻一は、新大阪新聞社に入ったおかげで、毎日新聞大阪本社の当時学芸部副部長だった井上靖を知り、親交を重ねることになり、先にのべた〈きりん〉を手伝うよう誘われ、竹中郁を紹介される。大阪市北区梅田町三五、焼け跡の急造二階建ての版元尾崎書房で、仕事がひけると毎日のようにそこに集い、夜おそくまで話し込んだという挿話は羨ましいほど明るい。

いずれにせよ、この一冊。大阪を舞台に、翻弄される一小新聞社の眼差しをとおして、戦後十年にわたる日本の新聞ジャーナリズムの動向を生々しく描き出した。大阪の地が、この種の悲哀をものみこめたというところも、興味深い。

 

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