藍生ロゴ 藍生5月 選評と鑑賞  黒田杏子


はなたれし流星の声追儺の夜

(北海道)五十嵐秀彦

 追儺の句として異例ではないか。流星という言葉もここに置かれて斬新である。ともかく流れ星を放つ者の存在を想わないとこの一行は生れない。そして何者かが星を放ったのだけれど、その星はこゑ、声を発している。地上には鬼に扮した人間たちも躍動している。試みに歳時記を開いて、追儺の例句を当って頂きたい。どの句にも納得がゆくけれど、驚きも謎もない。横尾忠則描くところのかの寺山修司の舞台ポスターなども眼に浮んでくる。しかし、この句は俳句として提出されている。たった一行十七音字の極小の詩。これは本州の追儺ではない。雪と氷の世界。北欧とか北海道という世界の追儺の夜だ。幻想的というよりも、その土地、風土に根ざす実にリアリスティックな俳句なのだと圧倒されつつ感動を深めた。



大寒や誰が訃報にも失語せず

(北海道)鈴木 牛後
 大悟という言葉が浮んだ。つぎに大悟徹底という四字も浮んできた。仏教の言葉で、大悟して何らの煩悩迷妄を残さないこと。つまり悟りきること。新装成った皇居前東京会館での角川俳句賞授賞式。壇上で賞状と花束を受けて、あいさつをする。丸刈りの牛後さんはチベットとかタイの修行僧のたたずまい。どちらかと言えば小柄で痩身。背広を脱いで、べんがら色や黄土色の僧衣をまとったらぴったり。あの日の印象とこの句が私の内でぴたりと一つに重なった。俳歴こそ十年そこそこであるが、五十代のこの人は八十にして尚迷い多き私とは人生に対する腹の据わり方がちがう。この人の投句作品に啓発され、学び導かれてきたと私が感じ続けてきたその理由がストンと胸に落ちた。恐るべき詩人の出現を裏付ける一行だと感銘を受けた。



海苔を採る小舟小さき箒置き

(神奈川県)高田 正子
 巻頭そして次席の北海道の二人の作家。その作品とガラリと世界が転換。高田正子作品の登場です。吟行されたのだと思います。大昔、私も独りで出かけましたが、残すべき句は得られませんでした。小舟・小さきと小さな物に焦点が当てられてゆきます。その小さき物は箒。実に懐しい道具。箒もはたきも「死後ですよ」と人に教えられたことがありますが、それはありません。海苔舟が実にこざっぱりとして清潔であることが暗示されています。眼のよく効いた句ですが、正子さんの作品の魅力は人のあり方、さらに言えば、相手の生き方、人生観に対する共感を静かに詠み継いでこられたのだという感想を私はずっと持ちつづけてきています。


4月へ
6月へ
戻る戻る