藍生ロゴ 藍生4月 選評と鑑賞  黒田杏子


棒鱈の顔はいづこを放浪す

(京都府)河辺 克美

 貌のない頭部の剪り捨てられた鱈のすがた。頭ではなく、その顔はいづこに。放浪すという言葉は河辺克美の詩語である。台所に登場する棒鱈が俄然存在感を示した。人格ならぬ魚格を得てこの世のどこかをさまよっている。しかも顔である。ユーモアとペーソスあふれる一句。冥利に尽きると真鱈のご恩返しがあるかも知れぬ。日本海側で獲りたての真鱈の美味に長年親しんできた私は干鱈をこのように詠み上げた京女の作者の生活感覚に感銘を受けた。こんな秀作に出合える瞬間こそ選者冥利というものである。



冬の蠅打ちて始まる独りの夜

(東京都)菅原 有美
 有美俳句が王道を歩み出した。もともと若くして句座に参加し、すぐれた作品を発表していた人である。仕事による海外生活。そしていのちそのものであった陸前高田の産土を生家もろとも三・一一で失う。人生そのものの喪失とも言うべき現実。喪失は失うことであるが、多く精神的なものにいうと辞書にある。快活なこの人の率直な自画像。この句を以て菅原有美の本格俳人への道がスタートする。そう思わせてくれる作品である。



果物につめたき匙をクリスマス

((東京都)糸屋 和恵
 暖房の利いた明るくたのしい気分の部屋。つめたき匙と書ける作家が糸屋和恵である。果物に。クリスマス。完璧な一行。あどけない二人の姉妹を見守る幸福な夫婦。祖父母もそこに居られるのかも知れない。仕事と家庭、共に充実している一家の守護神なる作者。その一句はこの人の代表句となる。


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