藍生ロゴ藍生4月 選評と鑑賞  黒田杏子


霜柱妻の切火を背に受くる

(東京都)深津 健司

 切火は火打ち石を打ち合わせて取る火である。石に金属を当てて取ることもある。この火花から火を熾すことも出来るが、浄めのために人や物にかける火打ち石の火花の火と解することがこの句には適うであろう。十五周年の集いの折、「江戸百景ふたたび」吟行が開催された。いくつかの吟行コースを設定、責任幹事の下に結集、大勢の会員が吟行に参加、充実した時間を過ごした。この句の作者、深津さんは辰巳組の親分として深川を往った。いよいよ吟行に出発というとき、深津さんがとり出した赤い布袋。冬麗の深川門前仲町の路上に切火がこぼれ舞う。吟行の安全、平穏そして全員に佳吟が恵まれますようにと。聞けば深津家では瑩子夫人が夫の外出の際に切火を切ることが永年の習慣であるとのこと。私はこの話を耳にして、深津健司句集のタイトルに『切火』を提案した。ご夫妻もとても喜ばれている。遠からずその一巻が藍生の連衆の許に届けられる。その日をいまから私は心待ちにしているのである。



知らぬ子と鴨の陣見て別れけり

(東京都)木津川 珠枝
 こういう句にめぐり合うと、俳句っていいなあと思う。たった一行十七音字の宇宙はひろやかで深い。原稿用紙何枚もの短編小説、何十行もの現代詩。そういう表現形式にすこしもひけをとらない。木津川珠枝という俳人の人生がまるごとこの一句にこめられており、無限の余韻を読み手の胸にひろげ、たのしませてくれる。



厳しさの中に安らぐ冬椿
(千葉県)樋口 愛子
 愛子さんはこの世を発たれた。投句という形式を以て、こういう句を私達に遺されて。愛子さんは山口都茂女さんとふたりだけの吟行も重ねて句を磨いておられたと聞く。都茂女さんは愛子さんの柩に舞った雪を忘じがたく、次の句集名を『雪華』とされる決意を私に告げられた。私たちは人の恩、句の恩によって、生かされているのである。


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