藍生ロゴ藍生8月 選評と鑑賞  黒田杏子


咲き満ちて暁の九重桜かな
        
(三重県)横山 笑子
 京都府京北町常照皇寺のかの名木の満開のときに行き合わせたのであろう。余分な言葉はない。これ以上でも以下でもない表現である。現場に立っての作品であるからこそ、装飾的な言葉をすべて省くことが出来たのである。山国御陵とも呼ばれるこの山内の暁闇に、花の木の下に佇む一期一会の時を得た作者の心のたかぶりが一句の存在感を高めている。この句をスタートに、句境の広がりと深まりが期待できる。



黄がひとつひらき田舎の花菖蒲
(東京都)安達 潔
 名のある庭園の、手入れのよくゆきとどいた菖蒲園の菖蒲ではない。田んぼの畦のようなところに植えてあるあやめの黄色を私は想った。黄色の花がひとつだけ咲き出している。田舎のと言ったところに独特のニュアンスが出ている。田舎むすめの新鮮な美しさのように印象深かったのであろう。水田のひかり、あたりの民家のたたずまいなどが一句の背後にいきいきとひろがって見えてくる。あやめを菖蒲と作者は見まちがえているかも知れないが、対象のとらえ方に独特の感性がはたらいていて魅かれた。



さなぶりの安堵をしかと記すべく
(千葉県)石井 喜久枝
 いつぞや坂東吟行の折、参加者全員に丹精された自家製の白米をおみやげとして下さった、その作者の句である。さなぶりという季語が分からないという人は、いますぐ歳時記と辞書を引いて調べて欲しい。藍生にはさまざまな暮しの人々が集っている。自分の生活にはない句を作られる人の句をしっかり鑑賞することで、俳句作者としての人生が豊かになる筈である。



7月へ
9月へ
戻る戻る