(第1回オール関東モデルカー・レーシング選手権 1965年11月28日 東京 中野サーキット)
 最初のメジャー優勝!!
 
 全日本モデルカー・レーシング協会、全関東サーキット場協会の主催による「第1回オール関東モデルカー・レーシング選手権大会」が1965年11月28日、東京 中野サーキットにて盛大に開催された。
約1年前に、京都に日本初のサーキットが誕生してから約1年、すでに全国では約200におよぶサーキットが誕生し、まさに1965年は日本中のほとんどの大人や子供がこのモデルカー・レーシングに熱中するという前代未聞の大ブームとなっていた。
そんな中、関東地区初の個人タイトル戦が開かれ、我が鳥海志郎氏もこの初の個人戦に当然の如く挑むこととなる。
さて、この世紀のレースの舞台となった「東京 中野サーキット」とはどんなコースだったのだろうか。
勝敗の行方は、まずはこのコースの特徴を掴むことが大事のなのは言うまでもない。

TOP : The Tokyo Nakano Circuit. 
 中野サーキットは、全長65m、8レーンの当時東京都内においては最長を誇っていた超高速サーキットであった。
アメリカ型のレイアウトは、長い直線に続いて35度というきついバンクがついており、スピード型といっても、相当なテクニックも必要な難コースである。(上写真参照)
 ここで、1966年発行の「モデル・スピードライフ」誌1月号NO.3より「第1回オール関東モデルカーレーシング選手権大会 優勝車を解剖する」に書かれていた剣持雄二氏のレース解説を引用活用させて頂きご紹介したいと思う。
 
 去る11月28日に行なわれた、第1回オール関東モデルカーレーシング選手権大会のレースで、1/32オープン“鳥海志郎”、1/24GT菊池 勉、1/24F 秋山和雄の3氏が優勝しましたが、いづれも1年以上の経験があり、その優勝はレース前から予想されたものでした。
 1/32の鳥海氏は東京の山手地方を代表するベテランであり、1/24GTの菊池氏は下町地区を代表するベテランで、特にバンクでの思いっきった豪快な走りっぷりは見事なものです。
1/24Fの秋山氏はいうまでもなく、Fクラスでは抜群の強さを誇るシブヤサーキットチームの一員で、その走行振りは見ているものがハラハラするほどです。
 以上3名の方々のレースに対する熱意は大変なもので、1週間ほど前からレースの行われた中野サーキットに通い続け、コースを徹底的に研究し、コースに適した車を作り上げ優勝したもので、この熱意と根性はたいしたものです。
 そこで以上3名の優勝車はどんなモーター、あるいはタイヤを使用したのかということは、ファンにとって非常に参考になると思いますので、寸法、重量配分などのデータを公開してもらいました。ただしこれらの車はあくまでもレースの行なわれた中野サーキットに合わせた車で、どこのサーキットにも適したわけではありませんが、大体50m以上で30度前後のバンクを持った大型高速コース向きの性格を持った車といえます。
 以上の3車は決勝レース(7周)で、いずれもスタートからトップに立ち独走の形でゴールインしており、スタートのテクニックがいかに重要かあらためて認識したしだいです。
鳥海氏の1/32は・・・AMT プラモデルを使用しており、出場車のほとんどがクリヤーボディであった中で、目立った存在でした。スイングシャーシーというのは、スイングアームに前車軸を取りつけた形式です。
 菊池氏の1/24GTは・・・チャパラルでレベル社のフレームに軽量化のため穴を開けてあり、ガイドはスイングアーム付きです。モーターはFT-36Dを巻き直しで、シャフトを逆にFT-36式に出していますが、これはレベル社のシャーシーがFT-36用のためだと思われます。
 秋山氏の1/24F1は・・・インディアナポリス500型で、モーターはFT-36Dを巻き直しで、やはりシャフトを逆にしてあります。
 連覇に燃えた「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会」!!

 息つく暇もなく1966年3月26〜27日にかけて再び「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会」が開かれることが決まった。開催場所は、第1回の「中野サーキット」から、当時大型サーキットで鳴らした「東京タワーサーキット」へ変わっての開催である。
前回、1/32オープンクラス優勝者である鳥海志郎氏ももちろん連覇を狙って挑戦することとなった。
今度はディフェンディング・チャンピオンとしての防衛戦でもある同大会に鳥海青年はどのような秘策を練って挑戦したのであろうか。
 1966年発行「モデル・スピードライフ」誌4月号No.6「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権 参加要領」より、「ベテランドライバーの見たコース」に鳥海氏のコメントがあるので、例により引用活用させて頂き紹介したいと思う。
 

 直線の短いテクニック型のコースです。スタートして第1コーナーの手前1メートルでブレーキをかけ突っ込みます。平坦ですが割合に速くまわることが出来ます。車の後部をふらつかせながらまわりますと、フルスロットルでまわれます。
第2コーナーは軽いバンクがついていますから、あまり問題ありませんが、ドライバー席からは柱の影になって見えにくいので、コーナーはの入り方は注意をようします。
次ぎに最大の関門のS字がまっています。これは割合難しいので、十分練習を注いでください。
第3コーナーは小さいコーナーですが楽にまわれます。そして、ドライバー席の前の直線から大きなバンクつき第4コーナーへフルスロットルでまわれます。
そして、バンクを出たところでほんの一瞬ブレーキをかけて第5コーナーへ入ります。平坦な大きなカーブですからスピードを出してはまわれません。
 
第1回オール関東モデルカーレーシング選手権1/32オープン優勝者 鳥海志郎 
 今回の鳥海氏が製作した車は、やはり1/32オープンクラスに的を絞った新型車だった。
当時すでに常識となっていたクリヤーボディ+自作パイプ・フレームという基本はとっているものの、鳥海氏はまたもや1/24スケールの緑商会製フォーミュラ・シャーシーを利用し1/32スケール最強のマシンを作り上げたのだ。
第1回では、COX製1/24F1シャーシーを利用して圧倒的なマシンの差と最強のドライビングを皆に見せつけたが、今回も当時最高のF1シャーシーと言われていた緑商会製1/24F1シャーシーをうまく利用していたのは流石というしかないだろう。さらに、速いシャーシーは汚いという常識(!?)は氏には当てはまらない。それだけ完成された精度の高いシャーシーだったと言える。
しかし、どんなことが起こるかわからないのがレースである。レース結果は、「鳥海志郎の世界 PART 1」で紹介しているので割愛するが、下記にもコメントしている通り、実力は日本一だった。

TOP : The Tokyo Tower Circuit in 1966.

 再び1966年発行「モデル・スピードライフ」誌5月号No.7「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会を終わって」より引用活用させて頂き、大会内容を紹介したいと思う。
 

 第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会は、去る3月26―27日、東京タワーサーキットで行なわれました。今回は新人の活躍が目覚しく、また入賞者の年齢も14才から32才までと幅が広くマニアの層が厚くなったのは喜ばしいことです。

 大会の運営 

 第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会も無事終了しました。今回おこなわれた4種目に、各新チャンピオンが誕生し、その出身であるサーキット共々大喜びのことと思います。
 個人チャンピオンを決定するこの大会は、モデルカー関係の業者団体であるJMRA(日本モデルカーレーシング協会)の主催でありますので、第1目的はモデルカーレーシングを愛好しているファンに対するサービスであり、普及をうながすのが主であります。しかし、チャンピオンシップには変わりなく、レース運営を担当するJMRF(アマチュア団体である日本モデルカーレーシング連盟)としても、レース上に支障がないように一生懸命努力しました。

 車検と競技

1/32オープンクラス
 車検前にこのクラスで心配したことは、あまり不自然な大きさのタイヤやボディをつけてくる車が多いのではないかということだったが、さいわいにインディタイプとバンウォール・フォーミュラが圧倒的に多かったために、車検でのトラブルはほとんどありませんでした。車幅は、全部の車が65mmいっぱいでした。
 レースは、フォーミュラタイプの数が圧倒的であったために、接触事故が多かったが、さすがに前回の優勝者、鳥海志郎氏は強く2回連続優勝の可能性もあったが、惜しくも決勝レースのヘアピンカーブで他車に跳ね出され、順位決定戦で3位が決まったが、実力は第1であったようです。
 1/32クラスも1/24クラスとスピードもコーナーリングも差がないところまで進歩したことが、このレースの最大の見所であったようです。

 競技方法 
 
 競技方法としては、各クラスの出場車を赤・青・黄の三色に分類し、各サーキットの選手が予選並びに準決勝で重ならないように組み分けし、準決勝までは各自の色でわかりやすいように考えました。運営は前記の時間の関係もあってレース中の車の調整などは認めないことで、スピーディーに行ないましたが、まごつく選手もあったにせよ、逆にレースという雰囲気が盛り上がったようです。
 上位進出は3名に1名が可能である原則は守りましたが、結果的には準決勝が一番シビアであったようで、さすがに決勝レースに残った車は、多くのレーサーの間から選出されたエリートだけあって、すぐれた車ばかりでした。
 今後このようなレースはどしどし行なわれますが、最終的な日本一を決めるレースでもありますので、われわれJMRFでは、その権威を失うことのないように努力したいと思います。

 無念の涙を飲んだ鳥海志郎氏は、その後デイトナ・ストックカー・クラブの公式レースに自ら進んで出場するようになる。そして、ストックカーの第一人者として同クラブでの1966年度前期ストックカークラス総合優勝を果たした勢いを駆って、ついに念願だった第2回全日本モデルカーレーシング・チーム対抗選手権大会でのストックカークラスで個人タイトルをダッシュするという快進撃を見せた。まさに、鳥海志郎 黄金時代の幕開けだった。
この時の詳しいコメントと優勝車スペック等は次回「新 鳥海志郎の世界」で紹介する予定だ。

END


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