TOP : A Race Report of Hiroshi Fushida by '71 AUTO SPORT Magagine. Special thanks Saneishobou AUTO SPORT. |
The Motor Sport Life Of "Hiroshi Fushida" Part
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(C) Photograph, modeling by Hirofumi Makino. |
ところで、鮒子田 寛の1971年シーズンの幕開けは、以外にも日本でのレースであった。
それも正月気分がまだまだ漂う1月31日。彼は富士スピードウェイにいた。 新年恒例となっていた「オートスポーツ トロフィーレース」のF-500(フォーミュラ・ジュニア)に出場するという。マシンは、レーシング・クォータリーのアウグスタMKII 。設計者は解良喜久雄。このコンビネーションは、その後の富士グランチャンピオンシリーズチャンプ獲得まで続くこととなる。そして、約30年後の2005年、その勝利のコンビネーションは復活した。鮒子田 寛監督率いるインギング・モータースポーツF-3チームのテクニカル・ディレクターとして解良が就任したからだ。 さて、'71オートスポーツ トロフィーは、数々の話題と共に開幕した。このレースは、サルーンカーレース、ジュニアセブンレース、フォーミュラ500、ミニカーレースの4レースで構成されており、ジュニアセブンレースには、あの生沢 徹が乗ったポルシェカレラ6を高原敬武が乗って出場。見事優勝。そして、注目のフォーミュラ500レースは、これからの日本モータースポーツ界を背負う若手ドライバーである“高原敬武(アウグスタMKII
)”と“田中 弘(グリーンボール702)”が出場する。そして、我が鮒子田 寛も急遽出場する事となった。
鮒子田 寛のF-500のデビュー戦となったオートスポーツトロフィー第1戦は、寛の活躍で大いに盛り上がった。レースは、予選1位の堀のアローS1と3位の高田(ベルコ)のリードで始まる。3位以下は、鮒子田、田中らが小差で追う形。そして、4周目、ついに鮒子田がトップへ。その後も混戦が続くが、結局、高田のベルコが約2秒鮒子田を離して緒戦を制することとなった。 TOP : #2 RQC F-500 ( Hiroshi Fushida) and #1RQC F-500 ( Noritake Takahara) in '71 Auto Sport Trophy. Special thanks Saneishobou AUTO SPORT. |
上のコメントは、1971年三栄書房発行 AUTO SPORT誌4月号に掲載されていた「読者参加企画 人気ドライバー・ベスト10選抜・投票最終結果発表 ナンバー・ワンは生沢 徹に決定!!」より抜粋引用させて頂いたものだ。 生沢 徹、高橋国光の人気、実力は別格としても、我が鮒子田 寛がその2人に続く人気ドライバー投票総合3位を得た要因は、チーム・トヨタ時代の実績はもとより、やはり1970年シーズン、プライベーターとして海外チャレンジしたことがファンの心を捕らえたのではないだろうか。
“男一匹プロの道”
上のコメントは、1971年三栄書房発行 AUTO SPORT誌7月号に掲載されていた「鮒子田 寛 やとわれレーサー旅日記」より抜粋引用させて頂いたものだ。 |
日本人として初めてTrans-Amシリーズに挑戦することとなった寛は、ローレル・レーシング所有の71年型カマロでシリーズ第2戦プライヤー200マイルレースに参加することとなった。
5月26日、寛はこのレースのプロモーターである“キース・プライヤー”氏と面会し、その足でレンタカーを借りコースを数周する。 「ストレートがほとんどなく、小さなカーブの多い、それでいて結構面白そうなコースだ。1周1.6マイル(2.57Km)をあのバカでかいTrans-Amカーが30台以上も走るのだから、その激しさは想像以上だ。」と寛は当時のAUTO SPORT誌にコメントしている。 また、寛は日本人として初めてTrans-Amにチャレンジするというので現地のテレビやラジオにも引っ張りだこだった。とにかく、当時のアメリカ人にとっては、モータースポーツに日本人が挑戦するなんてことは考えられなかったようだ。 そして、本番を前に寛はウキウキしていた。それは、29日に行なわれる“インディ500”をこの目で見ることが出来るからだ。 それは、1972年に寛の呼びかけで日本にも来ることとなる“ウィルバー・ショウJr”の口利きで実現したことだった。 レースは、マーク・ダナヒューとアル・アンサーの争いに終始し、結局2年連続アル・アンサーの勝利で幕を閉じた。 「さあ、来年は絶対出るぞ!!」と心に誓う寛であった。 |
“純白のカマロ”
ローレル・レーシングのオーナーであるラリー・ドロシー氏と初めて会う。
上のコメントは、1971年発行三栄書房AUTO SPORT誌7月号「やとわれレーサー旅日記 (1) 鮒子田 寛」より抜粋引用させて頂いたものだ。
さて、第1回目の予選。ドライバーの顔ぶれが凄い!マーク・ダナヒュー、ピーター・レブソン、ジョージ・フォルマー、トニー・アダモウィッツなどなど・・・。
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ローリングスタートで6列目11番手からスタートした寛は、スタート直後からオーバーヒートに悩まされていた。
2台がフライング気味に寛の前に出たが、そこは大和魂(古いか!?)抜き返すも最終コーナーでスピンしそうになるが持ち堪える。 まだまだ序盤の15周。レースは95周あるのだ。現在寛は10位まで上って来ている。 しかし、自らまいたオイルに乗ってスピン。水温も上がり遂にピットイン。すぐにピットアウトするもののまたしてもオイルに乗ってしまいスピンアウト!! 今度はエンジンが完全に止まってしまった。万事休すだ!! レースは、ダナヒューとフォルマーの一騎打ち!ダナヒューリタイヤの後、フォルマーのマスタングがそのまま逃げ切り優勝。 リタイヤしたが、寛のドライビングを見て、ローレル・レーシングのオーナーであるドロシー氏はえらく感激してくれていて、次回も是非乗って欲しいと言ってくれた。チャンスがあればなんとか雪辱戦をしたいと寛。 さて、次のレースは、再び日本にトンボ帰りして、6月6日の富士グランチャン富士300Kmレースに再びマクラーレンM12で挑戦だ! |
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Fushida.
(C) Photographs by Hirofumi Makino.