The Motor Sport Life Of "Hiroshi Fushida" Part
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“魔のカナダ・コーナー” 1971年7月17日(このテキストを書いている日が、34年後の2005年7月であるのがなんとも考え深い)、Trans-Amシリーズに日本人として初めて挑戦している我が鮒子田 寛は、第4戦ロード・アメリカに参加するため、ウィスコンシン州エルク・ハートレイクに自身が運転するマスタングで3520Kmを走破してやって来た。そして、荷物も車に残したまま、寛はローレル・レーシングチームの真っ白なカマロに乗り込みコースに出て行く慌ただしさ。
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TOP : Hiroshi Fushida had an accident at Road America Raceway in 1971. Special thanks Saneishobou Auto Sport and Hiroshi Fushida. |
寛は、220Km/hに近いスピードでコーナーに突入せざるを得なかった。そして、なんとかスピードを落とそうとステアリングを思い切って右に切るのだった。
しかし、あまりにもカマロの突入スピードが速すぎた。車は横になりながらすっ飛んで、グリーンを横切り、ガードレールをなぎ倒し、なんと大木に向かって一直線に・・・・。
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TOP : Hiroshi give up !! He's confined one's bird cage. Special thanks Saneishobou Auto Sport and Hiroshi Fushida. |
寛が叫んだように、このロールバーは籠と同じである。もしこの丈夫なロールバーがなかったら死んでいたと後でコメントしている。
後でわかったことだが、ブレーキ・トラブルの原因はシューにあったことが判明した。カマロ用のブレーキ・シューは、一般乗用車用とレース用との見分けがつきにくく、メカニックが間違えて一般乗用車のものを取り付けてしまったために、シューがレース中に完全に消滅してしまったため起きた事故であった。
1971年は、寛にとっては試練の年となってしまった。“アメリカン・ドリーム”。夢で終わってしまうのか・・・。
(上の赤字の鮒子田 寛氏によるコメントは、1971年 三栄書房発行 AUTO SPORT誌9月号 鮒子田 寛 「やとわれレーサー旅日記 2 “とりかごのなかの2時間20分” 鮒子田 寛」より抜粋引用させて頂いたものだ) |
(C) Photographs, modeling by Hirofumi Makino. |
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END
(C) Photographs by Hirofumi Makino.
Special thanks Saneishobou-AUTO SPORT and Hiroshi Fushida.