“栄光のニュルブルクリンク。そして・・・” 

 TETSU IKUZAWAを語る上で、欠かすことが出来ないのが1967年9月3日に開かれた“ニュルブルクリンク500Kmレース”での勝利だろう。
これは、日本人として初めてFIA公認の国際レースで優勝したエポックメイキングな出来事として今だ語り継がれている。詳しくは“栄光のニュルブルクリンク”で特集しているのでそちらに譲るとして、実はもう1つ画期的な事がこの年TETSUを待ち受けていたのだ。それは、イギリスF-3レースにおけるTETSUの活躍を聞きつけて来たある大物人物の登場から物語りは始まる。その名は“フォン・ハンシュタイン”。何を隠そう第1回日本グランプリにポルシェカレラ2で出場したドライバーだったが、1967年は、ポルシェ・ワークスを率いる監督として活躍中であった。
そんなフォン・ハンシュタインが突然TETSUの前に現れたのは、F-1選手権イギリス・グランプリの前座レースとして行われる予定でTETSUも出場するインターナショナルF-3レースの直前の事だった。


TOP : Tetsu Ikuzawa and his HONDA S800 at a Nurburgring in 1967.

(C) Photograph by Joe Honda.

1967年7月11日(火)
 今度のレースはイギリス・グランプリの前座として行われるインターナショナルF-3レースだ。シルバーストーンには10時半ごろ到着した。
7月14日(金)
 今日のプラクティスは午後4時30分からだ。ゆっくりと家を出る。
 プラクティスは、キャブレターのジェットを5番づつ大きくして走る事にした。数周走ってみたが、結構良いようで、ピットインしてプラグのチェックをする。しかし、ギヤ・レシオは今だ合っていないようだ。全くむずかしいコースである。
 ピットでいろいろチェックしていると、ピンクのシャツを着たスマートなおじさんがやってきた。日本グランプリでポルシェに乗ったのを機会に文通していたポルシェのレーシング・マネージャー、フォン・ハンシュタインだ。僕が来ているのを知って声をかけてくれたのだった。主催者に招かれてイギリス・グランプリを見に来たのだという。とりあえず、挨拶をしておいて、コースへ出た。
 プラクティスを終わってピットへ戻ってくると、また彼がピットへやってきた。先週ブランズハッチで3連勝したのを新聞や雑誌で見たという。そして「ブランズハッチをよく知っているのか」と聞くので、「ホーム・コースみたいなもんだ」と答えると、「今月(7月)末のBOAC500にワークス・ポルシェも当然出るわけだが、その時に、あなたにテストするチャンスを与えられるかもしれない」というのだ。まったく夢みたいな話である。
 単に外交辞令なら、彼の方からわざわざ言い出すはずもない。僕のロンドンの住所まで聞くのだ。
 ともかく、先週3連勝したことが実にタイムリーだった。彼の頭の片隅に、僕の名が入っていたということは決してマイナスではない。

 *1967年三栄書房発行「AUTO SPORT」9月号 生沢 徹手記 “日本人ドライバー ただいま奮戦中 ヒノキ舞台は目の前だ!” より引用活用させて頂いた。


TOP : Tetsu with Brabham BT-21 at a Silverstone in 1967.
(C) Photograph by Joe Honda.
 実は、TETSUが出場したイギリス・グランプリの前座レースであるインターナショナルF-3レースの成績は散々な結果に終わっている。
それを見ていたハンシュタインの反応も複雑で、一時はTETSUのポルシェ・ワークスへの道は閉ざされたかに思われた。
「イクザワをテストしようと思っていたし、ブリティッシュ・グランプリを見に来ていたドクター・ポルシェにも推薦したのだが、シルバーストーンでのあの結果ではどうも押しようがなくなった」と話していたハンシュタインをなんとか説得し、チャンスをもらえるようにTETSUは必死に食い下がり、遂にオフィシャル・プラクティスでスペアーカーでのテストをする約束を採りつけることに成功する。

GO TO NEXT PAGE
次のページへ続く



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE

(C) Photographs by Joe Honda.