TETSU IKUZAWA AT NURBURGRING IN 1967 ![]() TETSU AND HIS HONDA S800 AT NURBURGRING (C) Photograph by Joe Honda. 1967年9月3日 生沢 徹 栄光の軌跡 TETSU GOTS A CLASS WIN AT NURBURGRING 500km RACE IN 1967 当時、近代的と思われたアメリカ式のバンク・コーナーを持つ富士スピードウェイでは、その後1969年まで、ニッサン、トヨタなどの自動車メーカーがしのぎを削る戦いが繰り広げられたのでした。 そんな中、当時、絶対に日本人では無理と言われた「フォーミュラ・ワン・ドライバー(俗に、グレーデッド・ドライバーと言われていた)」を目指した1人の若者がおりました。 ![]() その名は、「生沢 徹(以降TETSU)」。彼は、1966年にプリンス自動車を退社後、単身イギリスに渡り、当初、「ジム・ラッセル・レーシング・スクール」の門下生として、ヨーロッパ各地のフォーミュラ・リブレやフォーミュラ3レース等に参加、武者修業を続けておりました。 そして、TETSUは、1967年、レーシング・ドライバー修行の成果を見せるべく「第4回日本グランプリ」への参加を表明したのでありました。 ![]() そして、苦労の末、三和自動車や友人たちの助けにより、当時マニファクチャラーズ選手権で2000ccクラスのチャンピオン・マシンであった「ポルシェ・カレラ6」を獲得することに成功、日本グランプリへの参加は、現実のものとなりました。 ちなみに、この時TETSUが行なったスポンサー獲得の方法は、後の日本モーター・スポーツ界におけるプライベート・レーシング・ドライバーの生き方を示したものだと言われています。 決戦、5月3日、「第4回日本グランプリ」において、TETSUは、見事ニッサン・チームの「4人のサムライ」と言われた「高橋国光」、「北野 元」、「大石秀夫」、そして、「砂子義一」の操る「ニッサンR380II」を打ち破り勝利するのでした。 さらに勢いに乗るTETSUは、1967年より参加しているヨーロッパF3チャンピオンシップにおいて日本人初優勝を飾り、そして、7月9日にはなんと1日三種目制覇の離れ業も演じたのです。 そして、運命の9月3日、「ニュルブルクリンク・サーキット」へと舞台を移すのでありました。 「ニュルブルクリンク500kmレース」は、マニファクチャラーズ選手権こそ懸かっていないものの、国際格式のレースであり、「アルピーヌ・ルノーA110」、「フィアット・アバルト1300OT」、「アルファ・ロメオGTA」、「ミニ・クーパー」、「ロータス・レーシング・エラン」等のワークス・クラスのマシンが大挙エントリーする人気のレースでありました。 TETSUは、このレースに当時憧れだったRSCフルチューン「ホンダS800」で参加し、ついにル・マン式スターティング・グリットに立ったのでありました。 以下、この度TETSU様より、わざわざ我がHPに頂いた資料を元にこのレースのあらましを引用させて頂きました。 |
![]() さて、1967年当時の国際格式サーキットの中で、当時の西ドイツ ニュルブルクリンク・サーキット は、イタリアのシシリー島「タルガ・フローリオ」は別として、1周22.7kmという最長の長さを誇っておりました。 アイフェル山中の公道を利用したサーキットで、山あり谷ありカーブありのこの長いコースは、「少なくとも100周以上走り込まなくければ覚えきれない」と言われていました。車が飛び跳ねる“ジャンピング・スポット”があるのでも有名です。ここでは、F−1レースのほか、マニファクチャラーズ・チャンピオンシップの<ニュルブルクリンク1000km>なども行われていました。 ちなみに、1967年シーズンのF−1西ドイツグランプリでの公式予選タイムは、ジム・クラークのロータス49が新記録となる“8分4秒1”で、ポール・ポジションを獲得しています。 この22.7kmのコースは、1976年までF−1レースで使われたのですが、あの「ニキ・ラウダ」の大事故の後、再び使われることはありませんでした。 ![]() ![]() Left side: Jacky Ickx and his Brabham Ford in1969. Right side: Ferrari 330P-3 in 1966. “栄光はこうして我が手に”<国際電話で、生沢徹に緊急インタビュー>
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![]() ![]() (C) Photograph by Joe Honda. ![]() ![]() (C) Photograph by Joe Honda. 「ル・マン式スタートだったが、確実にベルトを装着してからスタートしたので、走り出した時はこんなポジションに。殆どの連中はベルトを締めないままスタート」 上の画像でもわかる通り、先頭集団は、すでに遥か彼方へ消えかけており、TETSUは、下の方のMINIの後につけ第1コーナーへ。 そして、右の画像は、「栄光のニュルブルクリンク」のハイライトであるゴール・シーンであります。 ニュルブルクリンク500kmレース・オフィシャル・リザルト
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また、TETSUの快挙を現地の新聞やモーター・スポーツ誌がいっせいに報道し、TETSU
IKUZAWAの名は、一躍有名となったのでありました。
ワークス・マシンが数多く脱落する中、我がTETSUは、終始安定したペースで走りきり総合11位、クラス優勝という輝かしい成績で終わることが出来ました。 その後もTETSUの活躍は衰えを知らず、翌年に開催されるあの「第5回日本グランプリ」出場へと進んでいくのでした。さらに、F−3からF−2への階段は、すでにTETSUの手の中にあり、その次のステップである「フォーミュラ1・グレーデッド・ドライバーへの道」も当時のTETSUの勢いからして決して夢ではないと私たちは信じて疑いませんでした。さらに、「ホンダF―1+TETSU」はいつかと・・・・。 ![]() (C) Photograph by Joe Honda. (C) 29/APRIL/2000
TEXT BY TETSU IKUZAWA
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