“決戦!BOAC500マイルレース” 

 1967年の世界マニファクチャラーズ選手権は、近年稀に見る大接戦で、チャンピオンシップの行方は、最終戦ブランズハッチ・サーキットで行われる“BOAC500マイルレース”に持ち込まれた。
全8戦中7戦終了時点までで、フェラーリ2勝(デイトナ、モンツァ)、ポルシェ2勝(タルガフロリオ、ニュルブルクリンク)で迎えた最終戦、総合得点では首位に立つポルシェもチャンピオンになるためには、8戦中得点の良い5戦を有効得点とするFIA方式のため、このレースでは是が非でも2位以上(フェラーリより上位が条件)が必要。そのためポルシェは、2.2リッターフラット8エンジンを積んだカレラ10(910)2台、新型907を1台、そして、2リッターフラット6のカレラ10を2台持ち込んだ。対するフェラーリも名車フェラーリ330P4を3台用意する。
ドライバーもこれまた凄い!ブルース・マクラーレン、グラハム・ヒル、ヨッヘン・リント、ジョー・シファート、ヴィック・エルフォードなどを要するポルシェ。かたや、ジャッキー・スチュワート、クリス・エモン、ルドビコ・スカルフィオッティなどを配して対抗するフェラーリ。まさに総力戦である。
そんな両陣営の強力ドライバーの中に、我らのTETSU IKUZAWAがポルシェのリザーブ・ドライバーとして登録されたのだ。
 

 3時のプラクティス開始と同時にピットで待機するが、一向に乗せてもらえないまま時間が経過していく。今日はダメかとなかば諦めかけていたら、「つぎにグラハム・ヒルがピット・インしてくるからその車に乗りなさい」と、声がかかった。
ヒルのすぐ後では“あら”が目立つのではないかとビクビクものだったが、大急ぎでシートをあわせてコースへ出る。
 エンジンも操縦性も、さすがにファクトリーカーだ。特にインジェクション付きエンジンの立ち上がりは素晴らしく、カレラ・テン(910)の凄さを身を持って感ずることができた。
 わずか5周でプラクティス終了のチェッカーを振られてしまった。なにしろ、ブランズハッチのロング・コースは、去年わずか1時間乗っただけでよく知っていないし、カレラ6に乗っていたとはいえまったく初めての車だ。ようやくこれからというところでチェッカーが振られてしまったのでどうすることもできない。ハンシュタインが飛んできて、「初めて乗るにしては、なかなか良いじゃないか」というのである。ブランズハッチのロング・コースのラップ・レコードは,4.7リッターのフォードGTが1分44秒4、カレラ6が1分43秒4といったところだが、なんと僕は初めて乗った車で、わずか4周目に1分43秒0を出してしまったのだった。
しかも、この車にはジョー・シファートやグラハム・ヒルも乗っているが、1分42秒はだれも切っていない。彼らとわずか1秒たらずしか差がないのである。最初は、ほんのおべんちゃらのつもりで、プラクティスの終わりにちょっとだけ乗せてやろうぐらいのつもりでいたんだろうに、意外と良いタイムを出したので、いささか驚いたようすだった。そして、明日も是非来るようにと言ってくれた。
*1967年三栄書房発行「AUTO SPORT」誌9月号 生沢 徹手記“日本人ドライバー ただ今奮戦中”より抜粋引用。

 翌日、TETSUは、再びカレラ10のステアリングを握り、1分42秒5出すことに成功。さらに、本番用の2.2リッターカレラ10にも試乗し、ハンシュタインに好印象を与える事に成功する。そして、5台のワークス・ポルシェの内1台にTETSU IKUZAWAの名前が記される公算が強くなってきた。
 


TOP : TETSU and his PORSCHE 910 at Brands Hatch in 1967.

TOP : TETSU and Works Porsche Team.


TOP : TETSU with Works Porsche's manager "H. von Hanstein".


TOP : Works PORSCHE 910 drivin by TETSU IKUZAWA at Brands Hatch in '67 BOAC 500's practice.

TOP : TETSU and HONDA F1 Team Manager Yoshio Nakamura( Left side ).
TETSU and Great Tiger "Jochen Rindt"( Right side ).

(C) Photographs by Joe Honda.

“恨みのグラハム・ヒル” 

 プラクティスの後、ハンシュタインがTETSUのそばに来て「君のシート合わせをするから帰りにガレージに寄るように」とTETSUに伝えた。
遂に夢のワークス・ドライバー誕生である。
ゼッケン25の2リッターエンジン搭載車にウド・シュッツと組んで乗ることになるという。しかし、ワークスドライバーになったとはいえ、実績のないTETSUは、リザーブ・ドライバーという立場は変らない。何かアクシデントがあった場合は、先輩ドライバーが優先となる事は言うまでもない。
 

 案の定、スタート後1時間もしないうちにグラハム・ヒルがエンジンをぼそぼそいわせながらピット・インしてきた。回転は9000rpmといわれているのに、スパイ針はかるく10000rpmを超えて止まっていた。オーバー・ペースである。バルブ系統を破損してあっけなくリタイヤだ。ヒルが、一生懸命コンビのリントにあやまっているが、これで僕が乗るチャンスは消えてしまったわけである。
 ハンシュタインが僕のところへやってきて、「ごらんのようにヒルが1台こわしてしまった。あなたを乗せる予定でいた車にリントを乗せるので、申し訳ないが、今日はあなたを乗せることが出来なくなってしまった」と言った。
*1967年三栄書房発行「AUTO SPORT」誌9月号 生沢 徹手記“日本人ドライバー ただいま奮戦中”より抜粋引用活用 

 最大のチャンスをモノにする前にTETSUのワークス・ポルシェ・ドライバーとしてのデビューは夢と消えてしまった。
しかし、ハンシュタインから「来年こそはあなたを乗せることを約束しよう」という確約を受けてTETSUの夢はまだまだ続くことになる。
次回の「TETSU IKUZAWA ワークス・ポルシェへの道 PART 2」では、その夢の実現の記録を再現したいと思う。
 

PART 1 END
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(C) Photographs by Joe Honda.