THE SPECIAL REPORT OF MODEL SPEED LIFE 
'60s モデルカー・レーシング広告集 (4)
日東(ニットウ)with Del Contessa( MKIII )

 日本での'60sモデルカー・レーシングにおいて“日東(日東科学教材株式会社)”の存在は外すことは出来ません。
なぜならば、そのキットの車種選定がとてもユニークだったからにほかなりません。
まずは当時の日東の広告から紹介したいと思います。

 日東は、上の広告でも分かる通り4種類のモデルカー・レーシングを発売していました。
1/32スケールの「ダットサン フェアレディ」「ジャガーEタイプ」と1/24スケールの「フェラーリF-1」「デル・コンテッサ」であります。価格も当時の日本製キットとしては安い方に属し、モーターなしで1/32キットが\600、1/24キットが\700で発売されていました。
この少ない選定車種で特に目を引くものが今回紹介する「デル・コンテッサ」であります。
当時、私は、このデル・コンテッサを見た時に「どうしてこんな車を発売したんだろう?!」と真剣に思ったものでした。
それだけ当時の子供たちはカッコイイレーシングカーに憧れており、どうしてもこのデル・コンテッサには興味が沸かなかったというのが本音でありました。
しかし、今となってはニチモ「マンタレィ」、ミドリ「ローラ70GT」にも匹敵するような超レアなものとなっている現実をみると、なんとも皮肉な現象だと思ってしまうのは私だけでしょうか。
ところで、この「デル・コンテッサ」というフォーミュラカーとはどのようなレーシングカーだったのでしょうか。
実際の「デル・コンテッサ」について1965年発行の「オートスポーツ」誌No.5からその正体を引用活用させて頂きたいと思います。

TOP : DEL MKIII in 1965.
 国産フォーミュラ・レーサーが、初めて市販された。それが、ここに紹介する<デルMKIII >である。
製作はデル・レーシング・モーター・カンパニー(代表者・塩沢進午)価格は320万円。エンジンなしで260万円である。
 昨年(1964年)、鈴鹿の第2回日本GPに国産フォーミュラ・ジュニアとしてデル・コンテッサが出場、ロータス27、クーパー、ブラバムなどに伍して、堂々6位に入賞したことをご記憶のかたもあろう。その後、約1年の研究と熱意が今回のフォーミュラ市販に及んでいる。
・・・文中略・・・
 エンジンは、コンテッサ1300クーペ用で、排気管の処理に工夫のあとがみられる。気化器はウェーバー40DCOEを2個用いている。コンテッサ900を改造したF-3エンジンを積むことも出来るようだ。トランスアクスルもコンテッサのもの。4速フルシンクロのギヤボックスが、ちょうど裏返しに組みつけられている。ステアリングもコンテッサ用ラック&ピニオンをモデファイしたもの。フレームはクーパータイプのパイプモノコックで、サスペンションやハブキャリアもクーパーである。
ショックアブソーバは、カヤバ製コルト用に、ベアリングをつけて使用。ブレーキは全輪ディスク・ロッキード製である。
 このように国産初の市販フォーミュラカーとして登場した“デルMKIII”は、まさにデル・レーシングは、日本における国産コンストラクターの先陣をきったといえるのではないでしょうか。
事実、1966年に行なわれた第3回日本グランプリにおいてエキジビションレースとして行なわれた「フォーミュラ・リブレ・レース」には、出場10台中なんとデルMKIIIは5台も出場していたことからも、いかにデルフォーミュラカーの市販の意義が大きかったことがわかります。さらに、「フォーミュラ・リブレ・レース」として、正式種目となった翌1967年の第4回日本グランプリにおいてもデル・フォーミュラは多数出場しており、デル・フォーミュラの活躍は、日本のモータースポーツ発展の原動力となったことは間違いありません。
また、デルMKIIIがアマチュア・レーサーたちに歓迎された理由として上げられるのは、その整備性の良いパイプ・フレーム構造とあらゆるエンジンを搭載できる便利さにあったと思われます。日野コンテッサのエンジンはもとより、いすゞベレット用エンジンなどを搭載したマシンも多数参加していたことからもその理由が分かります。

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