(C) Photographs by Joe Honda.
Special thanks Saneishobou AUTO SPORT
and Hiroshi Fushida.
 1965年に将来を期待されながらこの世を去った“浮谷東次郎”の40回忌となる今年2005年。実は1965年に日本モータースポーツ界にデビューして以来、40年間幅広く世界のモータースポーツ界で活躍を続けている男がいる。
彼の名を“鮒子田 寛”という。
1965年にホンダS600で日本モータースポーツ界に衝撃のデビューを果たした鮒子田は、1981年までル・マン出場などワールドワイドな現役ドライバーとして活躍。現役引退後は「童夢」「トムス」「トムスGB」などのチーム監督として数々の勝利を手にする。さらに、イギリスにあるr.t.n(レーシング・テクノロジー・ノーフォーク)のオペレーション・ディレクターとして、2003年ル・マンでのベントレー優勝に貢献、今までの日本人では成しえなかった偉業を数多く達成した人物である。現在は、日本に戻り全日本F-3選手権にインギング・モータースポーツチームの監督として活躍中。昨年2004年監督就任後初シーズンに奇跡的とも言えるプライベート・チームでの全日本選手権制覇を成し遂げた。まさに、「鮒子田マジック」という言葉が相応しい偉業であった。
今の鮒子田 寛は、誰もが認める名監督であり、現役ドライバー時代の活躍を含めると、日本モータースポーツ殿堂入りの資格を持つ数少ない逸材と言って良いのではないだろうか。
 ところで、鮒子田 寛といえばすぐに思いつく言葉は、「日本人初の・・・」である。
「ル・マン24時間レース」「F-1世界選手権」「CAN-AMシリーズ」「SCCAインターコンチネンタルF-A」「SCCA Trans-Amシリーズ」などなど・・・。
本人はいたって冷静にその時の事は特に意識していなかったし、正直考える余裕もなかったと振り返るが、我々鮒子田ファンとしては当時AUTO SPORT誌に掲載される鮒子田 寛の活躍を心待ちにしていたものだった。
そして、60年代後半の日本グランプリ全盛期では、チーム・トヨタのエースとして、当時最強と言われたニッサンチーム三羽烏 高橋、北野、黒沢に唯一対抗出来うるドライバーとして活躍。チーム・トヨタ内には、勢いに乗っていた川合 稔などもいたが、当時のエースは実績から言ってやはり鮒子田 寛だった。
1970年に入り、トヨタ7の開発中止に伴って、縮小されるチーム・トヨタに別れを告げた鮒子田は、プライベート・ドライバーとして1970年〜1971年の間、アメリカのF-Aシリーズやトランザム・シリーズ、CAN-AMにチャレンジ。夢であったインディ500出場に向かって活動を開始するも、アクシデントにより夢半ばで帰国。
その後、人気爆発の富士グランチャンピオンシリーズにフシダレーサーズを結成し参戦、1972年には逆境を跳ね除けてシリーズチャンピオンに輝くことになる。この偉業は、最強ドライバーと言われた高橋国光、北野 元、黒沢元治でさえ成し得なかったことで、鮒子田 寛の実力と勝利への執念が実を結んだ結果であった。
また、鮒子田 寛は別名「耐久王」と言われていた。60年代後半から70年代にかけての富士、鈴鹿のほとんどの耐久レースでは優勝か2位を得ていることからも、彼がいかに耐久レースに強かったかがわかる。

 さて、前置きが長くなってしまったが、今回の企画ページは、そんな鮒子田 寛の40年にも及ぶモータースポーツでの活躍を労うためのものである。そして、一鮒子田 寛ファンである主宰者の主観と偏見で進めさせて頂くことを予めご了承頂きたい。

 “F−Aがオレを魅惑する!”
 
 1970年初頭に、チーム・トヨタのエースの座を捨てて自らの夢“インディ500出場”を実現させるため、単身アメリカへ渡った鮒子田 寛は、当時アメリカで人気のあったF−A(L&M F-Aコンチネンタル・チャンピオンシップ ヨーロッパF5000シリーズと基本的に同じレギュレーションで、アメリカンV8 5000ccOHV自然吸気エンジンでのフォーミュラカーによるシリーズ戦)で走ることを選んだ。
トヨタ7で鍛えたビッグ・マシンの経験は、F−A初ドライブになんら不安を抱く事はなかった。参加ドライバーの顔ぶれも懐かしい顔が並んでいる。日本CAN-AMでレースを共にした“ジョン・キャノン”、“マーク・ダナヒュー”、“チャック・パーソンズ”、そして、“ジョージ・フォルマー”など。なんら俺に不安なんかないじゃないか・・・!と寛は闘志を内に秘めて燃えていた。
とにかく今は、トヨタ時代と違い、全て自分で資金を調達し、自らを売り込まなくては先へ進めない“雇われドライバー”の身、チャンスがあればなんでもやる。寛は、今は試練の時と考えていた。
F−Aレースの開幕戦であったリバーサイドでのレースでは、まだチーム・トヨタ在籍中でありながら、勉強ということで特別にチーム・トヨタ側の許可をもらい参加していたのだが、今はやはり気持ちの入れ込み方が違う。1レースごとの結果が全てなのだ。
 ところで、寛のマシンはF-Aシリーズ参加中唯一の“イーグル”である。しかもエンジンも珍しいプリムス製。
そして、今回からズース・デベロプメント( ZEUS DEVELOPMENT CO.)との契約でドライバーがマシンを買い取り、ズースがサポートすることになっているので、第2戦以降のレースには正真正銘の寛所有の“イーグル・プリムス”で参加することになる。
 ところが、迎えたF−Aシリーズ第2戦「エドモントン」は、寛の意気込みとは裏腹に、エンジンの油圧低下であっさり2周でリタイヤ。まだまだ先は長いと自分に言い聞かせてカナダを後にする寛であった。

TOP : EDOMONTON SPEEDWAY
The American Dream of Hiroshi Fushida
Hiroshi Fushida with an Attractive Formula A in U.S.A !! 
モータースポーツ活動40周年記念特別企画
PART 1

“鮒子田 寛の夢 アメリカンドリーム”
「俺はインディで走りたい!!」 

TOP : Mario Andretti ( Leftside) and Hiroshi Fushida ( Rightside) 
at ONTARIO MOTOR SPEEDWAY in 1970.
Special thanks Saneishobou & AUTO SPORT
and Hiroshi Fushida.

 

 ワシントン州ケントにある「シアトル・インターナショナル・スピードウェイ」は1周3.62Kmのコース。
第2戦のエンジントラブルは、ピストンのヘッドクリアランスの間違いが原因だと分かり、メカニックたちと共にエンジン分解、組み立てを一緒に行なう。
元々メカ作業は嫌いじゃない方なので、アマチュア当時に戻った気分で寛は楽しんでいた。
前戦のエドモントンでは、FIA認定レースだったため、ハイ・ウイング装着が禁止されていて、応急で寛がアルミ板を加工してロー・ウイングを製作して事なきを得たが、今回のシアトルは、FIA認定レースではなくアメリカ独自のレースのため、ハイ・ウイングが認められており、当然寛のマシンも元のウイングに戻しての参戦である。
まず、ピットに日の丸が上っているではないか!
サーキット側が用意してくれたのだ。これでまたまた寛の闘志に火がついた。
しかし、エンジンは寛の思惑通りには回ってくれなかった。
オーバーレブはするし、バラツキが問題だ。
ジョン・キャノンらは1分15秒台で飛ばすが、寛はエンジンを9000回転までに押さえて18秒台で予選を終える。
それでも予選6位で大満足。決勝での上位入賞を誓う。


TOP : SEATTLE RACEWAY

TOP : Hiroshi Fushida and his EAGLE.
 レース当日、あれだけぐずついていたエンジンが嘘のように快調だ。夜中の2時までかかって調べた結果、バッテリーが痛んでいた事が判明。それを新品に換えたところ、嘘のようにバラツキが治まったのだ。これで本番は行けそうな気がする。
ただ、気温が低いため今度はタイヤの温度が上らず、サスペンションセッティングも完璧ではないためアンダーステアが出だしたのが少々気がかりだ。
さらに困った事に、スタート間近になってきたら雨が降り出してきたではないか!降らないでくれ!寛は神にも祈る気持ちであった。
 いよいよスタート。ローリング・スタートで2周走るとグリーン・フラックが出た。キャノンを先頭に全車第1コーナーに飛び込む。ロータスに乗るウインターステイン選手をまずは抜く事に成功!「このオールド・イーグルもすてたもんじゃない!」寛は初めてF-Aレースでまともなレースが出来そうな気がしてきた。
しかし、そうはとんやがおろさない。早くもフロントブレーキがロックし始めてきた。ウインタースティンとはその後30周の間、抜き抜かれつのデッドヒートを続けることとなる。彼のロータスが無理がたたったのかリタイヤ。予選1位のロン・グレイブルもリタイヤしていたので、寛は自動的に4位に浮上。
その後ブラバムに乗るハッチンソンがリタイヤしたためになんと寛は3位に!!
「久しぶりに充実したレースが出来たし、思いがけない3位だった」と寛。
こうして歴史的な日本人初のF-Aレース入賞記録に鮒子田 寛の名が記される事となった。

*上のコメントの一部は、1970年三栄書房発行 AUTO SPORT誌8月号 「ヒロシのF-A挑戦レポート」より引用抜粋させて頂いた。


TOP :  Hiroshi in SEATTLE RACEWAY
シアトルレースウェイに日の丸が上っている。これを見て寛は燃えないわけにはいかない。
自らトラックの運転をしてレース場まで行く寛。
Special thanks Saneishobou AUTO SPORT
and Hiroshi Fushida.

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