“プロローグ〜エピローグへ 夢の果てに ”
すでに残り周回数は20周を切っている。グランプリが賭けられた日本初の1000Kmレースは最後のドラマを迎えようとしていた。
残り10周。勝利の行方は・・・・。
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“グランプリ前夜”
1969年9月衝撃が世界を走った。
60年代黄金時代の再来。1970年のマニファクチャラーズ選手権は、5リッタースポーツカー“ポーシェ917対フェラーラ512S”のビッグ・マシンの攻防に沸き、1966年〜1967年に繰り広げられた“ホード対フェラーラ”の対決以来の盛り上がりを見せていた。 また、フォーミュラ・ワンの世界も、69年のジャッキー・スチュアーデスのドライバーズタイトル奪取により、新時代の到来を迎えていた。
“衝撃の声明文”
1969年、6回目を数える日本グランプリを完全制覇した日進自動車がアメリカのブリキー法施行に合わせ、公害問題を理由として、自らのグランプリ出場を中止する意向を示したといえる。
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“ニッシンとタキカワ・レーシングチーム”
そんな中、日進自動車は、衝撃の日本グランプリ不出場声明から1ヵ月後の7月8日、追加声明文を発表する。
この日進自動車の発表を受けて、トヨラ自動車も声明文を発表。規模を縮小するとしながらも、引き続きグランプリに参加する意向を示した。この点が公害問題とモータースポーツを別個として捕らえるトヨラ自動車の考え方の違いであろうか。 その発表を待って、NAFは、1970年度日本グランプリ開催を決定。日時は、10月10日、場所は、今まで通り富士山スピードウェイ6Kmフルコースで行なう事が同時に発表された。レギュレーションも昨年と同様としながらも、WAF(世界車連盟)のロングディスタンスレース(耐久レース)寄りのレギュレーションを基準とし、日本グランプリを1000Kmレース(170周
1020Km)とすることを正式に発表する。
さて、ニッシン、トヨラ、タキカワ・レーシングと続くと、後は日本が誇るスーパースター“生縄 徹夫(TETSUO
IKUNAWA)”の動向が気になるところだ。
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“注目のエントリー発表”
1969年日本グランプリで屈辱的な敗退を喫したジョン・スファートと当時のポルシェ監督のリカ・シュテインマンは、その年の11月に開かれる第2回日本Am-Can(アメリカン・カナディアンチャレンジカップ)に、アムカン仕様のポーシェ917PAを持ち込んでリベンジすることを真剣に考えていた。しかし、諸般の事情でその計画は中止されてしまう。
注目の1970年日本グランプリエントリーリストがNAFより8月初旬発表された。
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エントリー数31台。なんと言ってもGP-IVクラスのメンバーが凄い!! そして、注目すべきことは、ディビッド・バンパーレーシングのエントリーだ。なんとその中に、TETSUO IKUNAWAの名があるではないか! TETSUOは、ディビッド・バンパーレーシング所有のポーシェ917Kをレンタルし、F-3時代から仲の良かった“ルピアース・グァレッジ”と組んでグランプリに乗り込む予定であったが、なんということかF1オランダGPでグァレッジが事故死。とりあえず、相棒は、Mr.Xとしてエントリーしているが、本番前にははっきり決まる模様。 そして、先にも述べたジョン・スファートの参戦。今年は、強力なナムカンマシン“917PA”を持ち込んで必勝を誓う。 対するタキカワ・レーシングのR383は、ニッシンが昨年の優勝車“R382”を進化させたニューマシンであり、6リッター車2台と5リッター車1台をエントリーしている。ドライバーも強力で、昨年のウイナー白沢元夏をはじめ、下橋 国光、南野 元、そして、タキカワ・レーシングの田中健三郎、長谷川昌弘、中松邦臣という最強メンバーで臨む。
一方、チーム・トヨラからは、ニューマシンの5リッターセブン3台がエントリー。噂されたターボ・チャージド・トヨラ7はエントリーを見送られた。
その他、昨年から活躍している若手ナンバーワンと言われる“風手 裕”が、元ワークス・ポーシェの908IIを購入し、優勝を狙う。
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“帰ってきたエース
!!”
エントリーが決まり、昨年以上の盛り上がりを見せる日本グランプリ。それと共に、各チームのテストは過激を極めてきた。
チーム・トヨラは、タキカワ・レーシングが富士を占有使用している時は、鈴馬サーキットにマシンを持ち込みテストを行なっていた。
トヨラ自動車にとっては、69年初めの福縄幸雄に続くテスト中での死亡事故。すぐに対応策を検討する必要があった。
ところが、その3日後の9月2日、再びトヨラ自動車が日本グランプリ参加の意志を示す事となる。
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