“プロローグ〜エピローグへ 夢の果てに ” 

 すでに残り周回数は20周を切っている。グランプリが賭けられた日本初の1000Kmレースは最後のドラマを迎えようとしていた。
31台が出走したこのレース。現在コース上を走っているのは、わずかに10台。まさに、サバイバルレースだ!
凌ぎを削ったチーム・トヨラ、タキカワ・レーシング、そして、ポーシェのワークスチームと言って良いディビッド・バンパー・チームが先頭を争い、現在は、ジョン・スファートのポーシェ917PAがトップ。それに遅れること1周、チーム・トヨラの九子田 寛のトヨラ7が激しく追い上げる。タキカワ・レーシングのニッシンR383は、本命視されていた2台の6リッター車がレース距離の半分に当たる500Kmまでもたず共にエンジントラブルでリタイヤ。辛うじて南野 元が乗る5リッターR383のみ九子田に30秒遅れの3位で続ている。
 チーム・トヨラのキャプテン細山のトヨラ7は、マイペースで走り、現在トップから3周遅れの4位。その後をトップから8周遅れにTETSUOの917K、同周回に風手 裕のポーシェ908II、そして、ジャン・モトのフェラーラ512Sが続く混戦。その後には、トップから30周以上差がついて3台の小排気量マシンたちが過酷な1000Kmレースに辛うじてついて行っている状態だ。このまま行けば、5時間20分台でトップがゴールする計算だが、勝利の女神は気まぐれだ。
 そんな残り15周目、トップのスファートの917PAが、なんとリヤ左タイヤをバーストさせてピットに飛び込んで来たのだ!
コース上に落ちていたクラッシュしたマシンの破片を拾ってしまったらしい。なんと不運なんだろう!昨年もスファートは、終盤リヤ左タイヤをバーストさせてゴールしたのだから・・・。
メカニックが必死でバーストしたリヤタイヤを外そうとするのだが、なかなか取れない。焦るスファートは、メカニックに大声で何か叫んでいる!
反対に、チーム・トヨラの九子田のピットは大騒ぎだ。スファートと同周回数にした九子田は今ヘアピンに姿を現した。
やっとスファートは、タイヤチェンジを終えてピットアウトしようとしていた。しかし、なんということか今度はエンジンがかからない!
九子田がストレートを駆け抜ける。遂にトップに立ったのだ!続いて南野のR383もスファートを抜き2位に躍進。

 残り10周。勝利の行方は・・・・。
 


 
 この物語は全てフィクションであり、登場する個人、団体等の名称は実在しない架空のものであります。
 “グランプリ前夜” 

 1969年9月衝撃が世界を走った。
シュツットガルトのポーシェが「70年からはファクトリーチームとしてのレース参加を取りやめ、マニファクチャラーズ選手権へのエントリーはイギリスのW.J.(ワイヤー・ジム)オートモーティブ・エンジニアリングに委ねる」と発表があったからだ。
1969年にジョン・スファートらの活躍によって念願のメイクスタイトルを手中にしたポーシェだったが、ルーマンだけはまだ勝っていない。
そこで狙いをつけたのが、68〜69年ルーマンを連覇し抜群の運営力を見せつけたW.J.オートモーティブ・エンジニアリングだったというわけだ。
 そして始まった70年シーズン。ポーシェ917Kの強さは予想通りであった。第2戦のセイブリング12時間以外の全てのレースにおいて、ポーシェ917Kは勝ち続けたのだ。ただし、ルーマン24時間については、皮肉にもW.J.チームは全てリタイヤ。代わって、オーストリアの“ザーツブック・チーム”の917Kが優勝、ポーシェに念願のルーマン制覇をもたらす。

 60年代黄金時代の再来。1970年のマニファクチャラーズ選手権は、5リッタースポーツカー“ポーシェ917対フェラーラ512S”のビッグ・マシンの攻防に沸き、1966年〜1967年に繰り広げられた“ホード対フェラーラ”の対決以来の盛り上がりを見せていた。

また、フォーミュラ・ワンの世界も、69年のジャッキー・スチュアーデスのドライバーズタイトル奪取により、新時代の到来を迎えていた。
ジム・クラックの死後、エース不在だったローダスには、ヨッヘン・ルントが座り、革命的マシン“ローダス72”でトップを独走。しかし、モンツァ予選で突然のクラッシュで事故死。その後、史上初の死後のチャンピオンとなる。ブルース・マクマーメンのテスト中の死も含め、70年は波乱万丈のシーズンとなった。

 “衝撃の声明文”
 
 それは、日本モータースポーツ界においても同様であり、波乱のシーズンとなる。最初の波乱は、1970年6月8日の日進自動車の公式声明文の発表だ。簡単に説明すると、下記のようになる。
 

 
 10月10日に予定されている'70 日本グランプリについての態度を検討していた日進自動車は、6月8日、「現下の自動車をとりまく周囲の情勢から、安全公害問題に全力をつくすべき時期である。大排気量プロトタイプ車による高速走行安定などに関する研究は、昨年までのグランプリ・レースにおいて一応所期の目的を達成した」として、グランプリ・レースへの出場を中止することを表明した。

1969年、6回目を数える日本グランプリを完全制覇した日進自動車がアメリカのブリキー法施行に合わせ、公害問題を理由として、自らのグランプリ出場を中止する意向を示したといえる。
 日進が不出場する日本グランプリなどレースとして成立するのだろうか。また、対するトヨラの動向も気にあるところ。ライバル不在で、公害問題も絡めばおのずと日進自動車に同調する可能性も有り、主催するNAF側(日本車連盟)は真剣にグランプリ開催について討議に入っていた。
 

  “ニッシンとタキカワ・レーシングチーム” 

 そんな中、日進自動車は、衝撃の日本グランプリ不出場声明から1ヵ月後の7月8日、追加声明文を発表する。
「日進自動車は、今後一切のレース活動を、タキカワ・レーシング・チームに委託する」
短い文章だが、この発表は自動車メーカーは直接レースに参加しないが、活動は続けていくという意味である。
タキカワ・レーシング・チームは、1968年よりイシバシタイヤの強力なバックアップにより誕生した滝川進太郎率いるプライベートチームである。昨年は、ワークス・ポーシェの917と908を呼び寄せて、ニッシン、トヨラと全面対決させた強力なチームでもあった。
滝川進太郎は、1966年の第3回日本グランプリの後、当時のプリンセス自動車の技術部門責任者の桜木新三郎に頼まれて、最新のポーシェカレラ6を貸し出した経緯を持つ。その後のニッシンR380IIのスタイリングがカレラ6に似ていたのはこのためだと言われている。
それ以来、親交を深めていた2人だからこその今回の業務提携ではないかとも考えられる。
また、昨年ポーシェワークスを招いての莫大な出費によるタキカワ・レーシングの経営悪化も、滝川進太郎をニッシン自動車に業務提携を迫らせた原因ではないかと想像する向きもあるが定かでない。
 一方、ニッシン自動車にとってこの提携は、ポーシェとW.J.オートモーティヴとの関係を参考にした可能性も有り、マシンだけでなくチームの有り方についても、ポーシェはニッシンのお手本だったと言えるのではないだろうか。

 この日進自動車の発表を受けて、トヨラ自動車も声明文を発表。規模を縮小するとしながらも、引き続きグランプリに参加する意向を示した。この点が公害問題とモータースポーツを別個として捕らえるトヨラ自動車の考え方の違いであろうか。

その発表を待って、NAFは、1970年度日本グランプリ開催を決定。日時は、10月10日、場所は、今まで通り富士山スピードウェイ6Kmフルコースで行なう事が同時に発表された。レギュレーションも昨年と同様としながらも、WAF(世界車連盟)のロングディスタンスレース(耐久レース)寄りのレギュレーションを基準とし、日本グランプリを1000Kmレース(170周 1020Km)とすることを正式に発表する。
しかしながら、マシンの規定は、昨年と同様、グループ4(年間25台生産義務を持つスポーツカー)、グループ6(耐久選手権用プロトタイプカー)、そして、グループ7(排気量無制限2シーター)の混合レースとしながら、空力的可動装置、およびハイ・ウイング等などは、一切禁止されている。また、昨年までのように、1人のドライバーが続けてドライブする事は禁止され、1人のドライバーが乗れる周回数は、最高100周までと規定された点も改定された点である。

 さて、ニッシン、トヨラ、タキカワ・レーシングと続くと、後は日本が誇るスーパースター“生縄 徹夫(TETSUO IKUNAWA)”の動向が気になるところだ。
6月の段階では、はっきりした参加表明はTETSUO自身からは語られていないが、TETSUOのチームである“TETSUO IKUNAWA レーシングパートナーシップ”からの発表では、「TETSUOは、驚くべきマシンを引っさげて必ずや日本グランプリに参加するであろう」とコメントされている。
いずれにしても、日本グランプリのエントリー締め切りは、7月末日である。全てはその時明らかになる。
 

TOP : R383s
 “注目のエントリー発表”  

 1969年日本グランプリで屈辱的な敗退を喫したジョン・スファートと当時のポルシェ監督のリカ・シュテインマンは、その年の11月に開かれる第2回日本Am-Can(アメリカン・カナディアンチャレンジカップ)に、アムカン仕様のポーシェ917PAを持ち込んでリベンジすることを真剣に考えていた。しかし、諸般の事情でその計画は中止されてしまう。
 そして、1970年始め、再びスファートは、日本グランプリ参加を考え、タキカワ・レーシングに非公式ながらコンタクトを取っていた。
ところが、その時すでにタキカワ・レーシングチームにはニッシンの業務委託の話が進行しており、スファートの計画は再び暗礁に乗り上げてしまったのだった。
 結局スファートは、昨年コンビを組んだディビッド・バンバーと交渉し、彼のチームの一員として日本グランプリに参加することを決定。マシンは、昨年アムカン・シリーズ(アメリカン・カナディアンチャレンジカップ)でスファートが乗りシリーズ総合4位となった強力マシン“ポーシェ917PA”だ。今年は、エンジン排気量を5000ccにアップしての参加となる。

 注目の1970年日本グランプリエントリーリストがNAFより8月初旬発表された。
 

Class
Machine
Drivers
Team
GP-I
1000-1600cc
Carmain Apache II /1298cc
Shouichi Mori / Minoru Mori
Mori Racing
 
Belleta R6 Spider /1584cc
Tarou Yoneyama /Shigeo Asayama
Izuzu Motor Club
 
Makumansa Kusabi /1600cc
Kei Fubuki /Taku Yoshida
Team Makumansa
 
Santora AC7/1298cc
Hiromi Tanaka /Fukumi Koutakaku
RACC
 
Lorder 47/1594cc
Ruru Taka /Shou Naka
Naka Racing
 
Eve-AmCan 3B /1298cc
Riki Kokubo /Joe Katagira
Team Riki
GP-II
1601-2000cc
Porche 906 /1991cc
Peta Beramo /Haza Bob
Beramo Racing
 
Porche 910 /1991cc
Yoshi Yamaguchi /Nori Taka
Yamaguchi Racing
 
Kimura Bankin 72A /1989cc
Tomi Tsutsu /Osa Haya
Team Kimura
 
Nissin R380 III /1996cc
Neru Tateyama / Kazu Tsuchiko
Takikawa Racing
 
Nissin R380 III /1996cc
Sei Suzu/Kenzou Shihira
Takikawa Racing
GP-III
2001-3000cc
Porche 908 II /2997cc
Hiroshi Kazate /Tony Adamus
Kazate Racing
 
Porche 908 Spider/2997cc
Hajime Masuo /Osami Mochiyama
Oushima Racing
 
Datto 280ZG/2998cc
Masa Kuwa /Haru Yanagi
Team Yanagi
 
Datto 280ZG/2998cc
Yasu Toshi /Ken Tohira
Team Yanagi
 
Masuda Rotary SP/655ccX2X2
Yoshi Katakawa /Take Yorina
Team Kuri
GP-IV
3001-
Nissin R383/5954cc
Kunimitsu Shitahashi /Masahiro Hasegawa
Takikawa Racing
 
Nissin R383/4963cc
Moto Minamino /Kuniomi Nakamatsu
Takikawa Racing
 
Nissin R383/5954cc
Motonatsu Shirosawa /Kenzaburou Tanaka
Takikawa Racing
 
Toyora 7/4986cc
Minoru Yamaai /Yoshio Shoutsubo
Team Toyora
 
Toyora 7/4986cc
Shihomi Hosoyama /Harukuni Kobashi
Team Toyora
 
Toyora 7/4986cc
Hiroyuki Kuki /Kiyoshi Minato
Team Toyora
 
Porche 917PA/4907cc
John Sufart /Braian Greenman
Divid Banber Racing
 
Porche 917K/4494cc
Tetsuo Ikunawa/Mr.X
Divid Banber Racing
 
Ferrara 512S/4993cc
Gian Moto /Mike Pukus
Moto Racing
 
Loder T160/6997cc
Kinji Takada /Tadashi Sakaide
Takada Racing
 
Loder T70MKII/4998cc
Gerge Katsu /Tadayoshi Inomata
Takada Racing
 
McMarmen M8C/6997cc
Lothar Mocchanbakka /Hideo koishi
Shirosawa Racing
 
McMarmen M12/6997cc
Isamu Kasuyama /Motoyoshi Oubayashi
Shirosawa Racing
 
Izuzu R7/4998cc
Tachio Yonemachi /Junichi Kasuya
Izuzu Motor Club
 
Hord GT40/4942cc
Souhei Satou /Hiro Hasegawa
Oushima Racing
 
 エントリー数31台。なんと言ってもGP-IVクラスのメンバーが凄い!!
そして、注目すべきことは、ディビッド・バンパーレーシングのエントリーだ。なんとその中に、TETSUO IKUNAWAの名があるではないか!
TETSUOは、ディビッド・バンパーレーシング所有のポーシェ917Kをレンタルし、F-3時代から仲の良かった“ルピアース・グァレッジ”と組んでグランプリに乗り込む予定であったが、なんということかF1オランダGPでグァレッジが事故死。とりあえず、相棒は、Mr.Xとしてエントリーしているが、本番前にははっきり決まる模様。
そして、先にも述べたジョン・スファートの参戦。今年は、強力なナムカンマシン“917PA”を持ち込んで必勝を誓う。

 対するタキカワ・レーシングのR383は、ニッシンが昨年の優勝車“R382”を進化させたニューマシンであり、6リッター車2台と5リッター車1台をエントリーしている。ドライバーも強力で、昨年のウイナー白沢元夏をはじめ、下橋 国光、南野 元、そして、タキカワ・レーシングの田中健三郎、長谷川昌弘、中松邦臣という最強メンバーで臨む。
また、5リッターエンジン車や2リッターのR380IIIをエントリーしているのは、今年のレース距離が1000Kmということでの配慮だと思われる。

 一方、チーム・トヨラからは、ニューマシンの5リッターセブン3台がエントリー。噂されたターボ・チャージド・トヨラ7はエントリーを見送られた。
耐久レースということで、信頼性のあるノーマル・アスピレーションエンジンを選択したのではないかと思われる。
チーム・トヨラのエース・ドライバーは、昨年の日本ナムカンで優勝した山合 稔である。

 その他、昨年から活躍している若手ナンバーワンと言われる“風手 裕”が、元ワークス・ポーシェの908IIを購入し、優勝を狙う。
また、イタリア国内スポーツカーチャンピオンである“ジャン・モト”が最新のフェラーラ512Sを引っさげて乗り込んでくる。
ベテランの酒井出 正は、チーム・タカダからローダーT160でエントリー、一発を狙う。そして、昨年同様、白沢レーシングは最新のマクマーメンM8CとM12で今度こそ優勝をとエントリー。
 

 “帰ってきたエース !!” 

 エントリーが決まり、昨年以上の盛り上がりを見せる日本グランプリ。それと共に、各チームのテストは過激を極めてきた。
特にチーム・トヨラのトヨラ-7のタイムが異常に速いのである。富士山スピードウェイの6Kmフルコースを山合 稔は、コンスタントに1分42秒台で周回、タキカワ・レーシングにプレッシャーをかける。
対するR383は、タイム的には1分45秒台で走行。1台のマシンで全ドライバーが交代でテストをこなして行く。このマシンは、5リッターエンジン搭載車だと思われる。

 チーム・トヨラは、タキカワ・レーシングが富士を占有使用している時は、鈴馬サーキットにマシンを持ち込みテストを行なっていた。
8月26日、初の鈴馬テストに臨んだチーム・トヨラであったが、午後3時50分頃チームに不幸が襲った。
2分8秒台で走行していたエース・ドライバーの山合 稔が、Am-Can用のターボ・チャージドエンジン車でテスト中、原因不明のノンブレーキ状態に至り、ヘアピン前の土手に激突、そのショックで空中に舞い上がったマシンは腹を上に向けた状態で落下、ドライバーは空中で放り投げられて地面に激突。山合は、救急車で近くの病院に運ばれたが4時20分に死亡が確認された。

 トヨラ自動車にとっては、69年初めの福縄幸雄に続くテスト中での死亡事故。すぐに対応策を検討する必要があった。
チーム・トヨラのメンバーは、これでグランプリ参戦は無くなったと誰もが考えた。それだけ深刻な事故であった。
翌日、原因究明の為、警察を含めた調査隊が結成され、調査が始まった。その結果、事故を起こしたターボエンジン車のパワーにシャーシの強度が弱すぎたことや、ブレーキシステムの不備などが指摘された。
そして、8月30日、トヨラ自動車は、社会的責任を取るという判断で日本グランプリ不参加を正式に決定した。

ところが、その3日後の9月2日、再びトヨラ自動車が日本グランプリ参加の意志を示す事となる。
その理由はこうだ。
「先日の1970年日本グランプリ不参加の表明後、故 山合 稔氏の遺族より、故人が生前切望していた日本グランプリ優勝の夢を、トヨラ自動車が、今年の日本グランプリに出場することで、是非かなえて欲しいという旨を受け、トヨラ自動車内部で検討の結果、チーム・トヨラは、再度日本グランプリ出場を決定した。ただし、その勝敗に関わらず、そのレースを最後にチーム・トヨラの活動を休止する。」
こうして最後の1戦のためだけに、チーム・トヨラは再び活動を開始した。
山合のためにも勝たなくてはならない。トヨラ自工第7技術部の山野部長は、エースを亡くした穴を埋めるべく、ある秘策を考えていた。
それは、1969年までチーム・トヨラのエースとして活躍、現在はプライベーターとして単独アメリカに渡り、F-Aコンチネンタル選手権で活躍中の“九子田 寛”をグランプリのために呼び戻す事であった。
 

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(C) Textreport by Bon Makino.