当時の日野自動車は、まだトヨタ自動車との技術提供などは行われておらず、トラック部門とは別に、自動車部門にも並々ならぬ意欲を見せていた時代でありました。
そして、本場アメリカのモータースポーツの魅力を知っている塩澤総帥率いるデル・レーシングとのジョイントは、ある意味双方の目指すものが一致した結果であったかと想像しています。
それにしても、1964年第2回日本グランプリのメインイベント(後年、生沢スカイラインと式場ポルシェ904のデッドヒートに沸いたGT-IIレースがメインと言われるようになるのですが・・・)JAFトロフィー フォーミュラカーレースに、ホンダF1でこの年初参戦した本田技研(当時)以外、ましてや日野自動車とのジョイントがあるとは言え、プライベーターであるデル・レーシングが自ら製作したフォーミュラカーで出場したと言う事実は、本当に凄いと思いました。そして、結果として5月2日、3日のJAFトロフィー2レースとも、立原義次選手がドライブしたデルMKII コンテッサが6位に入賞すると言う殊勲を達成したのです。
この辺の裏話を知りたい方は、是非「創造の軌跡」を読んで頂ければ幸いです。

TOP : About Del Conttesa on 64' AUTO SPORT MAGAZINE.
Report by Shotarou Kobayashi.

 上の画像は、第2回日本グランプリ特集を組んだAUTO SPORT誌で、ライターは、なんと当時、カーグラフィック誌の編集長だった小林彰太郎氏でありました。ちなみに、この号がオートスポーツ誌の創刊号でした。

 そして、小林氏の見て感じたデル・コンテッサについて次のようなレポートを書いていましたので、抜粋して記載させて頂きます。
「東京のデル・コンテッサ・レーシングチームが日野自動車の協力を得て製作した国産初のF-J(フォーミュラ・ジュニア)が出場し、両日のレースでよく6位入賞したことは非常に愉快であった。ほとんどアマチュアに等しいかれらの努力と熱意は大いに賞賛に値いしよう。フレームは比較的太い鋼管を組んだスペース・タイプで、プロトタイプではフロント・サスペンションにコンテッサのプレス製ウィッシュボーンをそのまま使っていたが、スズカに3台出場した生産型(?)は鋼管のダブルウィッシュボーンとコイルダンパーユニットを使っていた。
〜中略〜
 エンジンはコンテッサの893ccを940ccにボアアップし、2個のダブルチョーク・ウェバーを付けるなどして85ps/7500rpmにチューンしたという。
〜中略〜
コンテッサ用のエンジンを後車軸より前にレイアウトする関係で、回転を逆にすると同時に、増速の目的でトランスファーボックスを変速機との間に納めている。」 
 

DEL MKIII A CONTESSA とオープン2シータースポーツの活躍 

 私事で恐縮なのですが、私が初めて「デル・コンテッサ」の存在を知りましたのは、私が小学校6年生の時に遡ります。
当時は、日本中が前年より続いていたヴェンチャーズのエレキブームとリンクして、アメリカから渡ってきたスロットカーが爆発的なブームとなっていました。そんな中、レベル社などのアメリカ製のスロットカーが中心だった市場に、65年中頃より日本のプラモデルメーカーが相次いでスロットカーを発売していく事になります。
デル・コンテッサもそんな日本のメーカーが発売したキットの1台でした。シャパラルやロータス30などに混じって「デル・コンテッサ」なる名前のレーシングカーが日東科学教材鰍ニいうメーカーより発売されたのです。当時は、海外からの情報量も少なく、インディカーもF1も、FIAプロトタイプカーもグループ7カーも明確な違いを発売するメーカーさえも区別できない状態であったため、当時小学生だった私も然りで、デル・コンテッサはインディカーやF1の仲間だと信じ込んでいたのが現実でした。


TOP : 1/24scale Slotracingcar "Del MKIII A Contessa" in 1965.

 日東製「1/24スケール デル・コンテッサ」については、以前HP上の「Mスピードライフ」にてS氏の製作記を掲載させて頂いていますので、ご興味のある方は立ち寄ってください。

1/24scale デル・コンテッサ製作記へ進む 


 
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Special thanks Shingo Shiozawa.