1968年

 ちょっと話は横道にそれるが、AYKのゴールドロッドシャーシが発売された1968年という年は、どういう年だったのか少し検証してみよう。
 それは、私が丁度中学校2年生の時で私にとっては忘れられない年であった。
AYKとは全く関係ないことをお許し願いたい。 何故特別な年だったかというと、この年から親に散々諭されて生まれて初めて“塾”に通い始めた年だったのだ。数学専門で大きなところではなく、近所の一般民家でそこの家族の人が塾での教育免許を持っていて数学と英語を夫婦で教えているという小さなところであった。
 そこでは、学校で教える数学の授業の半年先を勉強するという方針で、効果は覿面で、私のような出来の悪い生徒でもなんとクラスで数学の成績が半年後にトップになる快挙!!“連立方程式のボン”という今までにないあだ名まで頂き、大いにドリフの“いかりや長介”似の担任の先生を驚かせたものだ!「ホン!!やったな!!」と笑い顔で褒めてもらったのが良い思い出となっている。
 そんなことはこの特集には関係ないので本題に戻ることにする。
ゴールドロッドシャーシが発売された1968年とは、いったいどんな年だったのかをネットで探ってみると…
 
 
 
 
 
 やはり、オリンピックが選ばれていたのは予想通りであるが、週刊少年ジャンプの創刊はそんなに重要だろうか?!
3億円事件はこの年だったんだと改めて思ったぐらいか?!

 
  このリストを見ていくと以外に知っていることが少ないのが第一印象だ。
しかし、なせ載っていないのかというイベントがある。 「日本グランプリ」が載っていない!
たぶん、現在でも日本グランプリはその年の出来事には入らないとは思うが、当時は1日で10万人以上を集めるイベントであり、特に1968年は、モータースポーツ関係のみならず一般雑誌などにも日本グランプリ特集が掲載されたり、各チームの様子やテスト情報なども毎週のように載るぐらいの注目度だったのだ。 また、ドライバー個人の知名度も上がり、生沢 徹や福澤幸雄などのスターも誕生し、週刊誌にその動向などもスクープされていたぐらいに盛り上がっていたのだが・・・。

 
 
 
 
 
 唯一興味がわいたのは、流行語であるが、まず「ゲバ」というと、すぐに「巨泉、前武 ゲバゲバ90分」を思い出す。そして、「サイケ」はウッドストックなどで有名となったサイケデリック・サウンズがすぐ頭に浮かぶ。ジェファーソン・エアプレインが好きだった。「失神」だが、GS(グループ・サウンズ)で“ジ・オックス”で歌っていて失神するメンバーがいたが、私が思い出すのは、失神女優というのがいて、副業がレーサー(やらされていた?!)だったという女優を思い出す。
 最後に「ハレンチ」だが少年ジャンプの漫画に「ハレンチ学園」というのがあった。また、実写版では確か“児島 美ゆき”という女優が主役をやっていたと記憶しているが。
 
 関係ないことを長々と書いてしまい大変申し訳ない。しかし、この1968年という年は、やはり私にとってはかけがえのないもので、T.N.T(トヨタ、ニッサン、タキ・レーシング)の対決に沸いた68年日本グランプリあってこそ今の自分があると言っても過言ではない。
 
 さて、この年、日本グランプリ(同年11月23日には、日本カンナムも富士で開かれている)と連動してモデルカーレーシングを楽しんでいた私にとって、日本グランプリ出場車を色々と発売してくれるクライマックスには随分とお世話になったものだ。 
さらに、元祖モデル・スピードライフ誌では、クライマックスが早いペースで新型ボディを発売していたので、毎月のように製作レポートが掲載されていた。私はこれをバイブルとして楽しんでいた。 
 その製作記も1966〜67年当時はタミヤ製B型シャーシやD型シャーシをボディに取り付けるのが多かったが、68年頃からはAYKのパイプシャーシを盛んに題材として使用していた。

 1968年は、日本モデルカー・レーシング界の方向性がホビーからマニアックな方向へ変化していくターニングポイントになった年だと思う。1965〜66年までは、タミヤなどのメーカー主体で動いていたものが、ブームの終焉と共にマニアックなファン中心で動き出した年が、1967〜68年だったと思う。
特に1968年はその傾向が強かったと感じる。

 今でも、1965〜66年までのモデルカーレーシングとそれ以降を区別して考えるマニアは多い。
COXなどに代表される実車をスケールダウンした本来のモデルカーレーシングとクリヤーボディと小径タイヤ対応のパイプシャーシなどが主流となった時代を区別するマニアもまた多い。
 
 さて、本題に戻りたいと思う。
 
 
 ニューウェーブの予感?!

 AYK製 “ゴールドロッドシャーシ”のインラインタイプおよびサイドワインダータイプが発売される1968年の8月と10月頃までに元祖モデル・スピードライフ誌に目新しい広告が掲載され始めていた。
下の画像がその広告だ。 約1/4紙面ぐらいの大きさであるが、AYKではないシャーシが販売され始めようとしていた。
製造・販売元は、“等々力モデルホビー”こと“等々力スピードウェイ”である。 このシャーシは、独自のアイデアと自社製作技術陣(現役スロットカーレーサーも含める)によるオーダーメイド方式で受注製作する方法を採用、まず希望する既存の3種シャーシの1つを選び、ホイールベースなどのリクエストを受け、注文に沿って製作するやり方である。 ファッションの世界に例えると、AYKは、プレタポルテ(既製服)を売るメーカーであり、等々力モデルホビーは、それに対して紳士服のオーダーメイドに近い何種類かの型紙の中からユーザーの体形を図って部分的に直しながら縫い上げていくやり方に近い。
 
 そして、時を同じくして、全日本モデルカー・レーシングチーム対抗レースなどに対応するため、今までは出場する個人がボディ、シャーシ、モーターチューニングなど1人何役もこなし作り上げることが当たり前だったが、ここにきてチームとして優勝するためには、各パートごとに専門担当を設けて1台のスロットカーを作り上げる分業形式で戦うサーキットチームが増えてきたこともこの時代の特徴だと思う。
 あとで出てくる“スピードウェイ・ムサシノ”などはその代表的存在である。

 さて、1968年の最初のビッグイベント春の祭典「第5回オール関東選手権大会」と最大のイベント「第4回全日本モデルカー・レーシングチーム対抗レース」、そして、1968年夏頃以降に開催された「第6回オール関東選手権大会」の成績および内容を続けて見てみよう。
 
 
 
 
  
 

 
 
TOP: The Original Chassis of Todoroki Model Hobby in 1968.
 
 第5回オール関東選手権大会
1968年3月31日
カマタグランド・サーキット

 
 
 
 
 
 
 1968年シーズン開幕戦である「第5回オール関東選手権大会」は、カマタグランド・サーキットにおいて盛大に開催された。
1967年「第4回オール関東選手権大会」では、今まで常に勝利していたタミヤ製BおよびD型シャーシが上位に入れず新時代の予感を感じさせたレースであったが、どっこい!第5回大会ではタミヤ製シャーシが復活!まだまだ健在なところを見せてくれた。
 特にストックカークラスでは、まだまだD型シャーシは強力であることを見せつけるレースだったようだ。
  GTクラス優勝のエルバのシャーシは、タミヤD型を改造し、AYKのFT-26D用マウントR:512を上手く合体させたシャーシで実にユニークなシャーシに仕上がっていると思う。また、フォーミュラクラス準優勝のブラバム・フォードのシャーシは、懐かしい緑商会のカングーロやローラ70に使用されていたパイプシャーシをメインに自作サスシャーシに仕上げているのが面白い。
 
 この第5回大会は、新しい波を感じることは出来なかったが、参加台数・人数とも全日本大会を含めても過去最大のものとなっており、ブームは去ったがマニアックに続けている選手が沢山いることを実感することが出来たレースであった。
 さて、次は日本最大の祭典、真夏の「第4回全日本モデルカー・レーシングチーム対抗レース」だ!
 

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