AYKのニューウェッポン登場!!
 
 1970年1月号「模型とラジオ」誌内、「モデルカー・レーシング教室」のAYK広告にて覆面シャーシ?!が登場した!
よほど当時のAYK宣伝広告担当者は、少年漫画で育った人間だったのではないかと想像してしまう。私もこのような打ち出し方は好きな方なので良くわかる。例えば、3大ロボット漫画(鉄腕アトム、鉄人28号、エイトマン)で言えば、この宣伝広告担当者は、鉄人28号のファンだったはず。覆面の怪人はよくこの漫画に出てくるからだ。しかし、よく考えてみたら時代が違っていた。広告担当者はこの時すでに大人のはず。よって、覆面と言えば、「黄金バッド」や「月光仮面」の時代が正しい。または、プロレスにおいて力道山と渡り合ったミスターXなどの影響も大きかったのではないかと想像するが、実際は、自動車メーカーが山岳路や高速道路などで新車のテストを行う時にカバーを掛けてテストを行っている車や覆面パトカーの意味合いの方が近いのかもしれない。

 さて、この広告の中にとても興味深いコメントが書かれているのに気づかれただろうか。
クライマックスとの合体企画だ。
昔から、クライマックスは、ゴーセンなどとタッグを組んで、クリヤーボディキットを販売してきた実績がある。さらに、AYKでも初期の頃にはメーカー不明だが、ジャガーEやコブラなどのクリヤーボディと自社のパイプフレームを合わせたキットを販売していた。
後でわかることなのだが、クライマックスとの合体企画で付属するAYKのシャーシは、なぜか単独販売されていないのだ。
似ているが、広告の覆面シャーシとは違うものだったのだ。
 
 さて、この覆面シャーシの特徴であるが・・・
 
 1)アングルワインダーである。
 2)インターナショナル規格である。
 3)2種類を発売。
 
このことがすべてであるが、特に世界大会を視野に入れたインターナショナル規格に統一することはまずは必要であろう。
詳しくは調べていないのだが、シャフトなどのインチ規格については統一するのであろうか?
また、2種類発売と書かれているのは、先に記載したクライマックスとの合体企画キットに付属しているシャーシのことなのだろうか。
 
 
 
 
 上のAYK広告でアングルワインダーに関連するパーツがいくつか発売されている。モーターマウントやワンタッチでガイドシューのブラシが変えられるニューアイデアもある。
そして、スパーギヤであるが、なんとベベルギヤ風にアレンジされているのがお分かりだろうか。
モーターのピニオンのピッチと平行に当たるように設計されているのだ。
しかし、私が当時巣鴨サーキットで購入していたスパーギヤは、ごく普通のスパーギヤだった。それを、ピニオンと三角面に噛み合わせていたのだが、特に問題はなかったし、ピニオンとスパーギヤの当たる面は少なくて済み、摩擦抵抗も減る理屈になる。さらに、音も静かだった。
この辺の所は、インラインのクラウンギヤとベベルギヤとの関係と似ている。
結局のところ、モデルカーレーシングにおいては、摩擦抵抗値が少ない方が良い結果が出るということなのかもしれない。
 

 さて、AYKが覆面シャーシを告知している頃、トドロキスピードウェイよりいち早くアングルワインダーシャーシとパーツが発売されているので紹介したいと思う。
トドロキ製シャーシは、オーダーメイド式と前に記載したとおり、このアングルワインダーシャーシも同じくホイールベースなどを注文時に指定して自分専用のシャーシとして購入できる仕組みと思われる。
これらのパーツを見て思い出したのだが、当時私が好んで使用していたアングルワインダー用モーターマウントは、トドロキ製であったのだ。
写真は、このマウントを使用して製作中だったシャーシだ。ほとんどピアノ線で作り上げたものだが、このマウントは使い勝手が良かった。購入先は、巣鴨サーキットであった。ということは、トドロキは当時卸業もやっていたことになる。
 
 
 
 
 
メジャーレース存続危機?!

 1968年10月に開かれた「第6回オール関東モデルカー・レーシング選手権大会」が開催され、そして、輝かしい1969年を迎え、通常、新年度のオープニングを飾る春のメジャーレースと言えば、オール関東モデルカー・レーシング選手権大会であるのだが、残念ながら当方の資料でその結果紹介を見つけることはできなかった。
しかし、開催の日時、場所、エントリーフィーなどは、1969年4月号に開催要領が小さいスペースながら紹介されていた。
その内容とは・・・。
「第7回オール関東モデルカー・レーシング選手権大会」 
 開催日時 1969年3月30日 
 開催場所 トドロキ・スピードウェイ」
その他、エントリーフィーなども書かれていた。
 以上のことから、開催はされたのではないかと推測するのだが、「模型とラジオ」誌5〜6月号にも掲載はなく、また、トドロキ・スピードウェイの商品広告欄にもその結果が載ることもなかった。
どうもスッキリしない。
ちなみに、翌1970年のオール関東は中止となっているのだ。その代わりとは言えないかもしれないが、西日本モデルカー・レーシング連盟主幹で「1970全日本モデルカーレーシング・グランプリ 個人選手権大会」が名古屋 名卓サーキットにて3月に開催されている。 全日本の個人戦は初めての試みである。そして、同年8月には恒例の「1970全日本モデルカーレーシング・グランプリ チーム対抗選手権大会」が開催されている。

 さらに、1971年になると、真夏の「全 日本モデルカー・レーシングチーム対抗選手権大会」がなんと中止となるが、その代替えで「オール関東モデルカー・レーシング選手権大会」が復活する。 そして、8月には前年初めて開催されて好評だった「全日本モデルカー・レーシング個人選手権大会」が継続開催されている。
 どうも1969年頃から1971年頃の期間は、日本モデルカーレーシング界にとって受難の年だったように感じる。
エンドユーザーが不在に近いこの頃の日本モデルカーレーシング界。 マニアックな愛好家だけで続けていたのであれば、当然無理が出てくるし、全国規模の大会を運営することは難しくなってくるのは当然だ。
特に、1969年より日本モデルカーレーシング規約がインターナショナル化され、ますますプロフェッショナルな傾向に傾いていったのもその原因の1つではないだろうか。
 


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