ビッグマシンの対決!!
 
T.N.T(トヨタ、ニッサン、タキ・レーシングチーム)最後の日本グランプリ

 第1回日本グランプリからわずか6年で日本グランプリは大変貌し、今や排気量無制限のCAN-AMシリーズとFIAマニファクチャラーズ選手権を合わせたような世界でも稀に見るレースへと変わっていた。
そのピークとなったのが、1969年10月10日に開催された「'69 日本グランプリ」であった。
自社製5リッターV8 DOHCエンジンを搭載した“トヨタ ニュー7”、やはり自社製6リッターV12 DOHCエンジンを“R382”に載せたニッサン、そして、ポルシェ・ワークスの監督/メカニック/ドライバーと最新鋭の“ポルシェ917”とその年のチャンピオンマシン“908スパイダー”をパック形式で持ち込んだタキ・レーシングチーム。 
人気の生沢 徹こそ出場しないが豪華なメンバーとマシンが揃い日本グランプリの注目度は最高潮を迎えていた。

 時代は、外国からレーシングマシンを買って勝てるような日本グランプリレースではすでになく、プライベーター筆頭のタキ・レーシングチームは、ポルシェのワークスチームをパッケージとして契約し、タキ・レーシングチームとしてエントリーするという苦肉の策でトヨタ/ニッサンに対抗した。また、ポルシェ・ワークスマシン2台のバックアップマシンとして、前年総合2位となった“ポルシェ・カレラ10 ( 910 )”とローラT70MKIIIをオリジナル・オープンボディへと変更した“タキ・ローラT70”も参加させている。

 来日するポルシェ・ワークスチームの内容は、トップドライバーであるジョー・シファート、ハンス・ヘルマン、そして、マシンオーナーでベテランドライバーのデイビッド・パイパー、さらにポルシェの現役監督のリコ・ステインマンを招待し必勝を期す。 
しかし、レースの1週間前に来日し、富士での練習もほとんど出来ず本番を迎えたことが結果に響き、シファートの917は総合6位と惨敗、ニッサンが1〜2位、トヨタが3位という結果となった。しかし、シファートの終盤に見せたカミカゼ走法は鬼神みなぎる走りであり、予選タイムを大幅に上回る1分46秒台を記録していたから、もしもがあればのことだが、練習も十分に行いセッティングが整えていたならばかなりの強敵になっていたのではと想像するところだ。
 
 
 1969年FIAマニファクチャラーズ世界選手権チャンピオンマシン------
 ポルシェ 908スパイダー ( Porsche 908/02/008 )
Driven by H.Helman / K.Tanaka

 1/32 scale #17 Porsche 908 spider is FLY model repainting.
Built by Takehiko Sudo.
 


 
 この“908/02/008”だが、日本グランプリで総合7位となった後、タキ・レーシングチームが買い取り日本カンナムや鈴鹿のレースなどに参加し活躍する。
ワークス・ポルシェとしてのヒストリーでは、1969年のマニファクチャラーズ世界選手権のBOAC500マイルレースにて3位になっている。
1970年の富士300マイルレースで風戸 裕が乗った後、タキ・レーシングが解散し908も消息不明となり、海外に渡ったのではと思われる。
 ポルシェ・カレラ10 (910/012)については、前年の総合2位から始まり、69年日本グランプリでは若き風戸裕がドライブし、総合8位となる。 また、数々のビッグレースに参加し活躍する。 70年の日本ドライバーズ選手権で風戸裕がこのマシンでチャンピオンとなる。 68年から70年代前半まで活躍し現役を終えるが、現在も本体は日本にある。
 
 
 ポルシェ・カレラ10 (910/012)-----ポルシェ最後の2リッターマシン
 
Hiroshi Kazato and #16 Porsche 910.
1/32 scale #16 Porsche 910 is MRRC model repainting.
 Built by Takehiko Sudo
 
 ホワイト・エレファント日本に初上陸!!
 ポルシェ 917 と エース・ドライバー“セッピィ”の登場!!



 


Jo Siffert and his 917 at Fuji SW in 1969
He gots a 6th place in 69' Japan GP.
This is 1/32 scale "Le Mans Miniature" Slotcar RTR repainting.
Built by Takehiko Sudo.

 
 
 あっという間に通り過ぎた1960年代の日本グランプリ。 その間の国内自動車メーカーの技術的な進歩は市販車も含めて目を見張るものであった。 さらに自動車メーカー間の合併や協力関係の強化も拍車をかけていた。
ニッサンは、プリンスを吸収合併し、トヨタは、日野やダイハツを支配下に置き、ホンダやマツダは独自の方向へと進んでいくことになる。

 1969年の日本グランプリは、そんな自動車メーカーの動向が明確になり、いすゞ自動車を除き、実質的にトヨタとニッサンの戦いとなっていた。
 その争いに加わってきたのが、タキ・レーシングチームである。 しかし、いくらブリヂストンの協力を得ているとはいえ、メーカーの技術進歩には追いついていくことは出来ず、遂にポルシェ・ワークスを丸ごと日本に呼ぶという奥の手を繰り出したのだ。
その費用は莫大なものだったと想像できる。 事実、日本グランプリ終了後、タキ・レーシングチームは経営悪化となり、翌1970年には解散してしまう。
 
 ポルシェ 917/010は、デビッド・パイパーがオーナーであるが、メンテナンスはワークスと同じ体制で整備されていた。
余談だが、2年後の1971年に生沢 徹が富士GC用に持ち込んだ“917K”は、デビッド・パイパーからレンタルし、ボディだけを変えた同じ917/010であった。

 決勝レースの数日前にシファートは、富士でのスタンディングスタートの練習を行っている。 練習走行していたツーリングカーなどに協力を得てグリッドに並べスタートを練習していたという。その甲斐あってか、決勝レースのスタートダッシュは素晴らしいものであった。何せ、レース序盤、国さんのニッサンR382にヘアピンで抜かれるまでトップを走っていたのだから・・・。
とにかく来日が間際だったのが痛い。しかし、来日前にポルシェチームは招待なのだから特別に練習できると踏んでいたようだったが、富士特有の霧や雨、さらにメーカーのコース占有などでテストもおぼつかない状態でまったくの予想外だったようだ。
 結果は、スタート後数周はトップ争いをしてトップを走る場面もあったが、徐々にニッサン、トヨタに後れを取り、富士をほとんど走っていなかったデビッド・パイパーとのドライバー交代もあり、総合6位が精いっぱいだった。しかし、終盤の走りは素晴らしく、バーストしながらのゴールは劇的なものであった。 
 この仇は、同年の日本カンナムでリベンジするという噂も流れてきたが、ポルシェ 917PAとシファートが日本カンナムに来ることはなかった。
 
 
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Special thanks : Takehiko Sudo.

(C) Photographs and built by Takehiko Sudo.