世界へのジャンピングボード

 1967年のTetsuは第4回日本グランプリの優勝をジャンピングボードとし、その勢いのまま2年目のイギリスF3選手権に向かった。
この年のTetsuは昨年のロータス41から信頼性のあるブラバムBT21に車種を変更し確実に上位でのレースをすることを心掛けた。
さらにスポーツカーレース用にホンダS800を準備し、この年最大の成果となる国際格式のレース ニュルブルクリンク500Kmでクラス優勝という快挙を成し遂げた。


TOP : Tetsu with his Honda S800.
BOTTOM : Brabham BT21 and Tetsu.
(C) Photograph by Joe Honda.


 生沢 徹を愛し、Tetsuの模型を作り続けている 相原 修氏の作品を紹介しよう。
氏が作る1/43スケールモデルの小さな世界には、当時イギリスF3選手権に賭けるTetsuの情熱がひしひしと伝わってくる。

1967 Brabham BT21B & 1969 Lotus 59
 この年日本では沈黙していたトヨタ自動車が俄かに動き出していた。年一度の日本グランプリにのみ集中していたメーカーの活動をトヨタはその他の国内格式ないしは準国際格式のレースにレース用トヨタ2000GTを配して挑戦し始めたのだ。ほとんどが500Kmないしは1000Km、そして12時間や24時間レースにも参戦しほとんどのレースで優勝し続けた。特に富士で開催された24時間レースでは、ル・マンのフォード、デイトナでのフェラーリに負けじとワン・ツー・スリーフィニッシュをやってのけている。
このトヨタの動きは将来のル・マン24時間レース挑戦の布石ではと当時噂されていた。しかし、フロント・エンジン車の2000GTではおのずと限界がある。ニッサン同様ミッドシップのプロトタイプ車両の開発は急務であった。
 叩き上げの日産系ドライバーと共にチーム・トヨタのドライバーが注目し始めたのもその頃で、特に福沢幸男、そして鮒子田 寛の存在は大きい。
 この年忘れてはいけないニュースがある。1964年よりF1グランプリに挑戦し続けているホンダF1が1965年のメキシコ・グランプリ初優勝に続く2勝目を達成したことだ。9月10日に開催された“イタリア・グランプリ”での出来事であった。
約1ヶ月遅れでのAUTO SPORT誌11月号の表紙は、当時のホンダF1監督の中村良夫氏の写真をバックに、ジョン・サーティーズが駆るHONDA RA300が疾走する合成写真である。とてもインパクトがあった表紙だったと思う。
 そして、AUTO SPORT誌12月号の表紙にあの ポルシェカレラ10(910)の日本上陸の模様が・・・。ついでに1967年を飾ったAUTO SPORT誌の表紙を並べてみよう!興味尽きない年だったことがよく分かる。


 そんなことをワクワクしながら毎月発売されるAUTO SPORT誌とモデル・スピードライフ誌を隅々まで読みながら少年はスロットカーを作り続けている毎日であった。しかし、中一時代は勉強の成績が最悪で、見かねた親が塾に行かせたのもこの時であった。
家の近くにある塾は算数を主に教えているところで歩いて5分のところにあった。まだ先生は若く綺麗な女の先生だったが授業は普通の民家の2階の畳間に机が1つというシンプルさ。生徒も私を含め4〜5人という少数精鋭。学校の授業より半年早く勉強していくのが方針だった。お陰でクラスの最下位に近かった算数の順位が半年後にはトップ5に、そして1年後にはなんとトップに!!奇跡だぁ〜!連立方程式が得意の少年となっていた。
さらに自信をつけたのか違う教科も成績が上がっていく。それを見て、当時流行だった体育会系ドラマ「これが青春だ!」的指導法のクラス担任だったN先生が、夏木陽介ばりに「ボン!やったな!!」と喜んでくれたことか思い出される。先生の仇名は「チョーさん」。ドリフターズのいかりや長介にソックリだったなぁ〜。

 音楽にも貪欲だったこの時代。ストーンズの「サティスファクション」のギターフレーズで感銘を受けてからずう〜とストーンズのファンであり、ベンチャーズをこよなく愛す少年は、ビートルズに偏ることもなく、大橋巨泉司会のビート・ポップスで「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がビートルズの「ハロー・グッドバイ」やモンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」に邪魔されて遂に1位になることが出来なかったことが今でも悔しい!
世代がわかる言葉 “ビッグマシンとグループ7”

 早いものでこの時代の1年は早い。1968年FIA世界マニファクチャラーズ選手権は今年から新規定が設けられ、プロトタイプマシン(グループ6クラス)は3リッター以下のエンジン排気量制限を受けることとなり、昨年までのフォードMKIIやMKIV、チャパラル(シャパラルか?!)、そしてフェラーリ330P4などは出場出来なくなってしまった。一方、年間50台生産義務があるものの、スポーツカー(グループ5)は5リッターエンジン搭載が可能というレギュレーションとなり、古くからあるローラT70やフォードGT40などが再び注目されるという状況が生まれた。
そんなややトーンダウン気味のマニファクチャラーズ世界選手権とは裏腹に注目されるレースが現れた。
それはアメリカとカナダのサーキットを行き来するシリーズ戦として1966年から始まった「CAN-AMシリーズ」である。
正しくは「カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ」と言われ、ローラやマクラーレンなどのシャーシにアメリカンV8プッシュロッドエンジンを搭載したマシンによる短距離レースだ。当時はまだFIA認定のレースではなく、アメリカのSCCA規約に基づいたレギュレーションが採用されていた。スポンサーの多さや多くの賞金総額が魅力ということで多くの一流ドライバーがヨーロッパから参加し、アメリカのトップドライバーと初年度からデッドヒートを繰り広げていたのだ。2500cc以上の排気量であれば天井知らずと言う”ビッグ・マシン”同士の戦いであった。マニファクチャラーズ選手権とは違い乗用車と同じ装備もライト関係などの装着義務もなく、ただ速く走るためだけの最低規則のみ存在した。日本においても例外ではなく、事実 68'日本グランプリ(第5回日本グランプリ)のレギュレーションを見るとCAN-AMレース用のマシン規定を満たす「グループ7」車両の出場を認めている。
 1968年の日本グランプリのメインレースは、グループ6のプロトタイプ、スポーツカーなどのグループ5、そして、排気量無制限で細かい規定がないグループ7のレーシングカーで争われることとなった。しかし、レース距離は、前年の60周360Kmから80周480Kmに増えており、短距離用に開発されているグループ7マシンがこの距離を走りきることが出来るかが鍵である。

 私などは友人H君と事前情報を掲載したAUTO SPORT誌やカーグラフィック誌などの発売日を心待ちしており、タキ・レーシングの真紅のローラT70MKIIIが木箱から現れた表紙を見た時には期待と興奮で飛び跳ねる気持ちであった。
中でも日本グランプリレース予想(競馬予想に近いものがある・・・)記事は、AUTO SPORT誌の恒例で、誰がポールポジションを取るとか、何秒でどの車が走るかなどを予想する。傑作なのが予想スターティンググリッドを描き、スタート後第1コーナー突入時の順位予想も描かれていた。そして、誰が優勝し、どのくらいのタイムでゴールするかまでも予想するという記事であった。
さらにグランプリ終了後の号においては、その結果と予想の比較考察などもあったので本当に面白い雑誌であった。

 ところで前年参加しなかったトヨタもル・マンを狙ったのかCAN-AMなのか今ひとつ理解できない3リッターDOHCV8エンジンを搭載した トヨタ-7を開発し、この1戦に全てを賭ける。対するニッサンはプリンス時代からの栄光の軌跡を守るため、自社製V12エンジンの開発が遅れたため、形振り構わずシボレーエンジンを急遽輸入し自社製R381のシャーシに搭載してライバルを迎え撃つ。
 今まで自動車関連の雑誌だけが情報を流していたのだが、この年は打って変わり週刊プレイボーイや平凡パンチなどが好んでレース関連記事を毎週のように掲載続けたからたまらない。興奮度は増すばかり!
下の画像は、当時のプレイボーイ誌の日本グランプリ情報記事である。(さすがに自分で買うことは当時の中学生では出来ず、親父に買ってもらい関連記事だけを切り抜いてもらっていた・・・真面目な中学生だったなぁ))


TOP : 1968 Japan GP Report From Weekly Playboy Magagine in Fuji.

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Special thanks : Joe Honda.