■■■■■■■■■■■■ 恩根内について(天塩川・恩根内小学校の歴史)
     
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 簡単に恩根内を紹介します。
 北海道の北部で旭川と稚内のなかほどに位置します。
 美深町の最北部に有る集落です、天塩川が蛇行する堤に囲まれたところです。

 東にJR恩根内駅があり国道40号線が走ります。
 集落は20件ほどで中心部にコミュニティーセンターがあります。
 商店が一つあり、駐在所もあります。

 こじんまりとした集落で、周りの山々を背景として時間がユックリと流れる感じがします。

 2008年に閉校した小学校校舎を手造りで改造して、2012年にアートビレッジとしてオープンしました。
 小学校ですから教室の大きさも手頃で、カフェ・アトリエ・ギャラリー・宿泊施設を併設しています。


 集落内には町営住宅の空きや離農した方の空き家があり、交渉しだいでは移住先としても面 白い場所です。

 ここ恩根内地区は地域共同体意識が強く残っていて、あらゆることに全体で動くという古き良き文化が残っています。
 地域と一体になるなか、新しい創作をする場所として最適だと思います。
 

 
   
   
  恩根内近辺図  
 
     
 

ArtVillage恩根内(旧恩根内小学校)

 
  平面図
     
 

 ■天塩 恩根内の地名について

 地名について図書を開いて見ると、すべてアイヌの呼び名からきているそうです。
 天塩川は松浦武四郎に依ると、川上五十里ばかりのところに、テッシ。川中一條の岩並べり。あたかも梁を懸けるごとく、この場所から起こるとあります。
 この川筋は木材流送のために手がはいったため、今は殆ど見ることが難しくなっています。
 このテッシは中流恩根内と美深の間で、水中を岩磐が横切っています。
 またその少し下、恩根内大橋のところのカマテシカ(平たい岩の梁の岸)の 処でも横切っています。
 この梁の姿の岩が在った処から、天塩の名がついたそうです。

 この当時はアイヌが生活していて、松浦武四郎に依ると恩根内と美深に3戸18人が生活していたとされます。
 この辺りの酋長はニシハコルという名前だったそうで、松浦武四郎が世話になったアイヌではないかと想像します。

 ここより少し下流に音威子府村の筬島という場所があり、そこでアイヌの古老から松浦武四郎が聞くことにより北海道と名ずけられたことを考えると大変興味深いものがあります。
 道北にあって恩根内という場所が北海道誕生の中心部分を成したような気がしますし、その恩根内にアートビレッジを夢見るのも何か不思議な縁を感じるところです。

 ここ恩根内は天塩川西岸のオンネナイという小川からついたそうです。
 onne-naiのonneは「年とった、もともとの」という意から、「主要な、大きい」とも使われるそうで、ここのは小川なだけに他に意味が有るのかも知れません。
 この北側にある豊清水はペペケナイ(pe-peken-nai 水が・清澄な・ 川)からきたそうです。
 また小車はo-kurumat-oma-i{オ・クルマッ・オマイ)で、川尻に・和人の女が・いる・もの(川)} だそうです。
 いずれも川の有る場所を呼んだところから、和人がつけたようです。

 

恩根内の隆盛

美深町の人口推移
 明治32年5月に美深8線川向いに内地人が移住したのに始まり、恩根内まで鉄道が延長され急激に増加発展したようです。
    明治33年  12戸   47名
    明治35年  158戸  399名
    明治37年  286戸 1,320名
    明治40年 1.125戸 5,252名
    大正 3年  2,147戸 10,406名
    昭和34年 2,692戸 14,651名
     この34年をピークに減少し始めてますから、 恩根内地区も同様な推移だと思われます。

恩根内地区への入植
 当時は 恩根内原野と呼ばれ、明治34年6月に徳島県人が入植したのが始まりです。
 その後愛媛や福島からも入地し発展してきたそうです。
明治40年に入植した方の記憶によると
  家族とともに部落に入植、さきに入植者が3戸。
 着手小屋は「拝み小屋」または「あみがさ小屋」といって中に柱はなく、笹やキビガラで囲っていたそうです。
 入口には「むしろ」を吊り、床は「やちだも」や「しころ」の割板の上に「むしろ」をひいていたそうです。
 当時、ランプをつけている家はなく、ランプを使うようになっても普段は2分芯、来客集会のときで5分芯だったそうです。
 そうやって節約してると、石油は4合ビン1本あると2ケ月以上使用できたそうです。
 知恵文にいたアイヌが時折狩猟に来て、熊の肉をもらい猟を手伝ったそうです。

 その当時は入植した和人とアイヌが共生していたんですね。

     
 

 
恩根内小学校について

 明治34年に入植が始まり明治36年には80余戸を数え、学齢児童も20余名になったため明治36年4月8日、恩根内16線、笠原氏所有家屋の一部を仮校舎として、「恩根内簡易教育所」としてスタート。
 その後も移住者の増加と義務教育年限の延長(4年から6年へ)により、児童数も69名となり明治41年70余坪の新校舎を完成。
 同年5月に「恩根内第二尋常小学校」と名称を改め、2学級92名だったそうです。
 明治44年火災で焼失するも住民の方達の努力で再建、名寄〜恩根内間の鉄道開通 で移住者も増え3学級175名となったそうです。
 さらに奥地の開拓がすすみ、大正2年に25線、大正6年に辺別毛内、大正7年に御車内、と各部落に特別 教授場が設置され、通学区域を変更したために一時的に児童数が減少したそうです。
 大正11年には補修科を設置、続いて大正15年には高等科を設置し「恩根内尋常高等小学校」と改めたそうです。
 その後、昭和4年に70余坪の屋内体操場を新築、昭和13年には校舎も新築。
 昭和16年には学制改革により「恩根内国民学校」。
 昭和22年には高等科を分離して「恩根内小学校」という名前になったそうです。
 昭和36年には「御車小学校」、40年には「楠小学校」を統合、45年には6学級113名で職員数は8名だったそうです。

 こうした長い歴史ある恩根内小学校校舎を活用しつつ、賑わいを少しでも呼び戻すことができれば嬉しいですね。

 

恩根内小唄

野口雨情が美深を訪れたときに作詞されたそうです。
  
恩根内小唄        作詞 野口雨情
   1 今朝の山なり函岳あたり   雲の行ききが気にかかる
   2 此所は恩根内東洋一の  見たか聞いたか水銀鉱
   3 松浦判官かり寝の宿の  昔をしのぶ恩寝内
   4 咲くは睡蓮いろとりどりに  おいで笠原公園に

 
     
 
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