2.1980年代の地域情報化

  情報は、全ての生物が生きていくために必要な、物質、エネルギーと並ぶ基礎的要素である。また、人間の作る組織も、情報を伝達しあい、処理することによって初めて成り立つものである。その意味では、「地域情報化」は、人間の社会生活の誕生とともにあったと言える。思い浮かべやすいのは、奈良時代からあったといわれる「高札」や、昭和期の国家総動員体制の構築に活用された回覧板などがその代表例だといえよう。 だが、「地域情報化」という言葉が一般的に使われるようになったのは、1980年代以降だ。朝日新聞の記事見出しデータベースで「地域情報」という言葉が見出しに使われた例を調べると、1972年1月11日に「過疎地域情報センター」という言葉が登場した例はあるが、地域情報化という意味で使われ出したのは、1984年10月26日に中曽根首相に提出された「高度情報社会に関する懇談会」報告書以来になる。また、山田晴道・東京経済大学助教授が、国立国会図書館に納本された書物のデータベースであるJAPAN−MARCを利用して、表題に「地域情報」を含むものを検索したところ、1986年2月に出版された『地域情報化戦略』と、同年3月の『地域情報化入門』が早かったという(同氏ホームページから)。

金澤寛太郎.・前広島市立大学教授は「1960〜70年ころの未来学ブームの中で情報社会論がもてはやされ、情報化を徹底した"Wired-city"といった構想が打ち出されたりした。70年代半ばからは、政府主導のニューメディア実験ブームが起こり、マスコミもニューメディアでもちきりとなった。多摩CCIS(76〜80年)は郵政省が大々的に打ち上げた未来型コミュニケーションの目玉だった。通産省は対抗するように、団地の各家庭にカメラまで備えた重装備の双方向ケーブルテレビ実験、東生駒Hi−OVIS(78〜86年)を取り上げた」(『現代のメディア環境』学文社 1997)と時代分けする。さらに国際大学の宮尾尊弘教授によると「日本では高度成長が終わった70年代に、生活圏としての『地域』や『コミュニティ』が見直され、『地方の時代』や『定住圏構想』が打ち上げられた。それを受けて 、80年代に入り情報化が日本でも国の大きな課題になった際に、情報化を推進する対象とし『地域』や『コミュニティ』に焦点が当たり、83年ころから郵政省や通産省などが地域情報化のための施策を次々と採用した」(後述ホームページ)という。1983年は国際連合の「世界コミュニケーション年」とされたが、日本政府はこれを「ニューメディア時代の到来」を告げる年と受け止め、テレトピア(郵政省)、ニューメディアコミュニティ(通産省)、インテリジェントシティ(建設省)、グリーントピア(農林水産省)など、各省庁が争って地域情報化の政策を打ち上げた。かつての新産業都市、工業整備特別地域といった「地域開発政策」の情報版という趣であった。これらの政策によって、その後の地域を変えるメディアとして期待されたのはキャプテンとケーブルテレビ(CATV)だった。

 キャプテンはCharacter And Pattern Telephone Access Information Networkの略。電話回線を通じて文字や画像を送る双方向のコンピューター通信「ビデオテックス」の日本電信電話公社版で、1984年11月からサービスが開始され、ヨーロッパのCEPT、アメリカやカナダのNAPLPSといった方式と普及争いを演じたが、テレビにアダプターを付け、それを電話回線につないで利用するという操作性の悪さや、アダプターの値段の高さなどが災いして、1997年度になっても32万件程度までしか普及しなかった。世界的にも、数百万単位で普及したのはフランスのミニテル(本来はシステムの呼び名はテレテルで、端末の呼び方が一般化)だけだが、これはフランステレコムが電話番号案内用の端末として無料で配布したことによる。
CATVは、本来はCommunity Antenna Televisionの略で、テレビ局の送信所から離れた山間部などで、受信条件の良い山頂にアンテナを立て、そこで受けたテレビ電波を地域で共有して見るための施設として発展した。しかし1980年代になると通信衛星から多数の番組を受けて加入者に流すシステムが登場し、日本では都市型CATVと呼ばれてニューメディアの主役になると期待された。1980年代には他に、衛星放送、文字多重放送などもニューメディアとして注目されたが、地域情報化の手段としてはキャプテンとCATVが中心となり、その普及のために郵政省、通産省などが助成策を取った。この代表が、郵政省が指定したテレトピアと通産省のニューメディアコミュニティだ。

 テレトピアは、99年9月に栃木県小山市が指定されて、全国で181地域(470市町村)になった。この小山市では、小中学校各4校が、郵政省と文部省の連携による学校インターネットに関する研究開発のモデル校となっており、テレトピア計画によって、市内の全校をインターネットに接続する計画を進める。さらに2000年4月に開局する第3セクターCATVのテレビ小山放送株式会社を、日本開発銀行の融資などによって支援し、市民が必要としている行政及びコミュニティー情報を映像によって分かり易く迅速に提供し、さらに学校インターネット接続にも役立てるのがねらいだという。
小山市のテレトピア構想はこのほかに、▽総合窓口市民サービスシステム▽救急医療支援システム▽図書館ネットワークシステム▽保健・福祉サービス支援システム▽産業情報提供システム▽防災情報システム▽公共施設案内・予約システム、などの整備を目的にあげており、これらは最近、指定を受けるテレトピアの、いわば標準的なメニューになっている。

 一方、通産省のニューメディアコミュニティは、現在はすでに役割を終えた、という扱いを受けている。インターネットで検索しても、通産省のホームページではニューメディアコミュニティという言葉も見当たらなくなっている。関連の事業はこれまで外郭団体のニューメディア開発協会が進めてきたが、同協会のホームページによると、1997年までにモデル地域21、応用発展地域72の地域がニューメディア・コミュニティ構想の指定を受けている。

 同協会は97年3月、ニューメディアコミュニティ構想の指定93地域の事業の進展度を評価した報告書を作った。それによると、「サービスが多くの利用者を得て、地域に定着し、システムの機能拡張を図るなど、自立的に発展している」という成果を上げたのは、わずか10%の9地域しかない。「サービスが多くの利用者を得て、地域に定着している」という『普及定着段階』の21地域(23%)を合わせても、三分の一に過ぎない。「サービスを開始している」という『システム構築段階』にとどまっているのが36地域(39%)あり、指定は受けたものの計画段階、あるいはシステム構築途上にとどまり、サービスを開始していないのが25地域(27%)、いったんサービスは始めたものの、事業から撤退したのも2地域(2%)ある。
指定を受けたのは、1984年(昭和59年)の熊本市、盛岡地域、高崎市、長岡市、西脇市、横浜市、大分地域、八西地域(愛媛県)以来、昭和年間だけで63地域にのぼった。最後に1995年(平成7年)に羽曳野市が指定を受けてからでも2年近くたっていることを考えると、この構想がいかに成果を上げなかったかが見て取れる。
 このため通産省は99年5月、「地域情報化の再活性化及び先進的情報システム導入のための調査」を行うことになり、「ニューメディア・コミュニティ構想指定地域の中で事業が停滞、断念又は運営続行が困難といつた地域」などを対象に、調査の希望地域を募集した。
結局、ニューメディア・コミュニティ構想は事実上の幕引きをし、「先進的情報システム導入」という形に立て直しを始めたわけである。

 郵政省は、通産省のようにはっきりテレトピア構想の失敗を認めているわけではないが、実情は似たようなものである。こうした80年代からの地域情報化政策の失敗の原因として、国際大学の 宮尾尊弘教授は 
1
「まず情報化ありき」と、中央省庁が地域の情報化を推進しようとしたこと自体に問題があり、地域のニーズに応えるというより、国の施策として各省庁の予算獲得の道具になってしまった。さらに国の施策に乗って、供給側の大企業が情報通信機器の売り込み合戦を演じたことも、地域のニーズからの遊離を助長した。
2
地域やコミュニティのニーズについても、当時直面する問題はたとえば産業公害問題のように比較的単純明瞭で、情報化以前の政治や制度のレベルで解決可能であり、また解決すべきものであった。
3
地域レベルで人が育っていなかったために、コンピュータを扱える人が少なく、導入された情報システムを地方のニーズに合わせるように応用したり修正したりすることができなかった。
4
当時の情報システムが大型コンピュータを中心とする集中管理型であったため、導入や維持のコストが高く、小規模な地域のニーズとのミスマッチが大きかった。
5
情報通信インフラの整備も不十分でコストも高く、特に地方に行くほど通信費が割高であった。 以上の点に加えて、当時の情報システムに適合し積極的な導入を図った大企業が東京に集中した影響が各地方に及び、地域情報化の芽を押し流してしまったことも大きな要因であった。

――――といった理由をあげている。(http://www.jcc.co.jp/~mmbc/ittou/jp/1008it-1.html
 筆者は80年代後半、朝日新聞社で、キャプテン、CATV、文字多重放送などのニューメディア向け文字ニュースの配信業務を担当したが、受信用の端末は一向に普及せず、たまに端末があっても、ニュース画面を呼び出すまでの操作が複雑で扱える人は少ない、わずか15字×7行程度の画面を表示するのにも時間がかかっていらいらさせられる、などの苦労のし通しであった。街頭にキャプテンや、場合によっては北米方式のビデオテックス端末を置いて、観光情報などを見せる、といった試みは全国でかなり行われたが、端末の物珍しさで利用された以外は、案内地図やパンフレットを見た方が便利、というのが実情であった。

 要するに、新しいメディア技術によってこんな社会が実現するという期待がふくらみ、事業化に飛び付いたものの、技術は一般の人が利用するまでには発達していなかった。さらに、かなり使える程度まで技術が改善されても、従来のメディアを利用してきた人間の生活習慣を変え、生活に取り入れられるようになるには時間がかかる、ということであろう。


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