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野球部創部の秘話

旧職員 中尾俊之
 「先生、野球部をつくりたいんです。顧問

を引き受けてください」と生徒から創部の課

題をつきつけられた。私が野球部をつくるこ

とを迷う幾つかの理由が生徒に野球を断念さ

せる説得力のある理由になっていない、と気

づいた時に私は重い腰をあげていた。それは

私が狭山高校に転勤して二年目、昭和六十二

年、七期生入学と同時であった。生意気に創

部の旗を掲げたものの、理解を得るための生

徒指導部の会議が原案づくりで難航し、一それ

と比例するかのように創部希望の生徒が減っ

ていく、という具合だった。創部の旗はいま

さら降ろせない、かといっておのれのよりど

ころとしている生徒は歯が抜けるように脱落

していく、その出口の見いだせない迷路のな

かで年を越したのが事の始まりだった。

 翌年、四月、八期生が入学してきた。野球

部創部の噂を聞きつけ地元、狭山中学中心の

メンバーが大量に加わって六月、職員会議の

議題までこぎつけたものの否決される。結果

を報告した時には教室からすすり泣きが聞こ

えていた。それ以後は何か自分の頭上で話が

進んでいるようで事の成り行きを静観するし

かなかった。私はといえば、「先生を頼って

練習をしてる生徒を見捨てないでほしい」と

いう父母からの要請を断ることもできず、通

称「ぐみの木グランド」で極秘練習をしてい

た。熱い太陽ににらまれて何も考えることも

できずにひたすらノックバットを握っていた。

「先生、野球部っていつになったらできるん

や」「さあ、ようわからん、会議で結果がで

とる以上、こんなことやっとても無駄なんと

ちゃうか。二学期はじまったら学校のグラン

ドで早朝練習をやってみいや。責任はようと

らんけど・・・」
 
 秋になり、校長招集の臨時職員会議は二転、

三転した。職員会議の自治論と内外の諸情勢

の変化論が錯綜して「会議は踊る、されど何

も決まらず」の混沌とした様相を呈していた。

結局、その年の十一月、職員会議が校長に折

れる形で平成元年、四月からの創部が認めら

れた。私の折衝能力、説明能力の下手さも災

いしてたくさんの非難を浴び、祝福してくれ

る者は少なかった。私自身、職員間に大きな

亀裂を残したことがいつまでも心に疼いた。

ある先生から「野球部はきちんとした手続き

を踏んで誕生した部ではない」と言われた。

反論できない私は「それでも私が立派に育て

てみせる」という言葉にならない言葉を飲み

込んでいた。(ちなみに、その先生は野球部

が誕生した日にボールを1ダース贈ってくれ

た。教師、かくあるべし。その「潔さ」を私

はー生、忘れないつもりだ)

 私は十一年間の顧問生活を終えて狭山高校

を去る日に昭和六十三年度の職員会議議事録

を整理していた。それまで、その頃の創部の

顛末を忘れたいー念で野球部に没頭していた

がふと、自分の教師としての運命を決めたあ

のー年をふりかえってみたくなったのだった。

当時の狭山高校は草創期の大学実績一辺倒の

進学校づくりから脱して文化祭や部活動にも

力をいれていく成熟期にはいっていた。当時、

学校全体が部活熱や文化祭熱にうなされてい

るなかで、野球を介して学校とー体感を持ち

たいという私の思いと体育科や他の部活顧問

の自分のグランドやクラブを守りたいという

譲れないー線がこの間の感情の確執を生んだ

のだと思う。当時の山本和男教頭や伊藤生指

部長には創部にこぎつけるまで様々な心労を

おかけした。人の恩、もって瞑すべし。いま

では遠い昔の別世界の出来事のように振り返

ることができる。

 

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