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                    メコン圏旅行記


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北タイ・国道1号線の旅@

   三都の古い歴史を想う =チェンライ編=

                                            清水英明

 

  タイ・バンコクでおなじみのパホンヨーティン通りは、実は主要幹線として北タイまで延びている。高名な元陸軍大将の姓にちなんだこの国道は、北タイの中心都市チェンマイには向かわずに、ランパーン、パヤオ、チェンライの北タイ3都市を貫いている。1月下旬(1999年)、この国道1号線沿いに、チェンライから南下し、北タイに展開された古都3都市を訪れ、その歴史の一端に触れてみた。

 

 1月22日、バンコクからチェンライまでは飛行機でひとっ飛びする。チェンライには観光でも何度か来ているが、メーサイやチェンセン、チェンコン、山岳民族の村などへの拠点として来ていた。今回は、チェンライ市の西北にあるドイ・チョムトンと呼ばれる丘に登り、ランナー王朝の始祖メンラーイ王の時代に、思いをはせてみたいと思ってやってきた。

 

 チェンライ空港到着後、喉の渇きを潤しに空港内の売店によると、ニューススタンドには、新聞・雑誌以外に、ゴールデントライアングルとの関係でいつも取りざたされるチェンライらしく、「クンサー」と「シャン州」についてのタイ語の本が置いてあった。バンコクの本屋でも見かけない本でしかも空港内の売店であったために余計驚いた。私は日本でも海外でも旅行をすると、できるだけその土地に関係のある書籍を求めるために、書店や博物館等を覗くのであるが、タイでは残念なことに、地方出版社も少なく、地図やガイドブックも手に入らないのが通常だ。期待していなかった空港内の売店で、思わぬ収穫に出くわし、幸先のよい旅になりそうだと思えてくる。宿泊先も事前には決めていなかったが、今回の目的地に歩いていける距離にある警察署近くの、とあるゲストハウスを選んだ。

 

 北タイの歴史に多少関心をもたれた方なら、ランナータイ王国の創設者がメンラーイ王で、1296年、ランナータイ王国の中心都市として、チェンマイの町を建設したこと、更にはチェンマイ建設の前には、チェンライの町を開いたことをご存知であろう。そして空港から町に入ったところにあるメンラーイ王の立像を見れば、とかく北タイ観光としてチェンマイ・チェンライとセットになるだけに、ここチェンライの町もチェンマイに先立つ都としてそれなりの大きな町が建設されたのではと思うかもしれない。しかしながら、チェンマイや北タイの他の町に比べ、町の中に古都らしらはあまり漂っていない。ガイドブックを見ても、ワット・プラケオやワット・プラシン以外には、朝市やナイトバザール、他には周辺へのトレッキング拠点としての紹介だけというものが多い。実は、メンラーイ王が立派な都としての町作りをした跡はなく、王の居城としてチョムトンの丘の周りの警護を固めただけのようである。

 

 グン・ヤーンというタイ族の首長国の王子に生まれたメンラーイ王は、1261年、若干22歳で即位する。即位後、コック川流域の周辺の町の併合を積極的に始め、1262年には、チェンライの町を建設する。その後も周辺に勢力を伸張し、更にランプーンに都し数世紀に渡り政治・経済・文化の各方面で栄華を誇ったハリプンチャイ王国を滅ぼすにまで至った。その後もビルマのぺグーやアヴァにも遠征するなど、勢いは止まらなかった。そしてチェンライ建設から30年以上たった1296年、チェンマイの町が建設され、ランナータイ王国時代が始まることになる。

 

 若きメンラーイ王がチェンライの町を建設するにあたり、その中心となったところがチョムトンと呼ばれるこじんまりとした丘のあたりと言われる。この丘の東側にもまた小さな丘があり、ここは東に広がる現在のチェンライの町を眺めるのも良し、北側を流れるコック川流域を眺望するにも良い緑多い静かな場所である。チョムトンの丘の方には、ワット・プラタート・ドイ・チョムトンがあり、そのすぐ南側には、108本の小さな石柱が配されたサオ・サドゥ・ムアンという町建設の礎たる場所を記念する所がある。象の後を追ってこのチョムトンの丘にメンラーイ王がやってきて、吉祥の地として仏暦1805年(1262/63年)ここに町を建設することになったと伝承は伝えている。チェンライ県では、1988年、町が建設されたとされる1月26日に、この市柱を建設している。ワット・プラタート・ドイ・チョムトンのすぐ北側には、中国人が多いチェンライらしく中国人が奉じる廟が、丘の上に建てられている。

 

 チェンライには、しっとりとした落ち着きが感じられ、穏やかな気候風土の下、静かな土地と人々という印象が持てるが、このチョムトンの丘周辺もまさにそういった雰囲気を醸し出しているところだ。しかし、メンラーイ王は、この丘に住みながらも、ここで静かに暮すことを選ばなかった。王子はその若さもあって覇気がみなぎり、王国建設の野望に燃えていたことであろう。チェンライの町を建設した同年には、第1王子のクン・クルアンが誕生している。その後のメンラーイ王の精気あふれる行動やランナータイ王国の発展を思いながら、スタートともいうべきこの静かでこじんまりとした緑豊かな丘に佇むと、一代で激しい生涯を送った王の人生に感慨深くなる。メンラーイ王は72歳とも80歳とも言われる高齢で、チェンマイにて雷に打たれて亡くなったと伝えられる。

 

 チェンライ建設からチェンマイ建設までにも34年の歳月を要し、王国建設の道程も決して順風ではなかった。また子や孫の一族間でも不義や反目・反乱が相次いだ。王にとって最初の悲しい事件とは、ハリプンチャイ攻略のため、ファーンの町を建設し常駐していたときに起こる。この時、第一王子をチェンライ領主に任じていたのだが、その第一王子は、たった13歳で、ある家臣にそそのかされ、父親であるメンラーイ王にチェンライで叛旗を翻す。その結果メンラーイ王をして、この長男を殺させることになった。

 

 チョムトンの丘を南に少し下ると、ワット・ガム・ムアンがある。ここにメンラーイ王が祭られており、古いレンガのチェディの前には、メンラーイ王の坐像があり、地元の人が供物を奉げていた。この寺はメンラーイ王の第2王子で、2代目のランナータイ王となるクン・クラムによって建設されたものと言われている。現在バンコクのワット・プラケオに安置されているエメラルド仏がもともとあったとされるワット・プラケオや、ワット・プラシンもチョムトンの丘を下りきったところにあるので、是非訪れたいところだ。

 

 今回、実はこうした史跡や寺を訪ねる以外に、チェンライに住んでいる面白い日本人男性・田中さん(当時36歳)に出会った。大工職人からチェンライでの生姜ビジネスを中国人経営者の下で手がけるという転身ぶりで、チェンライでの生活も10年目ということだ。彼から現地生活に根ざしたチェンライの町と人に対する見方を色々聞かせてもらった。こういう旅先での思わぬ人との出会いというのも、旅のもう一つの楽しみと言えよう。

 

 私は、田中さんから聞いた話しを反芻しながら、今後チェンライの町がどうなっていくのかに思いを馳せ、メンラーイ王の祭りを数日後に控えたチェンライの町を後にし、次の目的地であるパヤオに向かった。(続く)

 

 

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