参加活動記  (NGOスタディーツアー参加体験)

      イサーン(東北タイ)の農村に触れて

                          加納 義一

                                     (東京農業大学 国際食料情報学部国際農業開発学科2年)

投稿者より

初めてのタイ訪問で、何も知らない上、国際農業開発を専攻しているといってもあまりこれまで勉強しておらず、観察も不十分です。また言葉ができなかったため、十分に聞きたいことも聞けず、非常に恥ずかしい参加体験記となっていると思いますが、自分の感じたままを書かせていただきました。今回の体験を機にいろいろと考え勉強していきたいと思っておりますので、これを読んでくださった方より、ご意見やご感想・アドバイスなど、是非ご連絡いただきたくお願いいたします。

 加納 義一 (学生) mailto:yskz@parkcity.ne.jp

スタディーツアー概要

日程:1999年8月6日〜8月23日

       (計18日間)

2週間、ターラー村に滞在

同村で共同体験をするとともに、同村を拠点にケアタイランドの他の活動現場見学をする

参加人員: 17名(主に学生)

 

 

          1、農業開発の必要性を肌で感じるために

 8月6日から23日までの18日間、ケアジャパンの主催するスタディツアーに参加させてもらった。ケアジャパンは、タイ東北部の緑化推進事業や、未投函はがきで国際貢献をしよう!という運動を行っているNGOだ。この団体の存在はツアーに参加するまで知らなくて、たまたまインターネットで知った。care01.JPG (52163 バイト)タイについても特別関心があったわけではなく、スケジュールが都合が良かったから選んだという程度だ。

 僕は、国際農業開発の勉強をしていて、在学中に1回は海外に行って農業開発の必要性を自らの目で認識したかったから、参加した。学校では、具体的な農業問題や、植物の育て方なんかは教えてくれない。机の上だけでは、学べることも限られてくるし、農業は食い物を作るから意味があるものだと思っている。」それに、昨年1年間大学で生活し、すっかり怠け癖がついてしまった自分に、いい加減嫌気が差していた。本当に海外での活動をしたいのなら、今年の夏休みがチャンスだと思った。この旅で、人生の進む方向を少し絞ってみようと思った。

 このスタディツアーは、タイ東北部、ウボンラチャタニ県のターラー村に2週間滞在して、そこの学校に図書館を作ってくるというものだった。その村は特に貧しい村で、産業もなく、稲作農業だけで収入を得ている。そこにケアが入って、小学校ではケアの行っている環境教育を進めて環境問題の勉強をし、村の副産業の事を村の人達と考え、村の発展を考えている。しかし、小学校には図書館が無く、環境の事、産業の事、外の世界の事など、勉強する機会がなかなか無い。そこで、僕らがこの村に行って図書室建設を手伝うことで村に刺激を与える事となった。こういう表現は援助で行っている感じが出てよくないかもしれない。でも実際僕らが村に行ったことは良い刺激になると思うし、僕らを見て何かを何か感じたかもしれない。僕は最初はボランティアのつもりで参加していたけど、最終的には本当の意味でスタディーだったなと思った。僕がこう感じたという事は、村の人たちにとっても学習することは少なからずあったと思う。村の何かが変わったかといえばまだ何も変わっていない。しかし村人が何を感じたか、それを確かめにまた訪れたいと思っている。

           2.バーンスカパープ(健康の家)と環境問題

 ターラー村を訪れる前に、ケアタイランドの進めている環境教育事業のアドバイザーであるロスコン先生が、主宰しているバーンスカパープ(健康の家)に一晩泊まった。ここでは「ごみが宝」「自然が宝」という考え方を徹底している。ここでの食事には一切肉を使っておらず、野菜ばかりだった。それでもとてもおいしい食事ができた。またヨガを通じて地球を知るという考えも持っていて、朝と夜にメディテーション(瞑想)も行った。

 到着してすぐ、この家から少し離れたところの村を訪れた。そこは、以前マッシュルームを育て、それを売って生活している集落だった。この集落は産業が無く困っていたが、バーンスカパープの指導によって、マッシュルーム栽培で発展したそうだ。缶詰で見るマッシュルームとは違って、大きくて真っ白なのが印象的だった。樹のおがくずをいぶして、それを袋に詰め込み菌を入れ、一定の温度の部屋に並べていた。次にもう一つバーンスカパープの指導で立ち直った村を訪れた。以前はアルコール中毒や失業者にあふれた村であったそうだが、新しい産業を生み出して変わったそうだ。今は亀を育てて売って生活している。亀はオゾン水という特殊な水で育てていた。オゾン水は、緑に濁っており匂いはしなかった。亀は小さいもので40バーツで売れるとの事だ。

  バーンスカパープに戻り、オゾン水の作り方を見た。オゾン水は、残飯3キロ、黒糖1キロ、そして水10リットルを混ぜるだけで出来る。しばらくの間は残飯特有の異臭がするけれど、次第に発酵して水が出てきて、オゾン水が出来る。約3ヶ月で出来る。用途としては、洗剤、シャンプー、ジュース、ワインで、残りかすは土になる。実に多彩な用途を持っている。ジュースを飲んだけど、あまりおいしいものではなかった。でも化学薬品は一切使われておらず、体にも良く環境にやさしい。

 ここでは一晩しか過ごさなかったけれど、環境に対する気持ちの強さはひしひしと伝わってきた。ここに滞在したことで、地球環境にどう接していけばいいのか少しは分かってきたし、これから出会う人たちにも伝えてあげられることばかりだったから、これからは地球問題の事を真剣に考えて、身の回りから変えていこうと思う。

             3.ターラー村の様子

  村人の数は約300人。どうしてか若者も結構いるようだ。小学生は30人くらいいたが、学年ごとに先生はおらず、2つのクラスに分けて授業が行われていた。中学までは行かせるようにしているが、高校は、場所が遠いこととお金の問題があって、進学できるこどもはほとんどいないそうだ。交通はとても不便で、舗装されている大きな道に出るまで約20分かかり2,3の村を通り越さねばならなかった。水道は通っているが、村人は水道の水はあまり使わず、主に井戸から汲んできた水や雨水を使っている。僕たちは、その水は全く使えないから、ミネラルウォーターを使った。でもミネラルウォーターを歯磨きに使おうとすると、もったいないと言われることもあった。それだけ飲み水は大事だと言うことだ。今年は雨が少なくて、稲がちゃんと育たないかもしれないと心配していた。

 村の収入のほとんどは、稲作農業で得ている。副産業としては、小さな小物入れ(もち米をご飯のように炊いたものを入れる籠の小さいもの)や、麦藁帽子があるが、収入としては微々たるものだ。昼間は、みんな田んぼに仕事をしに行くので、村の中には全く人の気配はなく、子守りをしているお母さんの姿があるだけだ。お母さんといっても18歳から20歳までの女性も多く、ツアーメンバーの女子学生とほとんど年が変わらず、少し戸惑った。

 売店が村に1つあった。そこには唯一つの冷蔵庫があって、ビールやジュースも売っていた。1日の仕事が終わると、村の男は売店の前に集まって、よく酒を飲んでいた。村の女の人は、あまり酒を良く思っていなかったようだ。一度だけ、アル中っぽい人に絡まれて村の人に助けられたことがあった。話しかけてきただけなんだけど、ちょっとしつこくて、それを見ていた村の人が、その人を連れて帰った。後で村のおばさんたちに何度も謝られた。日本でも良くある光景で、僕も慣れていたんだけど、村の人にとっては、本当に見苦しいことだったのかもしれない。売店には、洗剤や調味料などの日用品、他にはお菓子くらいしか売っておらず、値の張るものは一切無かった。

 村には何も無かった。お寺があったが、坊さんがいるわけでもなかった。情報も無いし、遊ぶ場所も、レストランも無い。本当に何もなかった。でも村人は常に笑顔だった。心は本当に豊かな人が多いようだった。飢えているわけでもない。貧しさをきちんと受け入れている人たちだった。僕は最初その笑顔を見て、「貧しくなんか無いじゃないか」と思った。僕の中には、「貧しい顔」というものがあると思っていたのだ。でも、物質的に貧しくても、心だけは豊かに生きようという気持ちだけで、素敵な笑顔でいられるんだなと思った。

             4.村の農業

 村は米を作って生活している。半日農作業をした日があって、村人に田んぼを案内された。歩くだけで疲れるほど、田んぼは広かった。でも村には農耕機械がほとんど無い。田んぼをおこすのは牛でやっていたし、もちろん田植えは手でやっていた。あの広さを手で植えているとなると、本当に何日もかけて田植えをして、毎日草取りもしてとても大変なことだと思った。僕の実家は長野の兼業農家で、田植えも知っているし稲刈りも知っている。でもほとんど機械でやっていることで、田んぼもそれほど大きくない。週末にやってしまえる。父も会社を休む必要も無く、それほど大変ではない。また村にはこれといった副産業がない。することがあるとしても、やっている時間がないといっていた。どうすればこの村が発展するのか考えた。なにかできないだろうか?勉強不足の僕にはまだ答えがみつからない。しかし努力したいと思っても、するだけの知識やお金が村人に無いのは悲しいと思った。

 タイの農業はこんなにも大変なのに、途上国と先進国との違いを痛感した。日本では食べ残しても誰も文句は言わないし、捨てても次の食べ物がいくらでもある。これは先人たちの努力のおかげで日本は飽食が出来るのだと思う。でもタイの人たちにはその食べ物が目の前にあるだけで感謝するほど貧しい人もいる。そのあたりに関しては、世界は何か間違っていると思った。こんなこと僕が言えた義理じゃないけれど、誰もが思うことで、一番大事なことだと思う。僕は、「食料の公平な分配」ということを意識しつつ、これから勉強して、将来はこの目標達成の為に活動をしていきたいと思う。

             5. 図書室建設作業

 村の学校の1階部分は吹き抜けになっていて、そこに図書室を作るというものだった。剥き出しの柱の間にブロックを積み上げ、窓もつけた。ブロックも窓も、僕が到着したときにはもう準備してあって組み立てるだけになっていた。最初僕は、組み立てから何から全て僕らでやるものだと思っていたけれど、実際には村人との共同作業であった。村人の技術はすごいもので、すべてにおいて村人がいなければ僕らだけでは何も出来なかった。図書室を作ることをメインに来たのに、手伝いどころか邪魔をしていた感じだった。でも、教えてもらいながら、和気藹々と作業をし、仲良くなれて楽しい時間を過ごすことができた。

 しかし、ブロックと窓枠はあっても、本棚の材料が無いことで、僕らは不思議に思った。僕たちがお金を出し合うことで解決したけれど、少し不自然だったので理由を聞いてみた。するとびっくりするような答えが返ってきた。窓枠を作るまでは出来たけれど、本棚の材料を買うお金がなくて、その事が口に出せなかったというのだ。僕たちの感覚ではすぐに口に出せるけど、この村の人たちにとってはそんなに簡単なことではないらしい。お金を借りても、現金収入の少ないこの村では、返すあてもないからだ。

 ショックだった。表面上貧しさなんかかけらも見えていなかった。この事で村の貧しさをしっかり見つめてみようと思った。すると農業の面、栄養の面など様々な面で貧しさは見えてきた。でも心だけは貧しくなかった。心では貧しさを見せないから、僕は貧しさを見逃していたのだと思った。村の人たちは常に笑顔で、見ているこっちも微笑んでしまうような素敵な笑顔だった。僕は負けないよう笑顔でいた。

 僕たちの力ではなく、村人たちの力で図書室が出来上がった。まだ本の数は足りないけれど、ここを使って沢山の子供や大人が勉強できるといいと思う。

             6.村の子供たち

 本当に純粋なこどもたちばかりだった。日本の子供とは明らかに違う。タイの子供たちはいつも笑っていた。その笑顔が本当に素敵だった。タイの子供たちはすぐ僕たちのところに集まってくる。何か特別な遊びをするわけではない。鬼ごっこだ。僕にちょっかいをかけてくるので、その子を追いかける。また別の子が手を出してくる。その子を追いかける。その繰り返し。それだけのことでもずっと遊んでいられる。子供たちも僕もずっと笑顔だった。言葉など一言も要らない。笑い声に国境が無いことを知った。タイは暑くて走るとすぐに汗をかいてべたべたになるけれど、その汗は気持ちが良かった。この村は、農業をして生計をたてているから、朝から晩まで大人たちは農作業をしている。つまり昼間は村に大人がいない状態になる。こどもたちにとっては遊んでくれるお兄さんがやってきたという感じだったのかと思う。

 こども達の中にとてもよく僕になついてくる男の子が一人いた。名前をウィーと言った。ウィーはよく一人で遊んでいた。男の友達はいないみたいで、たまに女の子と縄跳びをしていたりした。女の子たちやウィーと仲良くなっていくにしたがって、だんだんその関係がわかってくる。ウィーは男の子たちとはうまくいかないからいつも一人でいて、一人じゃつまんないから女の子の近くに寄っていくみたいだ。でも女の子はすぐウィーをいじめる。ウィーは本当はただ普通に遊びたいだけなのに、この関係をなんとかしたいから、負けると分かっているけど女の子たちに対抗する。このことに気づいたときに僕ははっとした。ウィーが僕に良くなついてきて、僕に女の子に手を出させようとするのは、ウィーには味方がいるということをアピールするためなのだ。ウィーは、僕にいじめを解決して欲しかったのだ。助けて欲しかったのだ。僕自身、いじめられっこだった。だからウィーの気持ちがすごくわかった。でも僕が甘やかすと良くないことは僕が一番良く分かっていた。僕がウィーを守ってあげないことを不満に思われる時もあったけれど、いつかこの事がウィーにも分かってくれることを願う。

 別れの日、女の子達は泣いていた。気が強くて元気な子供たちが僕らとの別れを寂しがっていた。絶対になかないと思っていた僕もさすがに我慢できなかった。ウィーは恥ずかしがって顔を見せようとしなかった。    絶対にまたあの村に行こうと思う。ウィーのことは心配だけど、いじめられる辛さを知っている人は、その何倍もの優しさを持てる。きっと強い男になれると思う。気の強い女の子も、立派な女の子になれる。そうなったあの子達に絶対に会いに行こう。その時はタイ語を覚えて、お土産をいっぱい持っていこう、そう思う。

 村の子供たちには驚いたことが他にもある。今回僕はギターを持っていって、ウィーの前でもよく弾いた。ウィーはとても興味を示してずっと見ていた。次第にリズムも覚えて、僕がコードを押さえると、ウィーが弦をはじいた。そのリズムは僕の真似だけど規則正しくてとても感心した。真似事といえばそれで終わりだけど、本格的に音楽の勉強をしているわけでもないのにきちんとリズムをとれるのは誰にでも出来る小物ではないから、とても感心した。また僕が寝泊りしている家にタムという男の子がいた。バレーボールチームに入っているのだが、あまりバレーをしている様子が無かったが、ムエタイがとても上手い。バレーよりムエタイをやれば将来性があるのではないかと思った。学校には先生が3人しかいない。3人では子供の才能を発見してもその子につきっきりではいられない。小さな村だけど、音楽に興味を持っている子供、ムエタイに熱中したい子供がいた。こども達に夢を聞くことは無かったけれど、きっとそれぞれやりたいことは沢山あると思う。村は貧しくて外に行かせる余裕はないけれど、才能を秘めたこども達には、何かきっかけをあげられればなと思う。

            7.これからの事

  タイから帰ってきて、いろいろ考えたことがある。タイ語を勉強すればよかった。タイ語を勉強していけばもっとどんなに楽しい旅になっただろうか。ジェスチャーで会話は何とかできたものの、言葉の壁は厚かった。本当に残念だったと思った。今度行くときにはたくさんタイ語を勉強していこうと思う。 

  また、図書室は作ったものの、本の数はまだまだ少ない。英語の本はあったけれど、まだまだ読めるほどの英語力も無い。タイ語の本でさえ少なかった。本が無ければ図書室に成り切れていない。本を買うとしてもお金があるわけではない。だからタイ語を覚えたら、簡単な絵本の翻訳をしようと思う。こどもの頃読んだ絵本の中にはとても心に残っているものがたくさんある。そんな本をタイの子供達にも読んでもらえればどんなにうれしいだろう。それに音楽に興味を持った子供たちの為に、音楽を教えにも行ってみたい。言葉を覚えるだけで出来ることはたくさんある。村の農業に関する質問も出来るし、コミュニケーションは沢山取れる。なんだかとても楽しみだ。  

 今まで、大学の授業は退屈で、真面目に聞くことが少なかった。しかし今回の旅で実際に発展に苦しんでいる人たちと出会って、僕が一生懸命勉強すれば変えられるかもしれない事、僕が考えたことは山ほどあった。僕が行くことで変わることの出来る村がたくさんあるかもしれない、本気でそう思った。これからの大学生活は本当に充実すると思う。 

 このツアーに参加した事は、僕の人生、と言うと大袈裟かもしれないけれど、少なくとも考え方は変えることは出来た。怠けた気持ちをキッと引き締めるには十分過ぎる旅だった。ターラー村の人とは一生付き合っていければいいなと思う。必ず村を再訪しよう。

 

  関連事項

 

財団法人ケアジャパン

      東京都豊島区雑司が谷

      2−3−2

 

CARE Thailand

         RAKS Thai財団

  農村部の産業促進プロジェクト

 

ウボンラチャタニ県

       東北タイ最東端

 

その他関連写真

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朝、村人は農作業に出かける

 

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女性による麻の小物作り作業

 

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日本の学生も村人と田植え作業

 

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村の学校の図書室建設作業

 

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主たる生活水をまかなう村の井戸