張騫(前漢時代、?〜前114年)は、武帝(前156年〜前87年)の命を受け、西域に旅立った外交使節であり、地理・民族・風俗・物産など、西域諸国の様々な情報を漢にもたらした。シルクロード・西域ルート開拓で有名な張騫ではあるが、実は越・メコン圏世界にも関わっている。
匈奴対策として、月氏との軍事同盟結成のために、紀元前139年、月氏国に使いするために西に向かうが、たちまち匈奴に捕まってしまう。約10年間抑留されるが、前129年匈奴を脱出し、大月氏にたどり着く。そして帰途も苦労の末、前126年長安に帰国する。
本来の目的であった月氏との軍事同盟提携は成らなかったが、張騫のもたらした様々な情報は、匈奴との戦いに活かされた上に、一度あきらめかけていた武帝に、再度非漢民族たる西南夷が支配する雲南地方への関心を呼び起こすことになった。
張騫は、長安に帰還後、武帝に四川省から雲南・ビルマを経てインドに通じる蜀・身毒道のルート開拓を熱心に建言する。張騫は、大夏(バクトリア、今のアフガン地方)に居た時、蜀(今の四川省)の竹の杖と布を当地で見て、大夏の商人が、身毒(インド)でそれらの商品を買ったことを知る。そして蜀の商人とインドの商人をつなぐ西南夷ロードに注目するのである。
武帝はこれを受けて、前112年、王然于などを雲南地方に派遣する。しかし雲南東部昆明盆地にあった滇国から、西方に向かって洱海方面に進出したところ、西方昆明族の抵抗に遭ったことが、『史記』に記されている。
雲南の西南夷が漢朝の支配下に一旦編入されることになるのは、張騫死亡から5年後の元封2年(前109年)のことである。
しかしながら、武帝はインドに到達することはできなかった。もしインドへの道がこの時代に漢王朝によって開かれていたならば、中国への仏教伝来も、西域ルートで伝播した後漢の明帝の時代を待つまでもなく、より早くインドから西南ルートで中国に渡来したかもしれない。