良諸文化や河母渡文化をはじめ水稲栽培を示す遺跡が、長江流域から雲南省までの範囲に広く分布していて、稲作の年代は紀元前5000年までさかのぼることが明らかになってきた。では、この文化圏の主人公は、どんな人たちだったのだろうか?
1992年、雲南民族出版社から『従越人到泰人』(越人よりタイ人に至る)という題の本が出版された。黄恵焜なるこの道40年の教授が著した本である。教授は長江文化圏の担い手を『越人』と呼んで、そこから今のタイ系諸民族が出てきたという論を展開している。
それによると、越人は稲を主食とし、イレズミをし、龍をなぞったボート競走の祭りを持ち、銅鼓を鳴らす人々であった。黄教授は、中国文明の受容の程度によって、越人が住んでいた地域を3つに分けている。
A型地区:
江蘇省・浙江省・福建省・広東省に広がる地域の越人は、紀元前5世紀に長江の河口の南一帯に、『越』という強大な国を建てた時から、黄河流域の中国文明との接触が生まれた。この地区の越人のほとんどは、今日では中国文明を受容してしまった。
B型地区:
広西省・海南省・ベトナム北部・貴州省にひろがる地域の越人は、中国文明の影響を受けつつもなお独自の文化を残している。
C型地区:
雲南省西南部・ラオス・タイ中北部・ビルマ東北部・インドのアッサム地方にひろがる地域の越人は、インド文明の影響を受けて今日に至る。
古代の『越人』の子孫が、今日のタイ人であるという黄教授の論説は、実に明快である。そしてその論を貫くタテ糸に、教授は「越人の歌」をとりあげた。『説苑』(善説篇)という本に、春秋時代の楚の君子が、越人が舟歌を歌うのを聴いて意味がわからなかった。しかし、なかなか聴かせる歌であったようで、その歌の文句を漢字で音写した話が載っている。そしてこの音写された漢字の羅列は、広西省のチワン語で解読することができ、また雲南省のタイ・ヌア語とタイ・ルー語でも解読することができることを紹介している。古代の越語の歌が現代のタイ諸語でわかるというのである。
教授の本は、タイ人は越人の後裔であることを論じたものだが、また倭人についても一章さいている。教授は、倭人もまた『越人』の中から出たと言い、最も早く歴史書に倭人が現れるのは周の時代で、「倭人が王室に薬草を献じた」とある。教授は他の歴史書を引きつつ薬草の産地は広西省であったと言い、倭人はもともと広西省に一大拠点を持っていたと論ずる。倭人はその後、東へ進み、さらに北へ移動し、ついには海を越えて倭奴と呼ばれた。タイ人の起源が、越人につながり、日本人(倭人)の起源もまた越人につながることになれば、この方面の話題はますます面白くなってくる。
(江口久雄)