書名 『竜王(ナーガ)のメコン河』
(仮題)
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発行社: ?
定価: ?
総ページ数: ?
発刊: 2000年夏、予定
(概要は、順次明らかになっていきます)
関連テーマ情報B
ヴィエンチャンに遷都し、ビルマ軍と戦ったラーンサーン国王
セーターティラート王
(1534年〜1572年、在位1348年〜1372年)
ラーンサーン王国のポティサーララート王は、チェンマイを都とするランナータイ王国のヨート・カムティップ王女(ケート・クラウ王の王女)を妃とし、その間に生まれたのが、セーターティラート王である。
ランナータイのケート・クラウ王は、1525年に王位についたが、1538年に貴族の反乱でシャン地方に追放され、チャイ王子が一旦、ランナータイの王位についた。しかしこの王子は、5年間の統治だけで(1538年〜1543年)貴族の反乱に遭い殺害され、ケート・クラウ王が再び王位につくことになった。2年後の1545年、ケート・クラウ王も
重臣セーンドゥの反乱で殺害されてしまう。ケート・クラウ王にはもう王女しかいなかったため、王位継承をめぐって重臣の間に分裂が起こるが、最終的にはシャン地方の領主の王族の一人を推すセーンドゥが殺され、ラーンサーン王国のセーターティラート王子を推す派が勝利した。ケートクラウ王女であったチラプラパーが一旦女王となっていたが、1548年セーターティラートがランナータイの新国王としてチェンマイに入城した。
しかしながら、その2年後の1550年、父であるラーンサーン国のポティサーララート王が事故で亡くなると、ラーンサーン王国では、重臣達がポティサーララート王の弟たちをかつぎ王位継承が争われた。この機会にランナータイ国王であるポティサーララート王は、チェンマイから舞い戻り、弟たちを制圧して、ランサーン国の国王にも就任した。
セーターティラート王は、チェンマイに戻ることは無く、ランナータイの国政はチラプラパー王女に委任しようとしたが、チェンマイではメク(メクティ)新王が擁立された。
当時、ビルマではタウングー王朝(1531年〜1751年)が成立し、バインナウン王の下、周辺地域に猛威を振るっていた。アユタヤへは1547年、1563年〜1564年の攻撃に続き1569年ついにアユタヤ王国を征服。チェンマイへは1556年進軍し占領。1558年よりランナータイを支配下に置いた。こうした中でセーターティラート王は、1560年、ビルマからの来るべき攻撃に備え、王都をヴィエンチャンに遷した。新王都ヴィエンチャンは、1563年にビルマの攻撃を受け、1569年にはアユタヤの支援のために進軍したセーターティラート王であったが、ビルマ軍に敗退。ランナータイ・アユタヤとも征服したビルマ軍は1570年再度ヴィエンチャンを攻撃した。迎え撃つラーンサーン側はゲリラ戦で対抗し、ビルマ軍を追い返し独立を保った。
しかしながらこのセーターティラート王も1571年(あるいは1572年)、ラオス南部アトプー(カンボジアのアンコールとする説もある)への遠征中に行方不明となった。王に恨みを持つ重臣に殺されたと見られているが、一部住民の間ではセーターティラート王は不思議な力を備えて生き長らえたとも信じられていた。
セーターティラート王が亡くなった数年後の1574年、ラーンサーン王国はビルマの支配下に服することになる。
(注:セーターティラート王がランナータイ王に就任していたのは、1546年から1548年までで、ポーティサーララート王が亡くなったのは1548年とする説もある。この場合、ランナー王朝の王位については、1545年から46年までがチラプラパー王女で、1548年からメク王が就任するまでの1551年までの4年間が空位とされている。)
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