『竜王のメコン河』(仮題)の

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               = ラオスの歴史関連 =                   

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@ラーンサーン王国建国者

    ファーグム王

 

Aラオ族初の統一国家

    ラーンサーン王国

  (1353年〜1707年)

1353年 ファーグムが、シェントーンを基礎としてランサーン王国を建国。その後、多少の政治混乱期(サームセーンタイ王妹による10年間の政治私物化など)を経、15世紀後半にはベトナム(黎朝)の侵略を受けることになる。その後、北タイのランナー王朝と友好関係を発展させ、1548年には、ランサーン王国王子がランナー王朝に就任した。同王(セタティラート)は、やがてランサーンに戻りランサーンの王位についた。1560年 セタティラート王は、ビルマからの攻撃に備え、シェントーンからヴィエンチャンに遷都。旧都はルアンパバーンと改名された。

 

 ビルマからのランサーンへの攻撃も始まり、1574年 ビルマ軍による王都ヴィエンチャン攻撃を受け、ラーンサーン王国はビルマの支配下に入る。1583年から1591年は、ビルマによる直接統治(ラオ人国王の任命無し)であった。1591年 1574年にビルマに連行・監禁されていたノームアン王子がビルマから釈放され、ランサーン国王に就任。ビルマ国内の混乱から、ヴォーラ・ヴァンサー王(在位1598年〜1622年)やスリニャー・ヴァンサー王(在位1633年〜1690年)のもとで、王国は復興・繁栄していく。しかしスリニャー・ヴァンサー王死去後、王位争奪戦が起こり、1707年 ラーンサーン王国が、ヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国の2王国に分裂、1713年には、ヴィエンチャン王国から、チャンパサック王国が分離独立し、3王国分立時代に移行する。

  

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   ラーンサーン王国の創始者

      ファーグム王

       (1316年〜1373年、在位1353年〜1371年)

 ラオス統一国家ラーンサーン王国の建国者

 ファーグム王は、北部ラオスのシェントーン(現在のルアンパバーン)の都を支配した王族の出で、21代目のスヴァンナ・カムポン王の嫡孫であった。カムポン王の王子であり、ファーグムの父親であったヤックファー(カムオン王から嫌われピーファーとも呼ばれていた)は、カムポン王のクメール人の愛妾と通じているのが発覚。ヤックファーとファーグム、それにその他の王子や王女は追放され、クメール王の王宮に難を避けた。

  ファーグム王子は、長じるに及んでクメール王の王女を娶り、クメール王の強力な軍勢の支援を受けて、ラオス各地を勢力下に収めていき、シェントーンの都まで軍を進めた。1353年、戦いに敗れたカムポン王は自害し、ファーグム王子は、新たにラーンサーン王国を建国し、初代王となった。建国後も、チェンセン方面や、ラオスで服していなかったヴィエンチャンやヴィエンカム、更には、東北タイのロイエットまで勢力を拡大していった。

 

  しかし、ケーオケーンヤー王后の死後、ファーグム王は国政に関心を失い乱行が見られるようになり、重臣たちの間に不満が高まった。1371年ついにファーグム王は、ルアンパバーンからメコン河を越えたナーンに追放された。ファーグム王は2年後の1373年に同地で死亡し、ナーン王朝のカムタン王によって、ナーンのチェンガム寺に葬られた。

 

  ルアンパバーンでは、18歳になろうとしていたウンルアン(又はウンムアン)王子が、ラーンサーン王国2代目の王となった。この王は、サームセーンタイ王(「30万のタイ族」の意)の名で知られるが、サームセーンタイ王(1356年〜1417年 在位1374〜1417)は、1417年、60歳で崩御するまで、43年にわたってルアンパバーンを統治した。

 

(注:ラーンサーン建国前のシェントーンの歴史については、確実に知りえる史料はほとんど残されていない。ファーグム王の経歴についても、上記内容とは異なるものもあるが、本書『竜王のメコン河』では、上記内容に従っている。

異なる内容とは、カムポン王が亡くなった後、ヤックファーが22代目の王についており、一方ファーグムは、生まれたときに33本の歯を持ち、これは反乱を起こす不吉な前兆とされ、筏でメコン河に流され、漂着後クメール王にあずけられたというもの。クメール王室で育ちクメール王女を娶ったファーグムが、1343年に父王の死の知らせとともに叔父が都を支配していることを聞き、軍をシェントーンまで挙げていく。)