◎「おおさかの街」70号インタビュー 雨宮処凛「大事なのは利益より人間」

雨宮処凛

   大事なのは 利益より人間

              雨宮処凛さんに聞く (インタビュー 斎藤 浩)

 

―雨宮処凛さんというのはペンネームですか。

そうです。

―多様な経験が文筆活動に生かされているのですね。

二五歳から書いてます。いじめにあった経験、高校のときあまり学校に行かなかった、学校になじめない経験を発端としました。
自傷の問題などを書いていると、周りに、背景に構造の問題として、「生きること」ということがここ三年くらい浮かび上がってきた。そこで労働問題も書き出しました。

私は、フリーターだった当時、やたら生きづらい、将来も見えないと感じました。フリーターって好きでやっている、だらしない人と見られる。不安定な生活をしていると精神的にも不安定になる。うつ病もこじらせる。雇用保険もなく、なかなか生活保護も受けられない。生活ができなくなると自殺してしまうことにもなるのです。
個人の問題と構造の問題がぶつかったところに、九〇年代なかばくらいから、働くことが難しくなったことを考えるようになりました。

―フィクションにも進出されている。ノンフィクションからフィクションはだいぶ違うと思いますが。

どっちも好きなので。ノンフィクションでは漏れてしまうことを小説で書くことがある。また小説で煮詰まったらノンフィクションを書く。小説はもう四作品出した。「バンギャル ア ゴーゴー」(講談社)は上下巻で千枚もの作品です。

―加藤周一さんのような方でも戯曲「富永仲基異聞」は面白くない。難しいのでしょうね。二つは違うものなのでしょうか。

私はどちらも好きですね。

―雨宮さんの場合、実家がしっかりされていたので、先ほどからお話しの辛い経験など積まなくても良いような環境にも思える。

いじめがあるので実家には帰れないのです。これは経験がないとわからないことです。地元に帰れない問題なのです。

―北海道から東京に来られたのは何歳ですか。

18歳です。

―いま、運動にも色々関与されているが、運動と文筆とはどういう関係でしょう。

運動の現場にいることが書くことの源泉になる。運動は広く知ってもらわなければならず、そのために書いているということもある。矛盾はないのです。

―名が出てくるとますます運動に誘われることも多いのでは。

いや、そんなにないです。メインはプレカリアート運動(注)です。 あとはコメントを求められたり、集会に参加するとかくらいです。

―今や、昔経験された苦しみは克服されていますか。

自分を責めている人に、あなたの苦しみは自分だけのせいではないよと言えるようになりました。しかし根本的な生きづらさが終わるということはない。運動や社会の問題で個人の問題がすべて解決するとは思っていない。自分自身は運動に関わることによって健全でいられることは確かです。 派遣もそうだが押しつぶされて病んでいくことが多い。それに対して運動をすることによってバランスが取れることもあると思います。

―右翼運動に身を置いていた時に日本国憲法に出会ったそうですが、実際はどんなことですか。

右翼運動も、高卒フリーターとしては、政治や社会と無関係では生きられないと思って入った。その中で、左と右とで日本国憲法についてディベートする機会があり、憲法にふれた。前文を読んで感動した。新鮮だった。右は押し付け憲法反 対としか言わない。右の考え方がわかったのはいい経験だったと思っています。

―雨宮さんが予見的に解明されていた派遣切りなどが、この大不況の中で大量に起ってきました。派遣切りをしないと資本間の競争に負けるという状況がどんどん進む。日本は今後、普通の資本主義、普通の労働状態になれるのだろうかと思いますが。

派遣法問題としては、少なくとも九九年以前の法律に戻すような改正内容が現実的だと思います。派遣村でもそうだったのですが、派遣から一挙にホームレスになることが多いのです。また日雇保険の問題もありますね。グッドウィルの問題で、日雇雇用保険に入れないこともクローズアップされました。

―派遣法は八五年にできました。なぜできたかというと、事業場内下請(航空、民放、広告、新聞などの社屋内で下請会社社員が同じ労働を低廉な賃金でこなす雇用形態)の使用者責任を追及する運動が旺盛に全国で展開されたからだと思います。それを免れるために財界と政府とで派遣法を国会で作らせた。

事業場内下請はどんな契約なのですか。

―請負です。しかし請負は完成したものを提供しなければならないのに、事業場内の下請社員は親会社社員の指揮命令で動くので、請負は偽装ということになり、親会社責任が多く裁判所や地労委で認められました。

すると派遣法はない方がいいのですね。

―本当はそうなのですが、どんどんと派遣法は花盛りとなり、とうとう製造業まで行ってしまったのですね。雨宮さんは今回の世界同時不況より前に、派遣などの問題を、他の人にはなかった鋭さと正確さで告発されました。

企業の国際競争のためには仕方ないとか言うけど、国際競争の果てに何があるのか全く見えない。競争の果てにはみんなが不幸になる姿しか思い浮かばない。それが日本は極端だ。資本は競争の先に何があるのかを語らなければならないと思います。

―たとえばEUにも派遣法はあるけど、派遣先の労働者と派遣とは同一賃金が保障されるとか、日本とはだいぶ違いますよね。そのために日本の製造業は国際競争力を持っていた、優位に立っていたのですね。

普通の人間の生活から考えるべきですよ。そうすればこうはならない。日本のような国で、働いても働いても食べて行けないというのは、極端な市場原理から来ていると思う。大事なのは利益より人間ですよ。人間を基準に考えて欲しい。

―社会主義もうまくいかなかったし、どのように考えればいいですかね。

資本主義の矛盾は、難しい理論より若い人々が肌身に感じているところから明らかですよ。キャノンが二〇〇七年最高益を上げたとき、日研総業から埼玉の本庄工場に派遣された労働者の時給が百円下がっているのです。キャノンが儲ければ儲ける程自分たちの給料が下がっていく。矛盾したスパイラルだ。末端を使い捨てる本質がすでに出ていた。末端であればあるほど生存競争は過酷。派遣の職を失えば寮も追い出される。このように資本主義の矛盾は身にしみて感じる。しかし一人一人は分断されているのでつながりにくい。そのような状態を乗り越えて、いまやっと声が届くようになった。派遣村行動でも一定の成果が出た。このときは、こっちがどんなビジョンがいいのかを出せる状態になった。

―雨宮さんが生まれた75年前後、さっき言った雇用形態による差別をなくし、使用者責任を認めさせて行った頃には、このままいけばいい世の中が来ると思っていたが、資本の方が賢く、ずるかった。

まだまだ現場で知恵はでると思いますが。

 

 

 

(注)「Precario(不安定な)」と「Proletariato(労働者)」を合わせた造語で、〇三年にイタリアの路上に落書きとして現れ、以
来世界中で使われるようになった。


あまみや・かりん

1975年北海道滝川市生まれ。いじめ、不登校、自殺未遂を体験し、右翼活動を経て、日本国憲法の大地の上に立つドキュメンタリーな作品を続々と発表するオピニオンリーダーとなる。とりわけフリーター、派遣問題を深め、運動化させた功績は大きい。「不安定な」(英precarious、伊precario)と「労働者階級」(独Proletariat、伊proletariato)を組み合わせたプレカリアートの言葉をわが国で紹介し定着させた。現在、言論界、マスコミ界で大活躍している。数多くの著書のいくつかが記事本文で出てくる。

 

 

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