坪内稔典写真◎巻頭インタビュー

   パチンコで買って、勝った子規全集

       —楽しんでやるのが俳句—

         坪内稔典

 つぼうち・としのり(俳号は、ねんてん)

 1944年愛媛県生まれ。佛教大学教授、京都教育大学名誉教授、俳人、俳誌「船  団」代表。正岡子規の研究家。著書に「正岡子規」(リブロポート)、「俳句的 人間 短歌的人間」(岩波書店)、「俳人漱石」(岩波新書)、「柿喰う子規の 俳句作法」(岩波書店)ほか多数。句集に「春の家」「落花落日」「朝の岸」「 猫の木」「百年の家」「人麻呂の手紙」「ぽぽのあたり」「月光の音」(すべて 「坪内稔典句集」ふらんす堂現代俳句文庫に所収)。

ー子規や漱石はご出身地の愛媛と非常に縁が深いのですが、子どもの頃から俳句に親しんでおられたんですか?

 今になって思うと、小学校六年生くらいの時に句会をしてるんですよね。担任の先生がやり方を教えてくれて。そういう意味では確かに愛媛県らしい環境だったんだと思います。だけどどちらかというとやはり高校時代ですね。詩を書いたり、ややませた高校生で(笑)文芸部でした。たまたま担任の先生が俳句やったりしてて無理矢理やらされたんですけどね。でも僕は俳句やる気は実はなかったんです。こっちへ出て来て、立命館大学に入り、俳句もやってたんですが、どちらかというと詩をやってまして。

ー詩を書きたいという思いが強かった。

 そうですね。高校生くらいから詩を書いたり同人誌を作ったりするガリ版少年だったんですね、小さな雑誌を作るのが大好きだった。二〇代の終わりくらい、尼崎で高校の教師をしていた頃に、よくパチンコしてましてね。神戸のセンター街に確か「後藤」っていうついこの間なくなった古本屋があって、たまたまパチンコで勝った日に店頭に正岡子規の全集が積んであった。それが七八〇〇円、ちょうど買える値段だったんで衝動買いしましてね(笑)。二二冊あったからかなりな量だったんですけど、友達と担いで帰って読み始めたら面白くて、三年くらいかかって『正岡子規』っていう最初の本を書きました。それからなんですよ、本格的に俳句だとか子規だとかを考えるようになったのは。だから僕はパチンコ屋から始まってるんです。

ーそれでそのままずっと先生をされながら?

 女子高校の教師でしたが、本当にしたいことは何か違うような気がずっとしてましてね。三年間でやめていろんな学校の非常勤講師などやりながら、本の編集をしたり、ラジオの台本を書いたりしました。中村鋭一さんとか、そのあとの道上さんなんかと縁ができて、ずいぶんたくさん書いたんですよ。『正岡子規』を書いたことがきっかけとなって大学で教えないかという話があって、それで研究者になったんです。ふらふらしながら…。

甘納豆の句が話題になって、僕自身が変わった

ー子規と出会って勉強なさって、俳句に対する考え方が変わりましたか?

 いや、あんまり変わってもないんですよ。僕の俳句は長いこと認められなかったんです。小難しくて、今、自分で読んでも、これ何だ、って思うような、現代詩みたいな俳句だったんですよね、意識だけ高くて。三〇代の終わりくらい、本当に中年になってからですわ、俳句が認められたのは。たまたま、甘納豆の俳句を作ったんですよ。それで僕自身が変わったんですよね。何が変わったかというと、自分の思うようにはならないんだと……。それまでは自分が作ったものをそのまま読んでくれっていう、非常に傲慢な考えだったんですけども、甘納豆の連句は、自分ではふとした思いつきで作ったのに、非常に話題になって、しかもそのなかでも思いがけないのだけが話題になって。

ー「三月の甘納豆のうふふふふ」(句集『落花落日』に収録)ですね。

 僕、甘納豆はそんなに好きじゃないというか、馴染みがないんですよね。だけど皆さんがものすごくたくさん甘納豆を僕にくれだしたんですよ、お歳暮とかで(笑)。神戸の「おかめ堂」ってところからも「我が社の製品です」ってドカっと送ってきてね、「坪内さんは甘納豆業界の星であります」なんて言われていい気になって(笑)だんだん詳しくなったんですよ。そしたらだんだん面白くなって、そうやって人と一緒にしむことのほうが実は大事なのかもしれないと、やっとその頃気がついたんですよ、今から思えば。で考え方がやや変わりましてね、俳句っていうのも考えてみたらみんなで楽しむ文芸だし、これは本気でやっても面白いかもしれないと、四〇歳くらいで思うようになったんですね。あらためて正岡子規を見直してみたら、子規だっていつも仲間と何か一緒にやってる。これは孤独に一人でやるよりも面白いことかもしれないと…そういうことなんですよ。

ーなるほど。俳句の本質みたいなものですかね。

 どうなんでしょう。僕の考えがすべての俳句の人に受け入れられてるわけではありませんから。今でも俳句全体からいえば、けったいな俳句っていうふうには思われてる。

ー俳句って、無数に結社がありますね。そのなかで仲間どうしで詠み合って、批評し合ってが楽しいんですか、やはり。

 楽しいですね。句会というのがあって、そこは無署名で作品を出すんです。そして選ぶ。それがほかの文芸と全然違うところで、作者が隠されたものを読むっていうのはあまりないですよね。それは詩や小説から言ったら古くさいことなのかもしれないけど、逆にとても新しい、モダンなことかもしれない。そういうものを大事にしたいなと思って、僕なんかはやっているわけです。

ー日本では平安時代の昔からみなが集まって歌を詠み合った伝統がありますよね。そのへんがルーツですか。

 そうだと思います。だから個人、人そのものよりも言葉を大事にする、あるいは表現を大事にするっていうか。そういうのはとてもいい考えじゃないかなと思うんですね。みんな平等で。だけど現実には俳句の世界には結社があって、反対なんですよね、秩序が。先生を中心にして、なんというか、家元みたいになってる。それは俳句の精神には反しているだろうと考えてまして、それで僕らは結社とは名乗らないで、俳句グループと名乗っているんです。みんな平等や、ヨコの関係でやろうと。

ー上下やなくて。

 ええ。だから俳句界全体から考えたら、僕らの存在はやや違和感があるというか、異物なんです。

作ることを楽しんだ、江戸時代の俳句

ー漱石がすぐれた俳人であったことを先生の本で初めて知ったのですが、子規と比較してどうなんですか?

 僕は両方ともそれぞれ面白いと思います。とても仲が良いのは、ものすごく違っているからだと思いますね、あの二人がいることが面白い。そりゃ文学者として作品を作った力量から言えば、漱石のほうが長生きもしてるし上やと思うんだけど、子規のような多面性は漱石にはないし、二人とも魅力です。
 僕はパチンコから始まって子規に行きましたから、文学っていうのは基本的に楽しいもんだって考え方なんでね。

ー哲学的に捉える人もおりますけどね。

 それは勝手なんだけども、そうなると難しくなってしまいますよね。だから同県人の大江健三郎さんと対立してる(笑)。大江さんは立派だけども文学っていうのはあんまり立派なもんではない、基本的には娯楽ですから。小説だってそうだったはずですよ。それがね、文化人になっては本当はいけないと思うんですよ。大江さんはとても魅力的だけれども、そういうところではやや対立してるなあという感じです。

ー江戸時代の一茶、芭蕉、蕪村などの俳人が、俳句というものを庶民に広げた功績があると思うんですけど、あの時代の俳句と、子規や漱石、虚子らのいわゆる俳句の革命という時代とはどういう違いがあるんですか?

 正岡子規なんか江戸のものは古いと切ってしまうんですけど、基本的にはあまり変わらないと僕は思ってるんです。ただ江戸時代はいわゆる連句、歌仙とかああいうのが中心です。あれはやっぱり時代の雰囲気とか、時間がたっぷりあるとか、様々な条件があってね、みんなが集まって連句を巻くっていうほうが楽しかったんやと思いますわ。ところが近代だと、ああいうのはちょっと時間がないですよね、忙しい時代ですから。それに近代はやっぱり読者に読んでほしいんです。江戸時代の連句は作ることが楽しいんで、あまり読者を予想してない。子規以降は読者っていうのを意識してましてね、読んでほしいと作者が出しゃばる文芸になっているんですね。そこが一番大きな違いじゃないかと思います。

ーそれは子規以降現代にもずっと続いていますか。

ええ、現代でも続いています。

ー今の俳句と子規の頃と、違いがあるとすればどういうことでしょうか。

 それは難しいですけどねえ…あまり違いはない…ただ正岡子規は意外に、子規から後の人たち、俳人にはあまり評判がよくない。なぜかというと、よく遊んでるからなんです。俳句の作り方でも、例えば人が集まると線香を一本立てて、これが燃え尽きるまでにできるだけたくさん作る「競り吟」っていうようなことをやったり、一〇人集まると一〇の題を出してみんなでその題を回しながら作ったり。そしたら短時間でたくさん作れるでしょ。一種のゲームなんですよね。彼はそれがとても楽しくてそういう作り方をしたんですよ。だけど高浜虚子とか、後の時代になるともっとまじめになるんですね。俳句ってまじめに自分を表現するものだと、そういうゲーム的なものを馬鹿にするというか、それは古いっていう風になる。だけど僕はむしろそういう子規の持っていた遊びの精神みたいなものこそ今や大事なんじゃないかと言ってるんですけども。まあなかなか受け入れられません(笑)。

言いたいことを、そんなに言わない面白さ

ー俳句人口っていうのは百万人とか…。今も増えてる傾向にありますか?

 一時期ものすごく増えましたね。特に昭和四〇年代くらいから女の人たちがものすごくたくさん入ってきた。僕が俳句に関わったつまり高校卒業した当時は、どこの句会に行っても男の人しかいなかったですわ。だからやや隠微な形式でしたね。ところがいわゆるカルチャーブームの影響で、今八〇パーセントが女性なんですよ。だけどこのところやはり、人口が減少していることもあるんだろうけど、以前のようには増えてないような感じがしますね。

坪内稔典写真

ー短歌と俳句ではどうですか。

 短歌のほうは僕の感触だと俳句の三分の一くらいの人口なんですけれども、比較的若いときに始めるんです、大学生くらいで。つまりあれは自己主張できるでしょ、その快感がある。恋を詠える。だけど俳句はそれがないので、大学生くらいでは変わり者しかあんまり面白いと思わない。俳句の場合は女の人なら子どもが手が離れた段階で始める人がほとんど。男の人は定年間際から始める。男と女でその差がついてしまうのがやや問題ですけど、つまり、中高年の文芸。なぜかっていうと俳句はあまり言いたいことを言えないんですよ。言いたいことをそんなに言わなくていいっていうときに俳句は面白くなる。だからちょぼちょぼと言ってそれでわかってくれたらいい、っていうのが俳句で、思いっきり恋を詠いたいっていうのが短歌なんで、そういう違いがありますよね。僕は両方関わっていますが、短歌の人はやっぱりよくしゃべるし、よく勉強するし。俳句の人はあまりしゃべらないでもっぱら飲んだり… .

ー俳句の五七五っていうのは、結局詩なんでしょうか、これも。

 …難しいですね。詩ではないといわれてきましたが。僕は片言の詩だという言い方をしてるんですけど。作者が十分には言えないですよね。読者が補ってくれて初めて表現になるっていう形式なんでしょうね。だから文学は自分の主張なんだと考えたら、詩じゃないですよね。かつて第二芸術論なんて言われたのはそういうことだったんですけど。だけど自分だけじゃなくて他人と一緒に作っていくのもいいと考えたらこれは立派な詩になるし、難しいですね..

ー外国にはこういう文芸は?

 俳句のように短いのはない。外国では俳句は人気ですけどね。日本の俳句とはちょっと違って、やや宗教的な、禅の世界、お茶とか、哲学的な感覚です。ただアメリカなんかでは小学校で俳句を作るっていうのがはやっていて、子どもの俳句はアメリカのほうが人口が多いっていいます。小さなイメージを作る練習とかなんかね。子どもたちは、比較的ことば遊びで五七五って楽しめるんですよ。小学生くらいは日本も最近俳句がさかんになってまして、それから上が少なかったんですが、最近は松山で俳句甲子園が始まりましてね、間もなく一〇年になるのかな、あれもゲームなんですよね。だけどそこから育った子たちが今は大学生になって、次の時代の俳句をもしかしたら背負うかもしれない。ただあれも、僕は最初から関わっていますけども、俳句全体からは遊びにしてるって非難轟々だったんです。

年を取るにつれ、柔らかく広がっていく世界

ー季語がないと俳句やないんですか?

 いや、季語がない俳句はいっぱい歴史的にあるので。ただ、季語もね、中年になったら面白いですよね。僕はよく冗談で言うんですが、庭いじりを始める年齢から初めて季語が面白くなりだすんですよ。つまり肉体が元気な間は自然なんてどうでもいいって感じなんですね。やや肉体に衰えを感じたら、四季のめぐりとかね、そういうものに関心を持って、その衰えを補うという感じがでてきて、それでどうも季語が面白くなるんじゃないかと思ってましてね。季語を楽しむっていうのは、それはそれで結構な俳句の人たちの楽しみなんです。草の名前を覚えたり、鳥の名前を覚えたり、世界が広がって行くっていう…。

ー先生の季語集を見てもたくさんありますが、どのくらいの数がありますか。

 江戸時代の終わりくらいに四、五千になってるので、今なら一万くらいあるんじゃないですか。使われるのは限られてるわけですけど。だけど、季節を楽しむというのは日本の文化の特色だから、それは楽しんだらいいのじゃないかな。

ー自分で作ってもいいんです?

 基本的には作っていいんです。いい句があれば、それは季語として認められるものなんです。

ー先生がお作りになった季語も?

 いや、あんまりないですね。僕は餡パンが大好きなんです。餡パンって気温が二〇度よりちょっと低いときが一番おいしいから、餡パンは春の季語だって言ってるけど、誰も認めてくれない(笑)。名句を作ったら有無をいわせず餡パンが春の季語になるんですけど…。
 僕は餡パンと、柿と、河馬と、大好物が三つあるんですよ。河馬はずっと追っかけてて、還暦になったときに何か一つ記念的なことをしようと思って始めたのが、全国の河馬に会うことで、あと一カ所だけ残ってるんです。帯広。そしたら日本中の河馬に会うんですよ。約三〇カ所、六〇頭くらいかな。

ー違うもんですか、河馬はそれぞれ。

 みなさんお尋ねになるんですが、残念ながらあまりそこまではわからない(笑)。若いとか、そういうのはわかるんですけどね。写真を見てこの河馬はあそこの河馬や、とかそういうのはわからない。オスかメスかの区別もつかないんですよ。飼育係も間違ったりするんです。だけど結構楽しみましたよ、この四年間。

ーさきほど、俳句は季語も年を取ってからのほうがよくわかるし、その頃から始めるというのも面白いとおっしゃいましたが、年取ってから十分やれますか?

 やれます。うんと年を取って面白い俳句を作る人がいるんですよ。たとえば加藤楸邨(しゅうそん)。若い時はとてもまじめな俳句を作ってたんだけど、八〇代になって、「天の川渡るお多福豆一列」っていう俳句を作ったんですね。僕、大好きなんですけど、天の川渡る、何が渡るってお多福豆が一列に渡るって、とってもしょうもないでしょ。わからないでしょ。どうも本人は奥さんがお多福豆に似ててね、奥さんが早く亡くなって、奥さんの仲間たちが渡っているっていう発想だったみたいなんですけど、この句を読んだら絶対そんな風には読めなくて、漫画のような俳句やと思うんですよ。やや惚けかかってる頃なんですよね。そういう頃には思いがけない言葉と言葉が結びつくことがあって面白い俳句ができる可能性がある。惚けっていうのはこわいと恐れられてるけど、むしろ俳句やってたら楽しめるとこがあるって考えたら、惚けに対してもさほど緊張しなくてもいいんじゃないか。そういう楽な姿勢を取ることもいいんじゃないの、と言ってるんです。

ー惚け防止になるし、惚けたとしても面白いのができるかもしれないんですね。

 あのね、よく惚け防止のために始めましたってきはるんですけど、僕は惚け防止っていうのはあんまり賛成じゃなくてね、むしろ惚けてもいい、くらいになったら俳句も柔らかくなっていいんじゃないの、って。惚けを防止しようなんて思ったら惚けますよ、っていうことにしてるんです。

ーもっと楽しいもんやと。

そうです。楽しいことって次元が低いと思ってる人が多いでしょ? そんなことないですよね。楽しいことぐらい次元の高いものってないと思うんだけど。顔にしわ寄せて考えないとだめやと言ってるとなかなかネ… 。

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