◎おおさかの街67号 インタビュー ABC朝日放送ラジオパーソナリティー 道上洋三

ABCアナウンサー道上洋三

 遠くの親戚より近くのラジオ

  〜 おはようパーソナリティ30年     

                道 上 洋 三

  

  どうじょう・ようぞう

1943年山口県熊毛郡生まれ。朝日放送のエグゼクティブ・アナウンサー。1965年に入社、ラジオ番組「ABCヤングリクエスト」、「空からコンニチワ」、テレビ「ヤング720」などを経て1977年3月より「おはようパーソナリティ道上洋三です」を担当。10月からテレビの新番組「ス・テ・キの扉」(毎週土曜日午後5時~)にレギュラー出演。ほかに「歴史街道」のナレーションも。

 

 

 朝日放送ラジオ朝の看板番組「おはようパーソナリティ」。現在のパーソナリティ道上洋三さんが、先代の中村鋭一さんから番組を継いで二〇〇七年の三月で三〇周年を迎えた。阪神が勝った翌朝は早朝から大声で六甲おろしを熱唱、相手が誰だろうが、おかしいと思うことには声を荒げて怒る怒る……。
 ほんま朝から元気やなあ、が当たり前の道上さんが、昨年(二〇〇六年)、脳腫瘍の手術のため番組を七〇日間休まれた。八月三日に一七時間に及ぶ脳腫瘍の手術をして、八月二五日に退院、一ヶ月間のリハビリ生活を経て九月二五日に無事番組に復帰。
 八月七日、大阪市内のホテルでお会いし、ご病気のこと、三〇周年を迎えた番組のことなどお話を伺った。

■大変な手術だったそうですね。

 右耳の上から左耳の上まで切り開いたんです。まわりの患者さんたちは同じ頭でも数時間とか、ちょっと穴あけただけだったので、僕の場合もまあ四、五時間だろうと思っていたのが、一七時間かかりました、と言われたとたんに震えがきました、それまでは盲腸の手術と同じようなものだろうというくらいの気持ちだったんで。

 主治医の先生(阪大病院脳神経外科・吉峰医師)がすごく穏やかないい先生で。三年前に人間ドックで腫瘍があることがわかった時、すぐ手術してくださいとお願いしたんですが、良性だったら切ることない、頭はなるべく切り開かないほうがいいって先生が言われるんで、この医者は自信ないのじゃないかと(笑)。あとで伺ってみると実は脳神経科の名医なんだそうです。

■もうよくなられたんですか?

 痙攣止めの薬だけ飲んでいます。そういう症状が出たことはないので大丈夫だと思うんですが、先生が念のためにっておっしゃるので。

 ちょうど両目の間の奥八センチのところに、六センチ大の腫瘍ができて、眼の神経に腫瘍がからみついてたんです。
 休む半年くらい前からだんだん字が見えにくくなって、新聞の見出しは読めるけど記事が読めなくなりました。色も識別しにくくなってて、夜、車を運転していると赤信号はわかるんですけど、青がどれだかわからない。

 それに、六センチ大の腫瘍が頭の中にできてたってことは、その上の部分が圧迫されて炎症を起こしていたみたいです。だから情緒不安定になったらしく、 手術が終わってから先生がしみじみと、「相当いらついてまわりの人を怒鳴ったりしてませんでした?もうちょっと行ってたら、不道徳なことをしてたでしょうね」って(笑)。そしたらスタッフが、いや、この人いつも不道徳ですからそれは変わらんと思いますよって(笑)。

 手術が終わってすぐ新聞が生で見えた時は涙が出ました。四日目に自分の病室に帰ってきて、窓をあけて万博公園の緑が見えて、テレビで高校野球のハンカチ王子の早実のエンジと白のユニフォームが見えたとき、これにも感動しました。

■今年(二〇〇七年)の三月に三〇周年を迎えました。ラジオ番組としては特別長いのでは?

ABCアナウンサー道上洋三

おはようパーソナリティ道上洋三です」
  ABCラジオ(1008khz)
  月~金曜6:30am~ 9:00am
「今、関西では年四回聴取率の調査をしてるんですけど、おかげさまでうちはここのとこ ろ15回で14勝1敗でずっとトップです」

 

 朝のワイド番組でいうと浜村さんのところが確か三三年。うちは中村鋭一さんからいくと三六年。日本一長寿でしょうね。

■始められたとき、こんなに長く続くと思っておられましたか?

 全然。嫌でしたから。

 朝は弱いので、二回断ったんですよ。それまでは深夜放送をやってて、四〇歳を過ぎたらこんな

情報番組をやってみたいというのはありましたけど、まだ若かったですから。三回目に、僕を育ててくれたプロデューサーが「いま甲子園球場が五万の大観衆にあふれてる。主戦投手がマウンドをおりた。山口熊毛の田舎から青雲の志を抱いて出てきたお前に甲子園のマウンドにあがれっていってるのにお前は尻尾をまいて逃げるのか」って言うのです。「そんなことはないですよ、じゃあやらせてください」って言ったのが運のつきでした。

 一週間、いや、一日で嫌になりました。だって毎朝三時起床ですよ。始めのうち、午前一時や二時に起きて一〇キロくらいジョギングをし、身体を目覚めさせたこともあります。だから毎週金曜が来たら解放されたくて遊びまくりました。日曜の午後になったらだんだん鬱陶しくて気分がブルーになる、という繰り返し。三年間は家出るときに「行って来ます」じゃなくて「ああ、疲れた、やめたい、もういいわ」って言ってたって家人は言います。

■ラジオで、同じ番組をずっと続けておられる……。

 他に取柄がないから(笑)。

 まあ長生きも芸のうちっていうじゃないですか。あとはいかに長くこの番組をやらせてもらえるかということが一つ。

 二つ目は、震災ですね。一九九五年は、番組を始めて一八年目だったんですね。伊丹の自宅はそれほどひどくはなかったんですが、家人の両親が住んでいた東灘の文化住宅が全壊して、両親は昼過ぎに瓦礫の中から助け出された。それで六〇日くらい我が家で預かってたんです。

 ABCも窓ガラスが割れたり玄関のシャンデリアが全部落ちたり。社員が一人亡くなりました。会社も停電して、一四秒の間、停波したのですが、情報が入ってこないんですよ、電話がつながりませんから。

 その後の一ヶ月から三ヶ月は取材だったりボランティアみたいな形で被災地に通いました。行く先々で僕が道上ってわかってくれてる人が、「あんたとこどうやった?」って先に声かけてくれはるんですよ。「いや、うちは食器が壊れたくらいでしたが、お宅はどうでした?」って聞いたら、「女房と子供二人死んでしもうて、わやや」って。被災後の一ヶ月くらいは、被害がひどかった人ほどハイだった。それで三ヵ月後に行って「あの人どないしはりました?」と聞くと「死んだ」っていう人がどれほど多かったか。「首くくった」って。

 テレビのクルーが淡路島の北淡町の町民会館に取材に行った時に、八〇歳前後のおばあちゃんがいてはった。「お宅、朝日の人か?」「そうです」「私の命の恩人は道上さんやさかいよろしゅう言うといてな」って言わはって。

 そのおばあちゃん、一人暮らしで、家が全壊して、瓦礫の中でたまたま梁が重なって助かった。昼過ぎに救助隊が通りかかると、瓦礫のなかからラジオが鳴ってて、助け出された人やったんですね。東京と名古屋に息子さんが二人いてはるらしいんですけどね、連絡がつかない。「こんなときはあれやね、遠くの親戚より近くのラジオやね」って言うてはりましたって。

 毎朝、被災者のための情報を、と懸命に放送してたのですが、どこまで情報が伝わっているのかわからない。まるで、靴の底から足の裏を掻いているような空しさに襲われていた時に、「遠くの親戚より近くのラジオ」って言われたのがむちゃくちゃうれしくて、それを半紙に書いてスタジオに貼りましたよ。

 避難所から家に帰ってラジオをつけて僕の声を聞いたときに、「ああ、いつもの生活が帰ってきた」、仮設住宅に入ってラジオをかけた時に僕が喋ってて、 「この人、生きてはったんや、ほれやったら私も大丈夫や」って思ったとかね、 みんなラジオを聴いて下さった方が、普通の生活、いつもの朝、これまでと同じ生活が戻ってきたと言ってくれはったんですね。

 それは例えば、ご飯があって味噌汁があってラジオがある、コーヒーがあってパンがあって道上洋三を置いてもらってるっていうことですよね。毎朝この時間に道上洋三が元気に喋ってるっていうのが何よりいつもの生活だと思ってくれてる人がこんなに多いのなら、もう行けるところまで行こうと。

 本当は二〇年を区切りにやめさせてもらおうと思ってたんですよ。あの震災の体験から、声が出なくなるまで番組やらせてもらおうと思うようになりました。つまり震災が放送人としての僕を欲張りにしてくれたのだと思います。

■リスナーさんとのご関係も濃いですよね。

 ある時期、「今週末北海道に旅行に行くんですけど北海道の天気どうでしょう」っていうファックスをリスナーから頂いた時、他の番組から来た若いスタッフが、「北海道の天気なんて、他のリスナーに関係ない」って、没にしたんですね。その時、「君な、ウェザーセンターに問い合わせて、今週末の北海道の天気と服装を聞くぐらい五分もかかれへんやろ。その情報をこの人本人に電話かファックスで伝えてあげる、全部あわせて五分でできるやろう」と、放送はしなくても、情報をご本人に直接伝えるということをやらせてみたんですよ。

 そしたら翌週に、「お天気教えていただいてありがとうございました、おかげさまで楽しく過ごすことができました」と、リスナーご本人が北海道からお土産を送って下さったんです。

 そのスタッフが「道上さんすごいわ、こんなん送って来ました」と言ってきたので、「何びっくりしてんの、うちの番組はそういうことで成り立ってるんや」。「なんで?」「教えてほしいと言われたことを教えて差し上げたらありがとうございますってお礼が届く、そしたらおいしかったですってお礼状を出す。人のつきあいってそんなもんでしょう」。

 そういうつきあいを普通にしていくと、ちゃんとした情報をもらえるし、ちゃんとしたキャッチボールができる。それがラジオの基本だと思います。

■九月に三〇周年記念のCD「新しい朝」を出されましたね。番組でも毎朝の六甲おろしや、 よく歌をお歌いになります。

道上洋三「新しい朝」

おはようパーソナリティ道上洋三です30周年記念アル バム「新しい朝」。発売前から予約が殺到、オリコン アルバムランキングで初登場11位。発売1ヶ月足らず で2万枚突破。アナウンサーのCDとしては断トツの1位。

 

 好きなだけでそんなこだわりがあるわけじゃないんです。

 「新しい朝」という曲を作ったのは、入院中に僕が外に出たいとか、ご飯がまずいとか少ないとか文句言うてたら、友達が、「何を言うてるねん、お前一七時間死んでて、自己呼吸できんかったんやろう。また新しい命をもらってな、ただ生きてるそれだけでええやろ」って言った、その「ただ生きている」ていうのがものすごく頭に残って。退院してリハビリがわりに毎朝三時に起きて犬の散歩してるときに、「ただ生きている〜それだ〜けでいい〜」っていうメロディーとフレーズが、なんのこだわりもなくすぐ出てきた。それリフレインで曲作って、退院後の自分の歌にしたいなあと思ったんです。

 でも前と後ろがなかなかできずに七転八倒してたら、お正月の新聞に、フランスかオランダの詩人の、人生は陽のあたる場所と陰の部分の繰り返しだ、という意味の詩があったんですよ。そうか、と。僕も三〇年間、喋りたくない日でも、あのテーマ曲がなりだしたら「おはようパーソナリティ道上洋三です」ってバカみたいな声だして喋っている、我ながら二重人格やなと思いながら喋ってた朝がずいぶん多いのです。だから「喜びの隣りには悲しみのあとがあり、悲しみの向こうには喜びの声が聞こえる、見えるもののとなりには見えないものがほほ笑み、気づくもののとなりには気づかないものがある」という詞に落ち着いたのです。四ヶ月悩みに悩んで一月の末にやっとメロディーも詞もできあがって、キダタローさんにアレンジをお願いしました。

■アシスタントの秋吉英美ちゃんも長くなられましたね。今はもうすっかり番組の顔。

 そうなんです。三〇年間で九人目なんですが、彼女はそのうち九年間ですから。来年は英美ちゃんの一〇周年記念です。
 僕はオーディションの時はいつもお相手の顔を見ないでスタジオのこっち側で聞いてるんです、ラジオは顔がいりませんから。最終的に僕が英美ちゃんを選んだのは、「子どもの詩」を読んでもらった時に、一番その子どもの気持ちが伝わってきたんです。歴代のアシスタントのなかでもピカイチでした。

 彼女はこの番組を聴いたことなかったんっですって。そんな彼女を、採用したらダメですよ、っていう声もあったのですが、「やっぱり英美ちゃんにお願いしよう。二〇年も同じ番組をやってると、スタッフの誰もが世間の人は皆この番組を知っていると思い込んでいる。だから逆にこの番組をまるで知らない人に手伝ってもらおう」って採用したんです

 だいたいアシスタントが代わって一ヶ月くらいは、前の人のほうがよかったっていうリスナーの声があるのですが、それが三ヶ月も続いたのは彼女が初めてでした。

 彼女に代わって一ヶ月目の頃、番組オリジナルの「おめでとうの歌」を僕がラジオで歌った時に、彼女が一緒に歌うんですよ。一番を歌い終わったときに、 「あなたこの曲知ってるの?」って聞いたら「知りません」。思わず「知らんのやったら歌うな!」と言ったのです。
 その二日後にね、六〇歳ぐらいの人からファックスが届いたんです。

 「『おめでとうの歌』の一番を歌い終わったときに、二十何年もやってるベテランの道上さんが、英美ちゃんに『知らんなら歌うな』って怒鳴らはりましたね。私なら多分泣き出すかスタジオ飛び出して家に帰ってしまったと思います。でも歌が終わったときの彼女の『ああ、いい歌なんですねえ』の一言に、私は救われました。今までとんちんかんでどうしようもない子やと思ってたんですけど、この子は本当に素直にちゃんと育てられたいい子なんですね」と。

 やっぱりリスナーの耳が一番確かなんです。そのファックスで、僕も英美ちゃんにお願いしてよかったとあらためて思いました。

■ホームページに、やりたい番組は「おはようパーソナリティ」と書いておられますね。今後もずっとこれ一本ですか?

 テレビで年配の人向けの「徹子の部屋」のような「オッサンの部屋」みたいなことができればやってみたいなとは思いますけど、テレビでやりたいことは他にはないんで。

 ラジオだったら一時間くらいの軽い音楽番組をやってみたいなっていうのはありますね。昭和四〇年代から去年くらいまでのど真ん中のヒット曲ってあんまりかからないんですよね。そういう番組ならやってみたいですね。

 

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