演劇もダンスも音楽もライブに勝るものなし

 

「リトル・ヴォイス」(新神戸オリエンタル劇場)。九九年に映画で観た作品。もともとイギリスの演劇から出発しているし、演劇での題名がThe Raiseand Fall of Little Voiceというのだから、原題が作品の主題を一言で現している。私は映画については、本誌四六号で丁寧に作劇の意図を辿りながら結論は二つ星にとどめた。毒婦と言える母親マリ(山本陽子熱演)のおかげで、小声でしかしゃべれず自閉症気味になり、同じくマリの人間性に煩悶しながら死んだ父親が残したレコードとともに生きるLV、リトルヴォイス(池田有希子が器用に熱演)。父親の残したレコードはシャーリー・パッシー、ビリー・ホリディ、マリリン・モンロー、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフなどであり、彼女はこれらの曲の完全な物真似歌手に育っていた。マリの情夫の一人であるレイ・セイ(江守徹存在感見せつけ好演)がそれを発掘し、町の劇場で歌わせ、人気が沸騰するがLVとしては人前での興行に興味がない。電気工事の若者と相思相愛となり、マリのもとから逃げ出すが、若者と一緒になったとたんにLVの歌声は物真似でなく、自らの堂々たる歌手となっていた。本作品は江守徹が演出兼出演で流れを締めている。映画同様、救いがたいイギリス下層階級の生活ぶりは本作品にも生かされ、暗さとやり切れなさが漂うが、救いは自らの声を取り戻すLVにある。悲惨なまま若者との生活に生き甲斐を見出す映画の筋が良いか、単なる生活でなく自らの声を取り戻す本作品が良いか、作劇としての優劣は明らかではなかろうか。山本の汚れ役への変身と池田の音楽性はすばらしい。この劇場は久しぶりだが、小さくて良い。

★★★

 

JIS企画「今宵かぎりは.一九二八超巴里丼主義宣言の夜」(近鉄小劇場)。竹内銃一郎作・演出で佐野史郎、中川安奈出演と見て、衝動的に観に行った。もうすぐこの劇場がなくなるのが惜しいと思う気持ちもあった。一九二八年のパリに、金子光晴、藤田嗣治、佐伯祐三がいたというのは史実だろうが、三人と金子の妻、佐伯の恋人、その仲間が、佐伯のアトリエに寄寓したり入り浸っていたとか、恋の交差があったのかどうかは私は知らないし、文献、解説書でも明らかではないが、井上ひさしと同様の、イメージで結びつけ、独特の世界を作っている、そんな話しである。この三人と仲間の芸術家が、差はあれど貧困を共通要素としつつ、外部環境としてのフランスのパリ、東洋人見下しの社会のなかで、芸術と交差する愛を模索していく。巴里丼とは肉、スルメ、干しエビ、オクラを煮込んで、ライスにかけて食べるもので、藤田嗣治の発案とされる。パリのようにゴチャまぜで、何でもアリで、栄養もある。めげそうになりながらも、これを食べながら、みんな生きる妥協的力を得ていく。それにしても竹内の作品は、狂気、不条理を基本に人間関係を濃密に描く。私が印象深いのは、自由劇場が人気頂点の頃の劇団小屋で見た吉田日出子と串田和美の二人芝居「あたま山心中」である(八九年夏、本誌一七号で評論した)。古い芝居を思い起こすとともに、竹内を求める基礎がなお現代日本社会に強くあることを感じるのである。

★★

 

劇団そとばこまち「シークレット・ライフ 第三部:そして、箱船は行くよ編」(HEPHALL)。生瀬勝久が率いてきたそとばこまちだが、二〇〇〇年八月に小原延之が第五代目の座長に就任し、生瀬、山西惇、みやなおこ(本誌二九号に登場)、八十田勇一らが退団して新体制となった。本誌一三号に登場した橋野リコのリコモーションは今回の作品の「協力」に名を連ねている。この三部作が新体制での主公演である。私がこの劇団を観たのは九三年の「九月の昆虫記」(南河内万歳一座との合同公演)以来であり、その時は酷評した(本誌三三号)。もったいぶったドタバタ劇と言ったが、新体制になってもその点は全く同じである。何十年かに一度双子男女が生まれると九鬼家では女の子を「聞こえ様」と読んで、未来が聞こえお告げができる神格としてあがめる宗教を運営し、これを基礎にその地方で一大財閥として繁栄してきた。聞こえ様が生存していないときには、宗教幹事が「お井戸様」という井戸でお告げを聞く儀式を行うのである。待望の聞こえ様候補万里子が生まれたとき、母は、そのような因習から遠ざけるために里子に出し、隔離したが、成人し結婚し万里子はその地方に帰ってくる。聞こえ様にしたくない母の行動、血の本能で聞こえ様になりつつある万里子の苦しみとの中で起こる様々な悲劇を喜劇として演じている。新体制の役者の筆頭、西村頼子が不気味な母を演じ存在感。劇場がいい。オレンジルームの流れで、小さいがゆったりしている。

★★

 

「夏の夜の夢」(びわ湖ホール中ホール)。蜷川芝居である。好きで比較的よく観ている。「NINAGAWAマクベス」(本誌二号で評論、八五年)、「近松心中物語」(四号、八六年)、「タンゴ・冬の終りに」(五号、八六年)、「テンペスト」(二九号、九二年)、「王女メディア」(三二号、九三年)、「にごり江」(三四号、九四年)。この作品はシェークスピアの喜劇で、訳は小田島雄志。妖精による人間世界(公爵の婚礼、貴族青年達の恋)の恋の改変と混乱、そしてハッピーエンドである。喜劇性はその混乱の極端な展開と公爵の婚礼を祝おうとする街の職人達が展開する大道芸にある。私が、かねてから蜷川劇の特徴として指摘する四要素をこの作品にあてはめると、@舞台装置―始まる前はこれほどシンプルな舞台なのだろうかと思わせる黒い背景壁の前に天龍寺に模した白砂の石庭。ところが黒壁は妖精界と現実との間のオートドアになっており、石庭には五つのせり上がり舞台が付いていて瞬時に地下から妖精が飛び出す。照明は滝が空から一直線に降りてくるような光のページェント。白砂に天から無数の深紅のバラを落下させるなどの色彩の妙。A衣装―今回はジュサブローでなく小峰リリーで、持ち味のフランス人形風のドハデファッション。それがアンサンブリーだから不思議だ。B群衆―二一名というのはおそらく私の観た中で最少だが、それでも妖精たちをうまく使って大人数の雰囲気を出していた。C音楽―今回も宇崎竜童で重々しさと爽やかさを表現。この四要素に加えて、今回は劇中劇の職人達に、力士をはじめ日本的情緒を盛り込んだ(これが作品として自然であるかは疑問であるが、これがロンドン公演で好感を持って迎えられているという)のと、妖精ハップ役、京劇の林永彪の見事なアクロバット。そして最後に白石加代子の妖演ぶり。総括するとやはり一級の娯楽作品である。

★★★

 

「フォッシー」(Bunkamuraオーチャードホール)。ボブ・フォッシーは一九二七年生まれで一九八七年六〇歳の「若さ」で死去したアメリカのダンス振付家。七三年には映画、テレビ、演劇の演出で、アカデミー賞、トニー賞、エミー賞を同年受賞した伝説の人。フォッシー・ダンスとは男女を問わずセクシュアルな動きと手を含む身体の機能を最も柔らかく表現する手法を要求するダンスの方式と定義できようか。この公演はブロードウェイミュージカルと銘打っているが、歌は多くなく、ナマのバンドに煽られての、ともかくダンスダンスダンス。最初のナンバーから魅入られ、休憩を挟んで、その楽しさは途切れるところがない。解説には、アメリカ人なら、あるいはダンスジャンルに詳しい人なら良く知っているナンバーが並んでいるが、私にはその素養がないから、感想程度にとどまる。演出のアン・ラインキングは、フォッシーに特徴的な窮屈な振り付けで始まるダンサーが自在に踊りだすと、あとはその演者の、実力と感性に任せていると思われる。ダンサー全員が主人公である。大澄賢也が日本人で唯一人参加。ワールドカップのサッカーでもそうだが、ダンスも格闘技である。かつ美そのものである。ボードビルとアメリカストリップショーの要素も取り込まれているこの楽しさは、文句なく一級であろう。

★★★

 

「第一回KOBE ACOUSTIC TOWN」(神戸新聞松方ホール)。ぴあを見ていたら、自由席であることを知って、早速でかけた。お目当ての紙ふうせん以外に、杉田二郎、ばんばひろふみなどが出るとあれば、何が何でも行きたいというのが、私の年代の歌好きの習い性というものであろう。ばんばひろふみははもちろん「SACHIKO」などを歌ったあと司会をうけもった。私はあらためて風采、スタイルとは異なる杉田二郎の声の良さと艶を堪能した。立命を卒業後ははしだのりひことシューベルツを結成し、メガヒット「風」を世にはなった。立命のその当時の末川博総長の「未来を信じ、未来に生きる」を今も座右にしているという真面目男である。ジローズというグループ時代のもう一人のジロー、森下次郎はこのコンサートを主催したラジオ関西(AM神戸)の音楽番組のプロデューサーをしており、彼も舞台に登場してやはりメガヒットである「戦争を知らない子供たち」を歌った。そして紙ふうせんである。七〇年に結成した赤い鳥は私の世代の誇りである。四年ほどで和路線の紙ふうせんと洋路線のハイファイセットに分裂した。ハイファイセットは「フィーリング」の大ヒット以外鳴かず飛ばずで不幸な事件にも巻き込まれて解散したが、紙ふうせんの後藤悦治郎と平山泰代は地元甲子園で音楽を続け、「冬が来る前に」を大ヒットさせたほか、「霧にぬれても」、「紙風船」、「笹舟」などをヒットさせ、赤い鳥時代の「翼をください」、「竹田の子守唄」などを丁寧に歌っている。これらのいくつもの歌を聞きながら、年齢層の高い客は静かに興奮し、手拍子を中心にスウィングしていた。六〇年代、七〇年代のフォークには良いものが多い。しみじみこの頃そう思う。これは私の加齢を原因とするだけでなく、時代分析が必要である。いずれ音楽論としてやりたい。

★★★

 

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