夏は美術に親しんだ

 

「夢二郷土美術館」(岡山市後楽園側)。久しぶりにこの美術館を論じる。本誌二一号(九〇年一〇月)以来である。滋賀県立近代美術館での夢二展は二九号(九二年一〇月)で論じたことがある。ずいぶんと整備され、豪華になった。邑久町の夢二生家、少年山荘も整備が進んだのであろうか。あの山奥にもまた行きたいものだ。夢二には混とんとしたところがあって、それが画風にも良く現れている。気分の赴くままに何でもという作風である。実生活では明治期の社会主義への共鳴、昭和期の反ナチ、嫌ナチの立場を持つかと思えば、庇護する朝鮮人を嫉妬から保護下から追放したり、自堕落とも言える女性遍歴など。デッサンが非常にしっかりしているから、油絵も山水風もマンガ風も美人画も何でも描けた。しかし私を含むおそらく多くのファンは、美人画の夢二が好きなのではなかろうか。細面の八頭身美人がそれぞれの色香を発している。

★★★

 

THE EXHIBITION OFMASAHARU FUKUYAMA PORTRAITSAND SHOUJI UEDAPHOTOGRAPHS」(植田正治写真美術館)。久しぶりにこの美術館を論じる。本誌三八号(九六年五月)に高松伸設計で鳥取県岸本町にできたすばらしいこの美術館(町立!)を紹介し、その後私の大山の山小屋「緩山荘」に客人を案内するたびにここを訪れている。植田のおびただしい作品群を中心にしつつも、いつも工夫がある。植田は二〇〇〇年に八八歳で死去し、そのあとしばらく追悼展が開かれていた。今回は歌手、DJなど多彩な才能を発揮する福山雅治が植田を偲んで企画したオマージュ展である。福山は二四歳であった九四年に植田により鳥取砂丘で被写体になって撮影され、それが九五年のメガヒットHELLOのジャケットカバーを飾って以来、何枚ものジャケットを植田に頼んだほか、コンサートの背景に植田の写真を使い、またカメラを植田に師事して始めた。筋が良くめきめき巧くなり、シドニーオリンピックにはTV朝日のオフィシャルカメラマンとして派遣されたそうだ。自らの写真集も出している。植田は、福山は若くその才能に嫉妬している、ライバルだとまで言って可愛がった。音楽活動を休止していた福山が九六年、この美術館で写真セッションを開いたこともある。二人の人間交流の模様が、写真美術館に溢れていた。植田の作品は、福山が被写体となっていようといまいと、一貫して静の世界であり静かな艶がある。モノクロームの美しさを極限まで突き詰めている。福山の作品は植田の顕著な影響を受けつつ、よりリアルである。植田を被写体とするときも動きがある。福山は植田の魅力を「作品のなかで生き続ける魂 永遠の生命を教えてくれた人 技術を超越したときに生まれる芸術 写真することを教えてくれた人 生涯アマチュアを貫いた生き方 精神の自由をくれた人 写真はいつも僕をやさしく迎えてくれる 写真することでいつものように植田先生と逢うことができる」と言っている。記念の図録に、福山のプロデューサーであるグーフィ森の「植田正治の″ 大きな力″」という秀逸な文章が掲載されている。植田と福山との結びつきの凄さが語られている。

★★★

 

「ルイス・C・ティファニー庭園美術館」(松江市ウォーター・ヴィレッジ)。装飾品のティファニーの創設者の長男で、芸術家のルイス・C・ティファニー(一八四八.一九三三年)の作品とコレクションが展示されている。なかなかの力作美術館で、ティファニー作品に入る前に、ガイダンス・ルームという部屋ではジャポニズムが欧米に与えた影響を作品で語り、パリス・サロンと題する部屋にはアール・ヌーボーとアール・デコの室内様式をしつらえて、なぜティファニーが日本に興味を持ち、その時代の世界の美術潮流はどうであったのかをまず解説する。しかも普通の美術館は高価な図録を充実させて、それを買わせることにより観客の認識を高めるとともに、経済的利益を上げるのだが、ここでは中程度に詳しいパンフレットを六種類も無償で配布し、便宜に供している。ティファニーは絵も銀細工も陶磁器も家具も製作したが、最も得意とするのはガラス細工であった。とりわけランプとステンドグラスは超人気で、彼の作品を手に入れることはアメリカでのステイタスシンボルであると言われた。その作品に描かれる藤、桜、花水木に明らかなジャポニズムの影響が現れるのである。陶磁器にはアール・ヌーボーの流れがある。量質ともに満足させてくれる美術館である。全体の施設が宍道湖を借景とした豪華な花回廊のような趣であり、美術館の長距離遊歩と観づかれには洒落た休息場所が多くある。

★★★

 

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