またひとつ歳が増えた。
 もういらないぞ。
 誕生日が嬉しかったのは遠い昔だ。
 いろいろな人が寄ってたかって我にわが歳を確認させる日でしかない。

 体脂肪計なるものが我が家にもあって、体重、BMI、体脂肪率、内蔵脂肪レベル、骨格筋率が表示されるのだが、最後に体年齢というのが出て、ここ三年は実年齢マイナス12を行き来している。正月におせち+酒+運動なし、が何日も続いてマイナス11になったりすると、あわてて家の中でできる運動=ストレッチやらなにやらで修復につとめれば数日のうちにもとに戻るからまだ許せる。
 BMI=Body Mass Indexは22が標準で、25以上がoverweight、30以上がobese(病的)肥満なのだそうだ。幸いなことにおれは24あたりを上下しているからメタボ寸前で踏みとどまっているのだな。
 体脂肪率は19から20%あたり。
 てなわけで、自分では50代のつもりでいるし、できればもう一段ストイックな生活をして40代を目指してみるか、とも思う。しかしそれにはまず酒を控えねばならないから期待するほうに無理がある。一応理想的努力目標値としておくことにしている。
 要するに、実年齢を全く意に介さず毎日を過ごしていて何の支障もないということだ。
 さて、誰も知らぬうちに通り過ぎたい誕生日ではあるが、それを覚えていて「おめでとう」と云って下さる方に対しては「ありがとう」と返さねば罰があたる。それはそうなのだが、そのたびに何ともそらぞらしい気持になる。心の底に「全然めでたかぁねえや」と思っている自分がいて、そいつが年を追うごとに育ってきているのがよく見えるからだ。
 今年はほとんど等身大になった。原因が特定できないことはない。
 それはカードやメールのなかのひとことである。
 「……いつまでもお元気に……」
 「……ますますお元気で……」
 「……ずっと長くご活躍を……」

 中学時代の恩師やご高齢の先輩への年賀状には自分でも当然のようによく書いていた文言だが、いざそれを受け取る立場になるとかなりコタエるものだということがわかった。先生ゴメンナサイ、先輩ゴメンナサイ。
 「いつまでもお元気に」=世の中あんた位の歳になると元気なのが少なくなる。退場者も増える。だからせいぜいお達者で。
 「ますます」=歳のわりに頑張っている。せいぜいお達者で。
 「ずっと長く」=いつまでもいるねぇ。そろそろ引退だろうがそれまではまあお達者で。
 表現に多少の違いがあっても、基本として「お達者で」なのである。大卒新人にこうは言うまい。30歳に向って云うか? 40歳は? 50歳は?
 「む〜らの渡しの船頭さんは、こ〜とし六十のお〜じいさ〜ん〜」という童謡があった。まあ還暦過ぎて数年たてば高齢者の部類だから何と言われようと甘んじて受け入れなくてはならないが、あまり度々聞かされると「裏切って早くクタバってやるわい」みたいな気にもなってくる。
 シャンソンの石井好子さんの話だが、出演時間になるとマネージャーが「お迎えに参りました」。「“お迎え”というのはやめてちょうだい」と云ったら次からは「そろそろでございます」。
 作家の内田百間(「けん」の字、本当は「もんがまえ」に「月」だが表示できない)先生の誕生日に開かれるのは《摩阿陀会(まあだかい)》。これは「還暦はもう祝ってやったのにま〜だ死なんのか」の意味だと言う。

 「お迎え」「まだ?」「そろそろ」、あ、来ました来ました……

2009年10月7日



 一日目、神は犬をお創りになった。
 そしておっしゃる。「お前に寿命20年を与えよう。そのあいだ門の脇に一日中座り、近づいてくる者に吠えかかるのだ」
 犬「え〜、申し上げます。20年も吠え続けるのは大変です。10年くらいでご勘弁ください。半分の10年はお返しいたします」
 神「よかろう。お前は10歳まで生きてよいぞ」

 二日目、神は猿をお創りになった。
 そしておっしゃる。「お前に寿命20年を与えよう。そのあいだいろいろな芸をして皆を笑わせ、楽しませるのだ」
 猿「あの〜、20年も芸をするんですケ? そんなにやってらんないっす。10年返しやすんで寿命10年にして下せえまし」
 神「よかろう。そちは10年じゃ」

 三日目、神は牛をお創りになった。
 そしておっしゃる。「お前に寿命60年を与えよう。そのあいだ太陽の下、野原で鋤を引き、荷を運び、乳を出し、仔牛を生んで皆を助けるのだ」
 牛「う〜〜、そんなに長ぇことおらぁ働けねえでごんす。せいぜい20年にしてくらっせぇ。40年はお返し申すつうもんで」
 神「60年はちと酷じゃったの。よしよし、20年にしてやろう」

 四日目、神は人間をお創りになった。
 そしておっしゃる。「お前は20年のあいだ好きなときに眠り、したいことをし、食べたい物を食べ、遊んで暮らして良いぞ」
 人間「えっ? そんなに楽しいのがたった20年? さっき動物がずいぶん寿命を返してましたね。牛が40年、猿が10年、犬が10年でしたっけ? それを下さいな」
 神「なんと欲深いやつだ。そんなに欲しければくれてやろう。合わせて80年じゃ」
 人間「あ、ありがとうございます。うひょひょひょ。やったね〜」

 そして人間は、はじめの20年は気ままに暮らし、次の40年は太陽の下で牛のように働き、子を作り、後の10年は猿のように芸をして孫の機嫌をとり、最後の10年は街角のベンチに日がな一日座って誰にでも吠えつくようになりましたとさ。
 寿命もらうときに内容まできちんと確かめなかった最初の人間! そこの、いちじくの葉っぱつけてる奴、アダム、あんただよ、あんた。責任取れ〜〜っ。

 LA在住のT氏から送られてきた話である。
 もしかして英語圏では周知のジョークかも知れないと思い、一応A女さんに確かめたところ、初耳だというので多少アレンジして紹介することにしたのだ。

2009年11月18日



 あれから三年経った。
 大腸検診である。
 前回は上行結腸に4mmの平らなポリープがあって、病理検査は良性。この程度なら癌に移行する確率2.何パーセント。このまま見守りましょう、だった。見守るとはつまり毎年検診を受けに来なさい、なのだろうが、なにしろ明け方に起きてスポーツドリンクみたいな《大腸内視鏡検査前処置用下剤》なるものを1800cc飲み(こいつが苦しい。詳しくは2006年のエッセイを参照して下され。酒なら!……いや酒でもそこまでは飲めん)、数回トイレに通うというハードルがある。この面倒を思い返すとなかなか決心がつかないのだ。
 まだまだ、と先延ばしにしているうちに気がつけば三年……。
 あのとき我々仲間に検査を切に勧めてくれたのはTだが、この夏の終わりに一足先にあちら側へ旅立ってしまった。そのショックに背中を押されて仕方なくまた1800ccを飲み下す決心をした。
 クリニックに予約を入れ、二週間前に血液検査。そのときに前夜にのむヨーピル(よ〜出る、を恰好つけたネーミング、だろう)なる緩下剤と、例の溶かして1800ccになる粉末入りプラスチック容器を受け取る。「家を出る4時間前から飲み始めて下さい」との説明など前回と同じ。これで終わりと思ったら、「検査前々日の昼食夕食、前日の朝昼晩は《検査食》を摂っていただきます。処方箋を薬局に出して購入して下さい」。
 え? ケンサショク? 何だそりゃ? 前々日から束縛かよ。1800ccだけでもうんざりなのに、妙なもの食うんかい?
 ともかく薬局で箱をふたつ渡される。家に帰り箱をよく見ると、何だか不味そうな写真が。中身はすべてレトルトパックなのだった。「中身の封を切らずに熱湯の中に入れ5〜7分間沸騰させた後、切り口から袋を開け、茶碗にうつして召し上がって下さい」だと。

◎前々日用《クリアスルーJB》

昼食:梅がゆ、じゃがいものそぼろあんかけ
夕食:ビーフシチュー、クラッカー

右上のネコ缶は“飛び入り”

◎前日用《エニマクリン》

朝食:白がゆ、卵あん
昼食:白がゆ、梅鰹ふりかけ、すまし汁
間食:エネルギー補給飲料、ビスコ、ソフトビスケット、グレープゼリー
夕食:ポテトスープ

 おいおい、5食中3食粥だ? 間食にエネルギー補給飲料だ?
 前々日は午後から打合せ、夜はビッグバンドのコーチ、前日は学校、夜は志ん弥さんの二人会を聴きに行く。
 そんなときに、どこで、どうやって「熱湯の中に入れ5〜7分沸騰させた後、切り口から袋を開け茶碗に移し召し上が」るんだよ?
 おれなんか午前中は家にいられるからまだマシだ。朝から外回りのセールスやらなきゃならない人のこととか考えたことあるのか?
 栄養成分表示など眺めているうちに腹が立ってきた。
 なにしろ添加物だらけだ。粥って米と水でできるものだろうが? そこになんでデキストリン(コーン)なんてものが入るか。デキストリンとは何ぞや?
 辞書によれば【澱粉の加水分解によって得られる白色〜淡黄色の粉末。粘着力が強く、封筒などの糊、化粧品の固形化、粘度の調整、皮膚への吸着剤、健康食品やスナック菓子にも用いられる】って要するに糊かい。粥なんてもともと糊みたいなものだ。更に糊を加える、その真意は何だ?
 そのほかの袋には増粘剤、膨張剤、乳化剤、光沢剤、カロチン色素、カラメル色素、酸味料、香料、ソルビトール……。
 これは検査のために添加物を食べさせて癌患者を増やし、抗癌剤で儲けるという製薬会社の策略なのではなかろうか?
 友人知人縁者で不幸にして癌を背負い込んでしまった人たちは、体質を改善して抵抗力を増すために化学物質を摂取しない、自然のままのものを食べるという努力を続けている。こちらも彼らの快癒を念じて一緒に対癌戦を戦っている気持のときに、たとえ一食でも、安易に添加物入りの食事をするのは彼らの足を引っ張るような気がしてならないのだ。
 要するに検査までに腹の中をきれいにしておけば良いのだから、おれはおれの方法でやるぞ。
 で、米は秋田のTI閣下からご恵送賜った有機栽培あきたこまち、梅干しは自家製完全無添加3年もの。この粥のみで6食を通して素知らぬ顔で検査に臨もう。
 しかし検査食がどのような代物か全く知らないで論評するのも客観性に欠けるなぁ。せめて一食は試してみる必要はあるだろう、と思い返して前々日の晩飯だけは摂ることにする。

[検査前々日]

 しばらく通常食とお別れにつき朝食重めに食べたため、昼に空腹を覚えず食事パス。午後から打合せなどいろいろ仕事あって帰宅23:30。
 検査食・ビーフシチューを温める。小さいじゃが芋1/4が4個、肉片2cm角くらいのが2個。味は……う〜ん、形容に困る。30年前の学食? 糖尿病患者食?

 

 “食べて痩せるダイエット食品”だったらこんな風になるか? 飲み下したあとに妙な甘さが残るのは添加物のせいだろう。

[検査前日]

 朝:飯1/3椀を粥にし、梅干し一個
 昼:同じ

 帰宅22:00過ぎのため夕食は抜き。昨日今日の食料事情は体年齢にどう影響したか。計量。驚くべし、このところ実年齢マイナス11〜12歳だったのがマイナス13と出る。このまま粥生活にして目指せマイナス15歳、まさかね。
 《大腸内視鏡検査前処置用下剤》マグコロールを1800ccの水に溶いてプラスチックケースに保存。前回は指定どおり冷蔵庫に入れたが、今回は気温が低いのでテーブルに置いておく。
 23:00ヨーピス服用後就寝。

[検査当日]

 4:15起床。ヨーピスが効いて4:23早速(1)。4:30よりマグコロール飲み始め。5:30(2)。6:00(3)。6:25(4)水状、薄茶。このあたりで睡魔。ソファでうとうとする。8:05(5)、8:50(6)多少白濁だがほとんど無色。9:10(7)無色、小量。
 これだけしぼり出しておけば大丈夫だろう。
 9:26発の電車に乗る。車内かなり混んでいるが前回ほどの不安なく無事クリニック着。念のため最終チェック、10:10(8)極小量。無色。
 10:20検査開始。上行結腸の平型ポリープは消滅していた。そのかわりS字結腸に径8〜10mmの凸型のもの一個。サンプル採取後少々出血あり。
 この程度なら内視鏡の先から輪型のワイヤーを出してポリープに引っかけ、電流で焼き切るという簡単な手術で取れる。サンプルの病理検査の結果を待って期日を決めましょう、ということになった。
 さて本日は無罪放免。帰りに何を食べようか、と考えていたら、《病理組織検査後のご注意》という紙を渡された。

粘膜の一部を切除して組織検査を行いました。出血する危険があり、下記の点にご留意下さい。

本日:

  • 昼食、夕食は消化の良い食事(お粥、素うどんなど)をなるべくご自宅で腹八分目の量で召し上がって下さい。
  • 強い腹圧をかけるような運動は避けて下さい。
  • 本日は禁酒、禁煙にして下さい。
  • 万一、強い吐き気、出血(吐血、下血、赤色便)、強い腹痛などの異常がありましたらご連絡下さい。
  • 止血剤を処方しました。二日間内服して下さい。
  • 明日夕食から普通食で結構です。

 おやおや、ポリープの頭を引っ掻いてちょっと血が出たために、粥生活が一日半延びてしまった。

[検査結果]

 二週間後、判決である。まあ大丈夫とは思うがダメという可能性も充分あるだろう。多少は心配。しかし有罪と言われても取り乱さないように下腹に気を集中して、と……
「これは腺腫です。つまり癌ではありません。が、切除したほうが良いでしょう。半年以内くらいに手術しましょう。一応二日間入院して経過を見ます」
 二日入院だって。待って下さいよ、つまり三日間空いているところを探さねばならない。その上……
《大腸ポリープ切除後のご注意》という紙を渡された。

ポリープを切除した後にできた傷は、完全に治るのに約(2、3、4)週間かかります。
この期間で特に出血しやすい時期は切除後1週間以内です。まれに2週間後に出血することもあります。術後に無理をされますと切除部位に穴があき、穿孔性腹膜炎になることもあります。よって以下の注意を守って下さい。

──で、あなたの場合、と4に丸がついている。最上ランクかい。嬉しくないねぇ。

*日常生活の注意
約(1、2、3、4)週間は重い物を持たないようにしましょう。長時間の立ち仕事・ゴルフ程度の運動もさけましょう。腹圧が強くかかること、長時間の入浴は(1、2、3)週間避けましょう。気圧の急激な変動も悪影響を及ぼすので飛行機に乗るのは避けて下さい。

──で、あなたの場合、これも最高ランク。ただしシャワーはOKですと。え〜、ライブでピアノを弾くのはどうなんでしょうね。局面によってはかなり腹圧がかかる奏法もいたしますが、なんてお伺いを立ててもわからんだろう。道場はやはり自主規制かいな。つまるところ約一ヶ月は寝たきりに近い生活となるのだろうか。
 てえことは、ツアー、コンサート、ハードになりそうなメンバーとのライブなどが一ヶ月入っていない期間を半年以内に見つけるのかい?

 で、やっと見つけたのが2月25日である。
 3月下旬に復帰したとき、どのくらいヨレているか。
 み〜な〜ふぅぁんおとぅわぁぬぉふぃむぃぬぃ〜〜〜。

3週間は禁酒ですよ。

 ハイハイ、もうなんでもいたしますよ(4月ニナッタラソノブントリカエシテヤルゾ〜。ミテロヨ〜ッ!!! ヽ(#`Д´)ノ )。

2009年12月22日



■2/25(木)

 昨日夕食は粥、梅干し、南瓜煮、味噌汁。
入院支度=ツアーに持って行くキャスターつきキャリーバッグにパジャマ、下着、本三冊(『日本橋檜物町』『江戸の砲術師たち』J. Archer『Paths of Glory』)、黒カーディガン、洗面具、バスタオル、タオル2枚、スリッパ、コップ、髭剃り、携帯電話、PowerBook、電源類、読書用懐中電灯、五線紙、携帯血圧計(「さくらや」が2月末で閉店するので、残ったポイントで入手した)。
 AM6:25腸内清掃ドリンク・マグコロール飲み始め。一回コップ一杯計1800cc、こればかりは駆けつけ三杯というわけにもいかず。まずMg1。6:40Mg2、6:50Mg3、7:00Mg4、7:05便意(1−通常軟)、7:10Mg5、7:18Mg6で完飲。7:30(2−軟)、7:50(3−軟液+小片)、8:05(4−水+粉)、8:15(5−茶+水)、8:20(6−淡褐+粉末状)このあたりほとんどトイレと居間往復。粉末状はおそらく前夜の味噌汁に使ったアゴの出汁か。8:30(7−淡黄+粉末少々)、8:40(8−透+粉末1〜2粒)、8:56(9−透+量減)、9:40(10−透+量さらに減)、10:30(11−透+小量)。前回検査時より回数多し。
 10:50家を出、11:10発に乗る。上り線ホームから三茶のキャロットタワーあたり何となく霞んで見える。黄砂か(のちにこの日珍しく濃霧ありと判明)。ぴったり12:00クリニック着。一度トイレへ行っておくように言われ試行するが何もなし。三年前の初回検査のときは指定通り出発4時間前にマグコロール開始し、途中で残余を催してしまいあわや、ということがあった。今回は30分ほど早めたので余裕である。腹は完璧空洞になっているはず。学習したぜぃ。
 12:15施術室に入る。着衣すべて脱ぎ、紙の古代人貫頭衣風と、尻のほうが開いている紙パンツを履く。軽い麻酔点滴。もうポリープの場所がわかっているためか、モニターに腸内が映って一分も経たないうちに終了。呆気なし。少しはグサッとかチクッを期待していたのに(ウソです)。
 最悪下血タラ〜リで、きっと一日は紙オムツなのであろうか、との覚悟も空振り。「終わりましたが麻酔で気分悪くなりませんでしたか?」「いいえ」「じゃ、お酒強いほうですね」「え、まぁそれなりに」「止血剤と水分を点滴しますのでもうしばらく横になっていて下さい」

 ポリープおよび切除後の切り口の写真と紹介状をもらい、今日からの注意を受ける。

1. 粥生活一週間
2. 禁酒三週間
3. 禁入浴三週間(腹圧がかかる)(シャワーはOK)
4. 禁運動四週間(重い物を持たないこと)

 傷口か塞がるのに四週間かかる。無理をすると穿孔性腹膜炎になることも、と恐いことを言われる。
 13:20退出。提携しているK病院へタクシーで移動する。直線で約800m。普通なら歩く距離なのに。

 受付で紹介状を見せたら中のベンチで待てという。しばらくして会計カウンターの奥にある部屋に入れられ、事務の人たちが座っている脇で書類を書く。
 2階の内科でまたしばらく待ち、血液検査に行かされる。血4本採取。
 4階のナースセンター前で、看護師が「個室が空いてるがどうする」。費用がどれほどかちと不安になるが頼む。421号室なり。死に位置……いやな番号だ。
 わりと広い。窓から靖国神社の大鳥居とその脇のポールの日の丸が見える。眼下は千鳥が淵沿いの遊歩道。あと一ヶ月遅かったら絶好の花見ができる場所だ。しかし花見どきはこのあたり大渋滞。タクシーで来たら30分ばかりかかっただろう。もしかしたら荷物引きずって歩いてしまったかも。で、出血? 腹膜炎?
 ま、この時期で良かったとするか。
 冷蔵庫、服入れ、タンス、テレビつきキャビネット、ユニットバス。ビジネスホテル中の上といったところ。
 とりあえずパジャマを着て横になる。

 

 Uさんという(マスクで顔の下半分はわからないが)眉と目の感じが若い頃の(きれいだった)カーメン・マクレェに似た看護師さんが検温をしてから点滴の針を左前膊に刺す。針は2cmほどのプラスチック製でこれを血管に入れる。針の後端には緑色の漏斗状のものがつき、それから20cmほどのチューブが出ている。チューブの先は二本に枝別れしてそれぞれの先端が点滴薬からのチューブに接続できるようになっている。つまり二種同時に点滴可能というわけだ。漏斗状部分を腕に透明テープで固定し、そこにマジックで2/25と日付を書く。こうしておけば点滴のたびに針を刺す手間が省ける。しかしずっとプラスチック針を血管に刺しっぱなしにしておかれるのは実にうっとうしい。
 家から持ってきたいつも飲んでいる降圧剤の名前と錠数を申告する。そのほかに細かい質問用紙(既往症だの、アレルギーだの、いつも何時に寝て何時に起きるかだの、食事の世話はどうだの)を置いて行った。
 17:30別の看護師が透明のと黄色の袋を持ってくる。透明のはホスミシン2g入りソリタスが200cc(たぶん水分と栄養補給)、黄色はアドナ50mgトランサミン10%1g入りフィジオが500cc(止血剤)。速度が一滴/1.5sec。かなり遅い。減り方を計測すると500ccに400分かかることになる。6時間40分! 今日中に終わらない! そう思ったとたん尿意あり。点滴スタンドをトイレに持ち込む。入口の段差を持ち上げて入る。天井ぎりぎりなり。
 18:00突然T氏ご入来。私が時々練習に顔を出して無責任なアドヴァイスをしてはそのあとの飲み会に参加するアマチュア・ビッグバンドのリーダーなり。おかしいなぁ、オフィスには誰にも病院を知らせるな、と言っておいたのに……そうか、前回の飲み会でうっかりしゃべってしまったのだ。反省するも手遅れ。
 18:30夕食。白プラスチックのどんぶりに重湯、燕脂色プラスチックの椀に身なし吸い物、パックのリンゴジュース“もっともっとカルシウム”果汁20%。片端から一気飲み。味気なし。滞在中ずっとこれだと参るなぁ。食後、点滴ピッチを一滴/1sec弱にしてもらう。500ccで130minの見当。
 20:15点滴終了。ベッド脇のインターホンを押す。「はい、どうしました?」とナースセンターの応答。「点滴終わりました」「いまうかがいます」……なるほどね。重症で気持が弱っていたとしたらこれはずいぶん心強いのだろうな。
 吊した袋からのチューブを外し、針からの接続チューブには血管から上がってきた血が固まらないような液体を注入、そこを丸めておいて、りんごをくるむような白いネットを腕にかぶせる。これで針とともに腕に固定されるけれど、そのために左手首での持参血圧計による測定ができなくなった。
 20:30「これからは患者さんのプライベートタイムです。見舞の方はお帰り下さい」のアナウンス。
 21:00消灯。枕元のスタンド点灯、まさにこれからは読書タイム、ならびに仕事タイム、いざ、と思うが今朝からの疲れですぐに爆睡。

■2/26(金)曇、昼過ぎより小雨、夜大雨

 5:00廊下を遠慮がちに歩くスリッパの音というのはかえって耳につく。なんとなく目覚めてしまう。血圧計で測る。156/93、ずいぶん高い。傷あとが炎症? 少々心配になる。便意あり水様褐色。水を飲むとほどなくして直通の感。とりあえず出血なし。
 7:45朝食。また水分だけかな、と思いきや五分粥250g、味噌汁(麩、白菜)、煮豆腐(1/4)、皮むきトマト、牛乳200ml。柔らかいものばかりだが、形あるものを口にする有難さ。便意(2)(3)。ほとんど水。まったく出血はないようだ。
 8:20ナースセンターより枕元壁のインターフォンにコール。診察券を持って4階ロビーへ来るようにという。採血2本。炎症の有無を調べるとか。
 10:10看護師検温、血圧133/82だという。ひとまずほっとする。
 10:40点滴ダブルにて。黄色の止血剤が200ccとなる。透明のほうは昨日と同じ。点滴の間は読書するしかない。
 12:00終了。今日の看護師は針をしまうとき、先に自分の手首にネットを通しておいてから接続チューブをまるめる。そのため手首からこちらの手首にネットがスムーズに受け渡される。カーメンより手慣れた感じだ。
 12:20昼食。五分粥、南瓜煮、鶏肉人参小松菜白滝入り煮、牛乳200cc。次第に食事らしくなる。
 今日は奇しくも2.26事件の日だ。ここは反乱軍鎮圧のための戒厳司令部が置かれた軍人会館(いまは九段会館)のすぐ近く。しかも靖国神社の大鳥居が見える部屋である。こんな日にのんびりベッドに横たわり、読書三昧で過ごしていて良いのだろうか。さりとて憂国の青年将校にも護国の英霊にもなれぬなぁ。
 ジャズミュージシャンの存在価値とは結局何なのだ。空は灰色だし。などと考えはじめると限りなく落ち込みそうになる。いかんいかん。PCに入れておいた落語でも聞くか。
 16:00部屋のTEL鳴る。会計より。明日退院だが、この電話をこれ以降使わないなら精算ができる。明日そのままお帰りになれます、という。会計へは運動のため往復とも階段を使う。本当は運動禁止なのだが、一ヶ月後の道場復帰の際にできるだけブランクを感じたくない。すぐに息があがるという醜態は避けたい。
 17:00担当のS先生、血液検査表の結果を知らせてくれる。炎症なしなので明日退院可。予定通り無罪放免決定。
 18:20夕食。五分粥、茹で塩鱈、キャベツ煮、トロロ芋青海苔少々、ジョア、バナナ一本。トレーの上にバナナが一本そのまま置いてあるのが何となく殺風景。食事というより餌にみえる。
 21:15宿直看護師、血圧測定138/87。明日は退院のために朝食前に点滴をすることになる。

■2/27(土)雨

 4:00洗面所の水が止まらないような音で目が覚める。窓に当る雨音だった。かなり激しい。風も強いようだ。カーテンを開ける。遊歩道の街灯や九段下あたりのビルの屋上赤色灯も煙っている。
 4:45持参血圧計143/84。雨は小降になったり激しくなったりを繰り返す。
 6:00荷物パッキング開始。
 6:30点滴。
 7:40朝食。五分粥、茹でカリフラワー、ポーチド・エッグ、牛乳200cc、鯛みそ(プラスチックパック入り→甘い)。どうするのかわからない。とりあえず粥に混ぜて食う。
 8:10点滴終了。血管に刺したままになっていた針を抜く。左手から手錠を外された感じ。手に何もついていないとはこういうことだったか。テープのあとが二カ所痒い。
 8:30着替え。
 9:00外は小雨。靖国神社前よりタクシーにて帰宅。やはり自宅がいちばん。安心して寛げるというのは何ものにも替え難い。

 たった二泊にしては長く感じたのはなぜだろう。点滴の間動かずにいたからかな。立ち上がっても、スタンドを持って歩いても良いとはいえ、身体に何ものかがつながっている感覚は相当不自然なものだ。それから、いつ医師や看護師が入ってくるかもわからないことで潜在的に緊張感が続いていたための疲れの影響。消灯後も宿直看護師がそっとドアを開ける。これも気配を感じてふっと目が覚めるのだ(武道の達人でなくてもこうなれる、と確認できたのは収穫だ。掛け布団の下で脇差しの鯉口を切る、とまではいたさぬが……むっふっふ)。
 つまり、安眠、休養には完全なプライバシーが必要なのである。
 重病なほど自宅で治療を受けられるようにすべきではないのだろうか、という入院初体験の感想でござるよ。

2010年3月8日



 ソプラノ・サキソフォンで独自の境地を切り拓いたSteve LacyはThelonious Monkを深く尊敬することで知られていた。
 コンサートで、自分の曲以外はモンクの作品しか演奏しなかったという※註
 レイシーのモンクへの傾倒はずいぶん若い頃からだったようだ。1958年にモンクの曲ばかりのアルバム『Reflections』を発表している。そして1960年にモンクのバンドに加入。
 モンクは1917年生まれ。1934年生まれのレイシーより17歳年長だ。
 すでにビーバップの巨匠だったモンク。その風貌とステージ上での奇矯な振舞などから相当な変人だと思われていたし、数々の伝説の持ち主である。そんなモンクから26歳の若者は何を学んだのだろう。生涯にわたって影響されるようなこととはどんなものだったのか。
 レイシーはたびたび来日し、私は二度ほど共演する機会があったけれど、ゆっくり話す時間がなかった。2006年4月、埼玉県深谷市のホール・エッグ・ファームに来ることになったというので、是非聴きに行って終演後に質問してみよう、と計画していた。しかし体調を崩したという報が入りコンサートはキャンセルされ、そのまま不帰の客となってしまった。レイシーがモンクから受け取ったものは永遠の謎になったのだ。

 さて、一週間ほど前、LAのT氏から一枚の画像が送られて来た。
 画像タイトルは《Thelonious Monk's advice to saxophnist Steve Lacy 1960》
 え? モンクがレイシーにアドヴァイス? 1960? 彼がモンクのバンドに入った年ではないか。ことによると、これがレイシーの音楽に絶大な影響を?? これはタイヘン! 早く読まねば……
 画像にはスパイラル状の針金で綴じる形の横長ノート2ページ分が映っている。ペン字ですべて大文字。アメリカ人の一般的な手癖の書き方である。で、はじめのページの中央上部にT. MONK'S ADVICE(1960)とある。
 これを見て、瞬間的に私は「モンクの自筆ではなく、誰かが心覚えのために控えておいたノートなのではないか」と思った。そして、それは読み進むうちにほとんど確信に近くなった。
 なぜなら、もしモンクがレイシーに書いて渡すのにわざわざモンクのアドヴァイス(1960)などと仰々しくタイトルをつけるだろうか。それに、「1960」と年だけというのは不自然だ。普通は月日を書く。
 そして内容。全く取りとめのない順序だし、どう考えてもかなり長い期間にモンクが言ったことを書き留めたとするほうが腑に落ちる。
 だとすると、これを書いたのはスティーヴ・レイシー本人である可能性が浮上するぞ。いやしかしあるいは、レイシーが「モンクはこんなことを言っていたなぁ」とインタビュアーに語った、そのメモという可能性もある。
 真相はT氏もご存知なく、今の所は不明である。
 それはそれとして、読み取れるアドヴァイスは全部で24項目。明快な音楽上の助言、禅問答みたいなもの、駄洒落風、いろいろある。いくつか訳してみよう。括弧内は私の補足である。

  • 単にドラマーではないからというだけで、君がテンポをキープしなくても良いことにはならない(テンポをドラマー任せにするな)。
  • プレイするときは(テンポに合わせて)しっかり足を踏み、頭の中でメロディーを歌え(そしてアドリブせよ)。
  • すべてのナンセンスかつ怪しい音を吹くな。メロディーを吹け!(ここでのメロディーは前項のもの──原曲の旋律──とは違うだろう。歌心のあるアドリブ、を指すのでは?)
  • 大切なのは識別力。
  • 探求することについての探求をせよ。こつこつと骨(コツ)になるまで!(禅問答その1)
  • 常に夜陰でなくてはならない。さもないと彼ら(聴き手)は光を必要としないだろう(光って何だ? 禅問答その2)。
  • ピアノパートを吹くな。俺がそれを弾いているのだ。俺を聴くな。俺は君の伴奏をしているのだ。
  • すべてを(あるいは絶え間なく)吹くな。何かが過ぎて行くままにせよ。音をイメージするだけにせよ。吹かなかったことは、吹いたことより重要かも知れぬ。
  • いつも、もっと聴きたいと思わせ続けよ。
  • 一音は針の先ほど小さくも、世界ほど大きくもなり得る。君のイマジネーション次第だ(禅問答その3)。
  • 体調を整えておけ! 暇なミュージシャンは、いざ仕事が来た、となっても体調が悪かったら仕事を逃す。
  • 今夜何を着るかって? できる限りスマートに、恰好つけて!
  • 「お仕事」みたいな演奏をするな。ひたすら音楽の現場に身を置くのだ。
  • 天才とは、最大限に自分そのものでいられる者のことだ。

 ……う〜ん、最初の3項は初級ジャズ講座のようだが、なかなか鋭い言葉もあるなぁ。吹かなかったことのほうが重要などというのは武満徹(沈黙と量り合える音)、谷崎潤一郎(陰影礼賛)の世界に通じるし、もっと聴きたいと思わせ続けよ、なんてのはどうしても音数が多くなりがちな我が身には痛い。
 禅問答3などはまさに落語の蒟蒻問答だ。
 果たしてこの中に若き日のレイシーに衝撃を与えたものがあるのだろうか?
 ノートはきっとまだ続きがどこかに存在するに違いない。
 T氏によれば、高名なアルトサキソフォン奏者A.W氏は画像をプリントアウトして壁に貼ると言っているそうだ。モンクの直筆でなくてもご利益あるのかな?

(※註)例外はある。レイシーは富樫雅彦を高く評価しており、日本に来る楽しみのひとつに富樫との共演があった。その時には富樫作品も取り上げていた。

2010年6月30日



 パクさんとの会話は、片言日本語+片言韓国語+変な英語で成り立っている。

 「センセイ、what トリンク want?」(せんせい、何飲む?)
 「そうだなぁ、マッコルリ please」
 「マッコルリ ベ〜リベリ センセイ like」(せんせい、マッコルリ好きだねぇ)
 「very マシッソヨ」(すごく美味いよ)
 「Pit Inn エソ テクシー go?」(ピットインまでタクシーで行く?)
 「アニョ チハッチョル take more short time ね」(いや地下鉄のほうが早い)

 不思議とこの調子でもかなり細かい所まで通じるし、これまで行き違いが生じたことはない。ただしパクさんと会ったあとしばらくは英語の混乱が尾を引くことになるので困るけれど。

 メールではこんな具合の英語が来る。

 “i hope to small tour in japan somewhere.”(ちょっと日本のどこかを旅行したい)
 “as soon as more talk to Aug. story”(八月についての話をできるだけ早く)
 “but, i don't know who is good for help me. how shall i do? let me know sensei idea.”(しかし手伝ってもらうのに誰が良いかわからない。どうしよう。アイデアがあったら知らせて)

 さて、11月29日の朝、コンピューターを立ち上げたらパクさんから【Emergency please】 というメールが来ていた。

Hope you get this on time? Sorry I didn't inform you about my trip to Spain for a program, I am presently in Madrid and am having some difficulties here because i misplaced my wallet on my way to the hotel where my money and other valuable things were. presently my passport and my things are been held down by the hotel management pending when i make payment.

スペインへの旅を知らせてなくてすみません。今マドリッドにいて苦境に立っています。ホテルへ行く途中で財布を紛失し……(ありゃりゃ、パクさんスペインで困ったことになったのか。え〜と、where my money and other valuable things were……このwhereはホテルにかかるわけだから、金その他大事な物はホテルに置いていた?)で、金を払おうとしたら現在パスポートと荷物はホテル側に押えられている……(どうもよくわからん。ホテルに金を置いていたなら何で荷物を押えられてしまうんじゃい? 待てよ、パクさんもしかしてwhereじゃなくてin whichで金とか大事な物の入った財布、の意味か?)

I need you to help me with a loan of (2,600 Euro = $3,300) to pay my hotel bills and to get myself back home. I will appreciate whatever you can afford to assist me with, I will refund the money back to you as soon as i return, let me know if you can be of any help? ASAP. I don't have a phone where i can be reached. I am so confused right now. please let me know immediately.

ホテル代と帰国のために2,600ユーロを貸して下さい。帰国したらすぐに返します。いくらかでも助けて下さるなら知らせて。as soon as possible。通じる電話を持っていない。とても混乱しています。すぐに知らせて。

Your help is much appreciated.

あなたの助力に感謝します。

 こりゃぁ今流行りのオレオレ詐欺じゃないか? パクさんだからパクパク詐欺かい。
 パクさん本人が書いたものでないことは明らかだ。パクさんだったら、まずSensei, help meだろう。それにパクさんからこんな長い文章、しかも関係代名詞入りのが来たことはない。ASAPだのYour help is much appreciatedなんてパクさんにはもっともふさわしくないビジネスメール用語だ。
 しかもこれ、よく見ると一斉メールなのだ。from パク to パク。
 だが待てよ、ゲリラみたいなのに拉致されて他人が書いているという可能性も無くはない。
 で、パクさんと奥さんに確認メールを出した。
 直後にS氏から電話。「パクさんがねぇ」「詐欺メールでしょう? あんな文体じゃすぐバレますよね」「そうそう、でも心配だから一応メールしたよ。Unusual styleだから信用しないって書いてやった」「パクさん英語が自動的にパスワードってわけですね」「最高の防犯策だよ」

 そしてパクさん本人登場。
 「もしも〜し、はろ〜、せんせい」「パクさん、are you OK?」「オッケー、だいじょぶ、ケンチャナヨ。アイム ベ〜リビジ〜せんせい、ピコーズ メ〜ニメニ テレポン はぶ オールワールド フレンド しんぱい」(世界中の友達が心配して電話をかけてくるのでとても忙しい)

 後刻、パクさんからワールド・フレンドへの一斉メール。

Dear everybody.
i'm sorry about send to fake letter.
somebody hacking to my mail ID & Password.

now i'm Seoul.

2011年12月1日



 苦難の2011年も残りわずか。
 来年が良い年になるように、ちょっぴり笑い納めと行きましょう。
 LA在住T氏から送られてきたのを訳してみました。
 発言の信憑性については保証しません。

結婚して良い妻だったら男は幸せになり、悪い妻だったら男は……哲学者になる。
Socrates

私が妻に単語をいくつか言う。妻は私に数段の文章を言う。
Bill Clinton / 第42代アメリカ合衆国大統領

私たちが長く結婚していられる秘訣:週二回レストランへ行くのだ。キャンドルの光、ディナー、静かな音楽、ダンス。妻は火曜日に、私は金曜日に。
George Bush / 第43代アメリカ合衆国大統領

良い妻とは、いつも夫を許すものだ。彼女が悪い場合に。
Barak Obama / 第44代アメリカ合衆国大統領

結婚とは男と女が一枚のコインの表と裏になることだ。
彼らは決して顔を合わせることなく、しかも一緒にいる。
Al Gore / 第45代アメリカ合衆国副大統領

テロ? 全然怖くないね。私は二年間結婚していたから。
Rudy Giuliani / 元NY市長

ある男が求人広告を出した。“妻求む”
翌日数百通の手紙。すべて同文。“私のをあげます”
Brad Pitt / 映画俳優

私が答えられない一番困難な質問:彼女は今何を欲しているのか。
George Cloony / 映画俳優

妻と私は20年間幸せだった。そして私たちは出会った。
Alec Baldwin / 映画俳優

妻を盗んだ男への最高の復讐:そいつに妻をずっと預けておくこと。
Lee Majors / 映画俳優

女とは男にすばらしい希望を与えてくれるものだ。そしていざそれを実現しようとすると徹底的に妨害するものだ。
Mike Tyson / 元ヘヴィー級チャンピオン

オンライン銀行よりはるかに速い資産の移動法:結婚。
Michael Jordan / バスケットボール選手

安泰な結婚を続ける二つの秘策:
 1)君が悪かったらただちに認めること。
 2)正しかったら沈黙していること。
Shaquille O’neil / バスケットボール選手

妻の誕生日を覚える一番効果的な方法:一度忘れること。
Kobe Bryant / バスケットボール選手

結婚とは:敵と一緒に眠るベッドにおける唯一の戦争。
Tommy Lee / ロックミュージシャン

私は結婚運が悪くてね、最初の妻は去って行った。二番目の妻は去ろうともしなかった。三番目の妻は何人も子供を産んでくれた。
Donald Trump / アメリカ不動産王

妻「あなた、レディーファーストをお忘れ?」
亭主「それが世界混乱の原因なのだ。女が先頭に立つから」
David Letterman / テレビ司会者

一番目の男(誇らしげに)「ぼくの妻は天使だ!」
二番目の男「君はなんてラッキーなんだ。ぼくの妻はまだ生きてる」
Jimmy Kimmel / テレビ司会者

まず婚約指輪、そして結婚指輪、すぐに鉄球つきの忍耐足輪。
Jay Leno / テレビ司会者

2011年12月26日



 「○○本」と呼ばれるジャズ曲集がいろいろ出版されているが、時々とんでもない記載があったりする。二冊の本を持って来てどちらが正しいか判定してくれ、などと言われたり、なんでこんなことが起きるのだと訊かれる。同じことを何度も話すのは面倒なのである曲の場合を例にとって解説してみた。

  • 原曲

 スタンダード・チューンを演奏したり歌ったりするときに、原曲はどうであったか、を知ることは大切である。なぜならば、「曲」は作曲者/作詞者の作品(創作物)であり、本来ならそれを再現することが演奏者(歌唱者)の使命だからだ。クラシックにおいては作品が楽譜という形で遺されており、まずそれを入手することが演奏(再現)の第一歩になっている。

 ジャズの場合は状況が異なる。ジャズがNew OrleansからNew Yorkに広がった19世紀末、曲を印刷して〈sheet music〉を売る出版業が出現する。出版社が多く店を出し、宣伝のためにショウルームでピアニストが競って新曲を弾いて賑やかだったことから“Tin Pan Alley”と呼ばれた28丁目(Broadwayと6番街の間)の最盛期が1885年から1930年あたり。そして著作権法の成立は1886年のベルヌ条約。つまり、それ以前の初期のジャズに関しては楽譜の扱いはかなりルーズであったと言えるだろう。また、ジャズはimprovisation(即興演奏)に比重を置く形式であるため、原メロディー、原ハーモニーを変形することを当然視する傾向にある。したがって、誰かの演奏や歌唱がヒットしたというような場合、追随者はそれを原典と心得て真似ることとなる。

 スタンダード・チューンの多くを占めるブロードウエイ・ショウあるいは映画由来の曲は、作曲者/作詞者の全集『誰々のソングブック』でかなり正確な姿を知ることができる。「かなり正確」とは、ほとんどが旋律(+歌詞)とピアノ伴奏譜(+コード)の形に書き直されているからで、完璧を求めるならば録音時のオーケストラ・スコアを参照しなくてはならないだろう。書き直しを作曲者本人が行うことはあまりなく、出版の段階で他人の手が入る。したがってその人物の主観が反映されるのは避けられない。

 では、一曲ずつ独立したポピュラー・ソングはどうか。楽譜は二つ折りのsong folio(表紙と裏表紙が色刷りの絵で内側2ページに歌とピアノ譜)で売られる。戦後の日本では駐留米軍キャンプのPX(post exchange=酒保、売店)で入手した米兵が基地の日本人バンドに渡して演奏させ、それが国内に広まる、という経路もあった。ソングフォリオはレコード会社から音盤発売と同時に出版されるもので、旋律(+歌詞)についてはほぼ信用できるが、伴奏譜部分はソングブックと同じ状態であるといえよう。

  • Fake Book

 ソングブックやソングフォリオを無許可で集めたものがフェイクブックである。フェイクブックは一冊に多くの曲を収容するために伴奏譜を省き、コードネームを付けてある。実はこのコードネームが曲者で、ピアノ譜の経過的な音運び、装飾楽句などに惑わされた解釈不能なものが混入していたりするのだ。

 日本では1950年代には『1001 Songs』(俗に「千一」)が出回っていた。アメリカ発でもっとも知られているのは『Real Book』だろうか。その他に『Jazz LTD』、『Swingin' Songs』、『Colorado Book』、等々。初期のフェイクブックは手書きで、そこには当然写し間違いの危険が潜んでいる。また、後にそれらが印刷譜の体裁になったとしても、危険度に変わりはない。

  • 器楽曲

 ジャズメンのインストゥルメンタル、器楽曲は成立過程を考えてみても最初に作曲者の楽譜が存在したであろうと思われる場合はむしろ少数派ではあるまいか。ほとんどはモティーフのみがあり、それを演奏しつつ手を加えて(あるいは演奏=レコーディングの現場で瞬時にして)完成形に仕上げる、というのが常道であった。

 これはsong(歌もの)を演奏するときでも同様で、メロディーは大体こんなものだったかな、そうそう、コードは? リズムは? とメンバーのディスカッションを経て、じゃ本番行ってみるか、になるのがBebop時代のジャズ・レコーディングの姿だ。従って、ジャズメンの器楽曲(および器楽演奏された歌曲)に関しては、楽譜ではなく初出の録音物を「原曲」と考えるべきであろう。

  • Candy

 二枚の楽譜がある。両方ともCandyの中間部(サビ)である。つまり「飴の錆」。

 Jazz Fake版をJ、スタンダードジャズ版をS、としよう。音のタイミングを無視してメロディーの輪郭(melodic shape)を比べてみると、三音連続の下降→狭い跳躍、オクターブ・リープダウン、三音の連続上行、とほぼ同形である。

 このように、同形の旋律を異なる度(高さ)で繰り返すことを旋律的反復進行(melodic sequence)と云い、クラシック、ポップスを問わずしばしば用いられる作曲手法である。

 さて、両者の違いはJの歌詞“I”と“so”にあたる音がSには存在しないのと、最後の小節の音がJはD−E−F、SはD−Eb−Eである点だ。この違いを軽く見てはいけない。次の場合どんな問題が生じるか。

  1. 歌詞だけを入手し、Sのメロディーに当てはめようとしたら?
  2. 歌い手がJ、バンドがSで演奏したら?

 1. は歌詞が余ってしまう。
 2. は4小節目でバンドがC7を鳴らしているところで歌が堂々とF音を延ばす。ピアニストは「歌手の音程が悪い」と云い、歌手は「バンドが間違った」と思うだろう。

 この4小節目の違いについてはさらに厄介な問題がある。それは、ほとんどのミュージシャンがここを「厳密な」メロディック・シークエンス、つまり2小節目と同形の半音三つの上昇、と思っていることだ。
 実際、作曲の常道からすればそのほうがシンメトリック、換言すれば美しいし、コードとの関係(ただしSに書かれているものではなく)も洒落ている(このことはあとで述べる)。ミュージシャンとしてはメロディーに限りSの肩を持ちたくなるところだ。
 しかし、まず原曲を知ってから自分のスタイルを作って行く、というジャズの勉強法の常道をおろそかにしないためにも、JSどちらが正しいかを明らかにしなくてはなるまい。フェイク・ブックしか入手できないならば、次の手段としては信頼できる歌い手がどう歌っているか、を複数検証することだ。
 結果は、Nat King Cole、Ella Fitzgerald、Manhattan Transfer がJのように歌っていた。
 そしてSに関してはLee Morgan の演奏がこれとほとんど一致した。

  • コードの問題

 ジャズの二大定型はbluesとrhythm changesである。hythm changesは日本語で「循環」と呼ばれているが、rhythmはGeorge Gershwinのヒット曲I Got Rhythm、changesはコード進行を意味する。
 I Got Rhythmの中間部(サビ)は8小節、コードは二小節ずつIII7→VI7→II7→V7と進行する。定型とされるだけあって、このサビ部分のコード進行は当時のポピュラー・ソングによく登場する。実はCandyのサビも基本的にこれなのである。CandyのkeyはB♭だから、サビは D7→G7→C7→F7となる。すると、譜例の1−2小節がD7、3−4小節がG7で良いことになる。

 Jは1小節目と3小節目に一拍ずつm7コードを3個つけている。これは半音下降するメロディーに合わせて平行ハーモニーを置いた、いわば装飾であり、もし歌手がメロディーを少しタイミングをずらして歌ったりすれば(よくあることだ)、たちまちバックと合わなくなるたぐいのもの、つまり構造的なコード進行を考える場合には無視して構わない。考慮の対象となるのは平行ハーモニーの三つ目、すなわち1小節目のAm7、3小節目のDm7である。

 Jを整理した形は:

 少し専門的な話。
 Am7の小節にC♯があるが、ここではDからCへの経過音(passing note)としての働きをしているので、コードとのかかわりから離れた音という位置づけだ。Dm7の小節のB♭も同じ(ただし厳密な解釈だと、BもDm7には不適合とされる。もしBを適合させるコードをつけるならG7/Dという形にすべきだが、ここでは簡略化しておく)。

 話を戻そう。
 なぜD7二小節がAm7とD7になり、G7二小節がDm7とG7になるのか。

 Am7とD7、Dm7とG7は俗にtwo-fiveと呼ばれる関係にある。Dm7とG7について見てみると、長音階ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音を使って和音を作ったとき、Dm7は二番目のレから作る和音レ・ファ・ラ・ドである(これをIIの和音という)。G7は五番目のソから作る和音ソ・シ・レ・ファである(これをVの和音という)。これを続けて鳴らし、次に一番目のドからできる和音ド・ミ・ソ・(シ)(これをIの和音という)が聞こえると、いかにも「行き着いた」感じがするはずだ。音楽用語ではこれを終止(cadence)という。
 つまり、II−Vは終止を作るのに大切な組み合わせなのである。

 さて、譜例でCandyのキーはB♭で表示されている。B♭のキーでできているということは、BとEは常にフラットがつく。だからいちいち臨時記号をつける手間を省くために段のはじめにフラットをふたつ表示するのがしきたりだ。
 しかし譜例を見るとBにもEにもナチュラルがついている。これはなぜだろう。これはこの部分が転調している、別音階であることをあらわしているのだ。で、セブンスコードがついている。セブンスコードは音階のVで、Iがその場所のキーということになる。すなわち、D7の範囲がkey=G、G7の範囲が key=Cなのである。

 ところでAm7−D7ならGがあって終止が完成するのに、なぜ途中で放り出すのか。実はそれこそが狙い目なのである。B♭からGに転調して「あ、雰囲気が変わった」と感じた瞬間に次のキーに移る、「また変わった」と感じた瞬間にさらに転調。このようにして停滞せず、次々に聴く者を引きつけてゆき、ふたたび元のキーに戻る。
 これが〈終止をしない連続two-five〉の効用なのだ。

 次にSのコードを見てみよう。
 4小節目がC7になっているのは何故か。恐らくメロディック・シークエンスに幻惑されたのだろうと推測される。原因は2小節目である。メロディーがF♯で終わりコードがD7、3゜の音だ。
 従って4小節目も同じ関係になるべきだとして、メロディーがE、コードC7で良しとしたのではあるまいか。しかし、上に述べたようにキーの変遷を考えるなら、ここでC7すなわちFに転調するのは早過ぎる。むしろG7のままで、

メロディーが5゜→♭13゜→13゜

としたほうが洒落たサウンドになるだろう。

  • Lee Morganは確信犯か

 さてSはLee Morganの演奏を採譜したフェイクブックだが、Lee Morganは果たして原曲を知っていて、敢えて厳格なシークエンスにしたのだろうか。あるいは演奏者としての本能的な選択だったか。
 原曲のこの部分(譜例4小節目)は前にも述べたように楽器奏者の感覚からすれば多少違和感がある。Lee Morganが原曲を知っていれば「俺のほうがcoolだぜ、hipだぜ、yeah!」と言うだろうし、誰かが「そこ、違ってるよ」と指摘したら、「え? で、あんたは俺のサウンドどう思うんだ? なに? sounds goodだ? なら良いじゃん。かっこ良けりゃno problem、それがズージャってもんだ」
 真相はどうだったか。永遠の謎である。

 それはともかく、Sがもう少し良心的なフェイクブックであるためには、次のように書かれていなくてはなるまい。

  • 結論

 フェイクブックを妄信してはいけない。疑ってかかるべし。
 一人の奏者、一人の歌い手の演奏を原典にしてはいけない。

2014年1月7日



 知り合いからメールが来た。
 「君死んでるよ。1988年3月23日に。嘘じゃないよ、グーグルで検索してごらん」
 なるほど、佐藤允彦と入力したら、自分の写真とともに【佐藤雅彦はジャズピアニスト……】などとあって、没年まで書いてある。それなのに下の方の作品一覧のような所には2013年なんてのもあったりして……なんじゃこりゃ!
 允彦を〈充彦〉と書かれるのはしばしばでほとんど慣れっこだが、これほど大きく〈雅彦〉になっていて、しかも検索項目が〈允彦〉なのはどういうことなのだ? 一目瞭然の誤変換。
 グーグルには校正にかかわる機能が備わっていないのだろうか。ここまで良い加減なページがあるとグーグルのすべてを疑ってかからねばならなくなる。
 それにしてもこいつぁ笑うしかないな。
 生前葬をやると長生きする、というから早速手配するか。「次のアルバムは『御会葬御礼』を企画中」、なんてこの二年ほど冗談で言っていたけれど、真剣に考えることにしよう。いや、1988年没だと今年なら28回忌の「つもり葬」のほうがウケるかな。香典は「つもり典」で封筒だけとか。

 さて、一体1988年3月23日という命日はどこから出たものか。
 以前レコード会社から身に覚えの無い原稿料が振り込まれてきたことがあって、経理に問い合わせたら同姓同名の音楽学者がおいでになるということが判明した。その方は高名なショパン研究家でぼくより9歳ほど年上だったはずだ。「佐藤さんショパンにも詳しいんですね」と言われるたびに面倒な説明をしたことが何回もあるから、あちらの允彦氏も「ジャズ弾くんですか」で度々不愉快な思いをされていたはずである。
 お会いする機会があったらお詫びせねば、と思っていたのだが先年お亡くなりになってしまった。
 ことによるとそのかたの没年と混同した可能性あり、と調べてみることに。検索はむろんグーグルではない。ヤフーだ。
 《日本ショパン協会》というサイトが見つかる。2003年3月21日佐藤允彦理事死去という記述あり。3月だけは合ってるが?? 謎は深まるばかり。

 オレシンデルヨ、とあちこちに知らせたら、「富樫雅彦と混同したのかな」という返信があった。
 富樫さんは1940年3月22日生まれ、2007年8月22日没である。3月は生まれ月。で、これも全く当らず。
 佐藤雅彦氏と混同? おいおいふざけるのも程々にしてくれ。あちらは1954年3月28日生まれ、大活躍中のメディア・クリエーターにてあらせらるる、皆の者頭が高い、控えおろう〜っ。

 という次第で、問題のページは「何かの間違い」にも相当せず、となると誰かが意図的に投稿した、くらいしか考えられない。
 これはいたずらか? 悪意か?
 とにかくグーグルには即刻削除を申し入れるつもりだが、こういうことは手続きに時間がかかるだろう。情報なるものが正誤にかかわらずキーワードで瞬時につながってしまうことを考えると、アイツはシンデルと信じてしまう人が、その間、何人になるか。

 ご安心下さい。アタクシは元気にイキテおりますよ〜。

2016年2月15日