97年11月発行・ダイレクトメール記載文章 目次
冬の訪れる足音と共に、夜が一番長い季節となってきました。あわただしく過ぎる日々、見えないストレスにさらされて疲れた心身。そんなときには部屋の明かりを落とし、ゆったりと音楽に包まれた、ちょっと贅沢な時間の過ごしかたはいかがでしょうか? 最近、「ヒーリング・ミュージック=癒しの音楽」・「アンビエント・ミュージック=環境音楽」という言葉をお耳になさるかと思います。これらは、都会人特有の心身症ともいえる「ストレス」を音楽によって積極的に発散したり、癒したりすることを目的に作られた音楽を示すのですが、こういった言葉の誕生を待つまでもなく、古来から音楽は人の心を動かす力=感動を呼び覚ます力を持つことが広く知られ、祭典などには欠かせない存在となっています。 このように不思議な力を持つ音楽ですが、今世紀後半に入るまでは、誰でもがいつでも気軽に聴ける存在ではありませんでした。しかし、「録音と再生技術」が発明され飛躍的な進歩を遂げたことで、私達はいつでも「ステレオのスイッチ」を入れるだけで音楽を聴くことができるようになり、更にポータブル・ステレオ再生装置=ウォークマンの発明は「音楽を持ち歩く」ことすら可能にしました。そして、誰もが簡単に音楽を楽しめる時代がやって来たのです。 前回のダイレクトメールでは、まず「オーディオマニアの定義」について私なりの考えを述べました。それはオーディオマニアを大別すると「機械マニア」と「音楽マニア」に分かれるということです。もう一つのテーマとして「音と感動の関係」について述べました。こちらは、ステレオの再生音を変化させる目的と結果についての簡単な考察でした。結論として「元の演奏の楽音を変化させない(色づけしない)ことが音楽をより深く聴き、味わうために「絶対必要」なことであると締めくくりました。 今回のダイレクトメールでは、「いったい音がどのように変化したときに、感動がどのように変化するのか?」を考えてみたいと思います。まず、前回のおさらいも含め「音楽そのものの定義」から考えてみたいと思います。 私達の五感は、目の前に存在するものを認知し知覚することができますが、それ以外にも過去に訪れた街や行ったこともない場所の風景というような、「実際にそこにはない=目には見えないもの」も「脳の中にイメージ=想像」として形作り認知することができます。 たとえば、ある出来事を実際に体験しなくてもその体験を通じて得られるイメージを受け取ることができれば、実際にその出来事を体験するのに似た、「仮想現実」を体験できるのです。このように、日常私達の行っている「コミュニケーション」とは「脳のイメージ情報」の共有・伝達とみなすことができると思います。前回のダイレクトメールにも書いたのですが、人間のとる「イメージ情報」の伝達法は、大きくふた通りに分けられるのではないかと考えています。「言語」と「芸術」によるものです。 私たちは言葉を話しますが、「言語」はある意味で、デジタル伝送であると考えています。情報を正確に伝達することはできますが、曖昧な情報を曖昧なまま伝えることには向いていないからです。なぜなら、我々が物事を考えるときは「日本語」で考えますが、アメリカ人なら当然「英語」で考えます。そうすれば「伝わるイメージ」は「ボキャブラリー=言語の表現力」によって「規制」されてしまったり、「伝達結果が大きく左右」されてしまうはずです。それは、「言語」という「表現方法の限界」であると考えられます。 では、曖昧なイメージを効率よく伝える方法とは?「芸術」こそ人間が発明した、曖昧なイメージの効率の良い伝達法ではないかと思うのです。「芸術」とは「イメージ情報=感動」を「異なる形」のイメージに置き換えて曖昧なまま伝える方法をとることで、「言葉」に比べより短時間に多くの「曖昧な情報=感動」のイメージを伝えることが出来ます。「芸術=音楽」による情報伝達は、言語とは全く異なるそういった特質を持つために「言語や人種による表現の壁」を越えて「感動=心象」を伝達することを可能としたのだと思います。 芸術による「イメージの伝達」の成立の条件について、考えてみたいと思います。情報を受け取る側にどのような準備が必要になるでしょうか? 最も重要なのは、当たり前ですが「イメージする力=豊かな、創造力/想像力」を持つことではないかと思います。もちろん、人間には「イメージする能力=夢を見る力」が生まれながらに備わっているのですから、極論を述べれば、芸術鑑賞や音楽を聴く時には学問や専門的な知識は全く不必要だとも言えるでしょうし、学問や専門知識に頼って芸術を理解しようとすればするほど、「先入観によって発想=イメージが固定」されたり「貧困」になってしまい、結果として「より重要な多くの情報=素直な感動」を受け取れなくなる恐れすらあるのではないかと考えることができます。 私たちの世界は、実に多くの見落とされがちな感動で満ちあふれているのではないでしょうか?先入観や既成概念・固定概念にとらわれることなく、素直な気持ちで物事を受け入れることのできる子供たちは、大人が気づかない小さな感動をもたちどころに見つけ、石ころすらダイヤに変えてしまうでしょう。 「美しいものを素直に美しい」と感じる気持ち。星と星を見えない糸で結び、星座に夢を託した先人たち。「愛や情熱、夢とロマンを信じる心」。そういった最も基本的で、奥深い感動のイメージを創り出す力を、決して忘れないことこそ、「芸術による曖昧なイメージの伝達=音楽を聴くため」に最も重要なことなのではないでしょうか? 一口に「芸術」といっても、多くの種類の芸術があります。その中で、音楽が他の芸術と大きく異なるのは、「コピー(複製)」を簡単に作ることができることに加え、コピー自体に「オリジナルと同等の価値」が認められていることではないでしょうか? つまり、音楽は「コピー」を許す芸術であるため「他の芸術にはない大きな広がり」(時間・空間・地域的な広がりと解釈的な広がり)を持てたのです。 では音楽が他の芸術にない「コピー=大きな広がり」を会得できた理由や、その過程でいったい何がその役割を果たしたのでしょう。そこには、ふたつの重要な事柄が挙げられるのではないかと思います。 はじめに、「正確な記譜法の発明(五線譜と平均律の確定)」があると思います。五線譜や平均律といった「普遍性を持つ音楽の記述法と、正確に定められた音階」は、「ある一定のルールを理解」することで、誰にでも「その音楽を演奏する機会」を与えました。しかし、五線譜による音楽の記述が音楽に与えた影響はそれだけではありません。この方法は「音楽の伝達精度」にも大きく影響を及ぼしたはずです。 世界的に普及した音楽の中で、「バッハ」を例に挙げ考えてみましょう。もし「バッハ」が簡単な記譜法しか持たない民族音楽や、純邦楽などと同じと仮定すれば、記述のみで音楽(演奏)を伝えることは難しく、音楽(演奏)はバッハ(師)から弟子達へと直接伝達することが最も合理的であったはずです。「バッハ」を演奏したければ、「バッハ」の下で「バッハ=音楽」を学ばねばならなかったでしょう。このような密接な師弟関係の下で音楽が伝達されれば、内包する思想も含め高い精度で音楽を受け渡すことが可能であったはずです。 しかし現実はどうでしょうか? 私達が「バッハ」を演奏したいと思えば、「バッハの楽譜」を入手すれば事は足りるのです。そして、その演奏すら「バッハ」であると私達は認識しています。 このように五線譜による記譜法は、「音楽を簡単に伝達」する部分では大きな役割を果たしたであろうことは間違いないでしょう。しかし、同時に多くの場所で行われている演奏が「真にバッハ的であるかどうか?」という部分には大きな問題を残してしまったのではないでしょうか? 楽譜には、「バッハの思想」・「バッハの解釈」まで明確に書き残されてはいません。五線譜の発明は、多くの人に「バッハを伝えた」と同時に、「バッハとは何であるか」という解釈の大部分を「演奏家の手」にゆだねてしまったようです。音楽用語的に「楽譜の解釈」と言い換えれば、それはすなわち「楽譜に遺されたバッハの意思」、「バッハがなぜそのような順序、短長、強弱で楽譜に音符を置いたか、その必然性をどのように理解して(あるいは理解せず)演奏するかどうか?」という判断を「音楽家=演奏家」の手にゆだねてしまった、ということになります。 これを「バッハの解釈の広がり」と考えることもできれば、「バッハの伝達精度の低下である」と全く正反対の意味に受け取ることも出来ると思います。 ステレオの功罪(注:ステレオとは現在の録音再生機を示します) 音楽が広まることができたもう一つの理由は、前述した「ステレオ」の発明です。 「ステレオ」の発明により音楽は、「好きなときに好きな場所で聴くこと」ができるようになったのです。それまでのように「演奏会」に出向かなければ、「音楽を聴けない」ということはもうなくなりました。考えるまでもなくそれまでの音楽鑑賞様式に比べ、これは非常に革新的な出来事です。しかし、「ステレオ」は便利であると同時に、「音楽=演奏」そのものを「演奏者の手」から、更に「聴衆の手」へとゆだねることになってしまったのです。 ではもう一度、「バッハ」を例として、五線譜からステレオの発明への過程を簡単に再考してみましょう。まず、「五線譜による記述」は、「バッハ=作曲家」から「演奏家」へ「バッハ=音楽の解釈」をゆだねることを許しました。そして、「ステレオによる音楽の再演」は、更に「演奏者」から「聴衆」へ「音楽の解釈」をゆだねることを許したのです。なぜなら、「ステレオから再生される音楽」の「解釈=再生音(演奏)の良否」は、「ステレオの持ち主」が下すからです。 このような、「解釈の変化」を「広がり=自由度」と見なすのか、あるいは「改変=破壊」と見なすのかは、「受け手」の考え方の自由であると思います。しかし、「ステレオ」で「バッハ」を聴く(演奏)時に「より深くバッハを理解しよう」と勉めるならば、「ただバッハをならすだけのステレオ」あるいは、「設計者個人の思いこみの域を出ない再生音でバッハをならすステレオ」よりも、「しっかりとした音楽感の上に立った再生音でバッハをならすステレオ」が必要とされ、もちろんそのほうが、はるかに「説得力のある再生音=演奏」を奏でることができるはずです。 そのためには、設計者(楽器職人)でありアドバイザー(音楽の講師)である私自身も、聴衆(演奏者)であるあなた方も、「今よりもっと深く音楽」というものを知る必要があるのではないかと感じます。今からでも、これからでも決して遅くはありません。「オーディオで音楽を再演奏する」ことを通じ「音楽への理解」をより深めてはみませんか? また、その道筋が「自分というひとつの感性への理解」・「人間という共通の感性への理解」を深めることに繋がれば、「高いお金を支払って、オーディオ三昧」をしたとしても、決して高い買い物にはならないはずだと思います。 芸術(音楽)には、感動の種類に対応した無限の広がりがありますが、はたして「音楽」には「順位」・「品位」をつけられるのでしょうか? また、「これが究極であろう」と多くの人が感じる演奏(音楽)があるのでしょうか? 私の今までの音楽との関わりの中で考えてみました。 まず、音楽から受け取れる大切なものは何であるかですが、それは「音楽が内包する感動の大きさ」ではないかと思うのです。なぜなら、人生の目的が「感動を得ること=感動すること」とすれば、「より大きな感動」をもたらしてくれるものこそが「より大きな価値」を持てるからです。いったい何が「大きな感動をもたらすのか?」それは、人によって違うはずです。人間の心の動きを「バイブレーション」に置き換えれば、「心を最も大きく動かした=共振させることができた音」が、その人にとって「最も感じる=最も価値ある装置(演奏)」という関係が成り立つでしょう。 しかし、「心の共振点=どのような喜怒哀楽に共感するのか?」は人により、あるいは同一人物でも「そのときの気分」で大きく揺らいでしまいます。このような価値判断では「感動の変化の度合い」で「装置の音質変化の度合い」は計れるでしょうが「いったいどの装置が最も元の演奏に近いのか?」は判別できそうにありません。 なぜなら、人間の「喜怒哀楽」の感情は個人差や民族差が大きく、「喜怒哀楽」に触れる音楽を再生したときには、「どの再生演奏=装置の音」を「最良とするか=最も感動的であるか?」の判定基準が音楽(演奏)の本質からではなく、どのような音楽を「今聴きたいか」という「リスナーの感性=単なる好み」に委ねてしまっても不思議ではないからです。しかし、もし人種や性別、年齢や経験に関わらず全ての人間に共通に通じる「普遍的な感動」と呼べるべきものが存在するなら、それらを表現した演奏はきっと「誰にでも公平に伝わる=誰にでも公平に判断できる」はずなのではないでしょうか? 「感動」の種類を「色」に置き換えて考えてみたいと思います。例えば、「赤」を想像して下さい。頭にイメージされる「赤」は「一人一人違う」はずで、どれ一つ「同じ赤」はないはずです。つまり、「音楽=楽音」によって「赤色(有色)の感動」を伝えようとしても、受け手によって「赤」の種類、濃さが「画一的」には伝わらず、「色の基準=感動の基準」は「受け手の感覚(個人差)」に大きく影響されてしまうでしょう。「同一の演奏」でも「伝わり方」が変わってしまうのです。 このような「有色の感動(音楽)」をテーマとした音楽は「ステレオの音質の判断基準」に用いることは出来ません。なぜなら、このような音楽は「ステレオによる音質変化」を受けたとしても「色の種類が変わる」だけであって、そこからは本質的な「絶対的価値判断」が下せないからです。 では、「無色」ならどうでしょう? 「無色」は「すべての人に共通(普遍的)して無色」なはずです。「色を感じないこと」がすなわち「無色」だからです。もしこのような「無色の感動(音楽)」が存在するなら、「個人差=個人的好み」排除して「音楽の聴き分け=装置の音の是非の判定」をするための判断基準にできるはずです。 「聴き分け方法」も非常に簡単です。「色が付いていないかどうか?」それだけを注意して聴けばよいのですから。 「無色(普遍的)な演奏」などというものが、この世に存在するのでしょうか? 一枚のCDを推薦したいと思います。『ヴィルヘルム・バックハウス/最後の演奏会』と題されたCDです。(LONDONレーベル・輸入元ポリドール・POCL−2659/60:ただしこれは古い盤で、最近2枚組・¥2,000の廉価盤として再発売されました) これは、文字通り名ピアニスト「バックハウス」の最後の演奏会となったわけなのですが、2枚組の最初は1969年6月26日の演奏会、2枚目は1969年6月28日の演奏会の実況録音盤です。このCDを最初から聴いて行くと、2枚目の最後の1曲「シューベルト:即興曲 変イ長調」だけが、それまでの全ての演奏とは違うことが聴き取れるはずです。このとき、「バックハウスは心臓発作を起こし、苦しみながら休み休みピアノを弾いたはずでした」。解説を読み、CDに入っている、「バックハウス自身の言葉とアナウンス」からもそれは間違いありません。なのに、この演奏は「それまでのどの演奏よりも生き生きとし」聴く者の心を和ませるのです。 試しに、「クラッシックなど聴いたことのない友人」に何の前触れもなくこの演奏を聴かせ、感想を求めたところ、「このピアニストはきっと、とても優しい気持ちでこの曲を弾いていて、豊かな心に抱きしめられている気がする」と言ってくれました。そこで、友人に私の私感を次のように話しました。「きっとこのとき、バックハウスは自分の生命のつきるのを感じ、同時に人間として最も尊厳ある、大切な価値に気がついたんだ。そして、残りの力、自分の人生のすべての存在意義を込めてピアノを弾いたんだと思う」と、友人はとても納得して、「そういえば、おじいさんの暖かな手で抱きしめられ、生きている喜びや生きることの意義について諭されているように聞こえた」と言いました。つづけて「また、何かつらいことがあったときにはこの曲を聴いて元気を出したい」と言ってくれました。 また、クラシックを私より遙かに昔から聴き続けている友人にこのCDを紹介し、「彼の装置で聴いたこの演奏」について感想を求めたところ、「これは、バックハウスの体を借りた神様の演奏のようだ」と表現してくれました。もちろん、ここでいう「神」とは「キリスト」に代表されるような崇拝すべき存在ではなく、「大いなる自然の意志」とでも表現すべき種類の感動です。 もう一つの例は、歴史が認める最高のピアニストの一人である「ディニュ・リパッティー」の臨終の間際の言葉です。妻の言った「私も練習すればあなたのようにピアノを弾けるようになりますかしら」と言う問いかけに、彼は静かに答えたそうです。「君が、ピアノを演奏するということは、君は、神が選びたもうた楽器になるということなんだよ」と。この二人の、歴史的大音楽家の演奏の意味するところは、同じではないかと思います。 星空や自然の壮大な風景、生命の持つ輝きに触れたとき、私達は「言葉にできない大きな感動」に包まれはしないでしょうか? 生まれたときから、人間の心の中に存在する「自然な感動」・「シンプルでありながら、とても大きく静かで深い感動」そういった種類の感動こそ「無色(普遍的)で、最も大切な価値観」ではないだろうかと思うのです。また、そのような自然体の演奏を、目指すべき最高の演奏であると考えた演奏家・指揮者たちは、「カザルス」「ワルター・ギーゼキング」「セルジュ・チェリビダッケ」「ホルショフスキー」「アンドレ・セコビア」「エディットピヒト・アクセンフェルト」「デビット・マンロウ」「デニス・ブレイン」まだまだ沢山の演奏家がいるはずです。 彼らの奏でる音楽、つまり楽音(楽器の音)には明確な共通点があります。それは、軽く弾いているように見えるのに(実際に無駄な力は入れていないようです)、楽器の音が大きく聞こえることです。それと、音が遠くまで届くことです(減衰しにくい音が出ます)。彼らは、エネルギー(力)を音に変換する効率が最も良いところを使っているのだろうと思います。 またそれは、楽器を弾くときに無駄な力が入ると「楽音」に力みが加わり、当然聴衆の心の動き(感動)にも無駄な力が入り「自然(無色)」と共にいるような心持ちにはなれないからでしょう。このようになされた「演奏」をステレオの再生音の「良否判断」に用いれば、「絶対的な良否判断」の指標とできるはずです。それは、楽器から「最も無駄な音が出ていないように聞こえる再生音」が「正しい」と判断できるからです。 これらの演奏が「私の考える無色(普遍的)な感動を伴う演奏」であり、これらの演奏を聴くことで、「装置による着色」は、ほぼすべて判定できると考えています。ステレオも良い音がすると、同じボリュームでも音が大きく聞こえたり、音が遠くまで通るようになりますが、それは、ステレオの「歪み=音楽として無駄(無効)な音」が減少したことで、「有効な音がマスキングされなくなった=音が良く通るようになった」からではないでしょうか? もしその時、「無駄な音を出さない楽音により構成された音楽」を基準としていれば、「ステレオの再生音はより正しい音(無駄な音がなくなった)」に近づいたと判断できるでしょう。 自分の好みで音を判断してオーディオを選ぶ時に
再生音の感動の基準をあくまでも自分中心に考えれば、あなた自身がどう感じたかという事が最も重要なポイントになってしまいます。それでは、演奏家の存在意義が希薄にならないでしょうか? 自分が感動すればそれがよい音である。これはある意味では、真実を語っていると思うのですが、同時に自分という閉ざされた感性の中(自分の殻から出ることのないまま)で、音楽を主観的に捉えているに過ぎないという問題が生じる危険を内包していることになるのではないでしょうか? 例えば、一口に音楽を感じられる、心地よく聴くことができる、といっても「装置による音のどのような変化」がその心地よさや感動をもたらしているかを考えることが重要です。 なぜなら、音楽にはたくさんの共振チャンネルが開かれています。メロディーの美、リズムの美、音色の美、etc・・・数え上げればきりがないほどですが、再生時にはそれらのチャンネルが公平=フラットに開かれていることが、音楽を色づけなく再生するためには理想です。しかし、ほとんどのオーディオファンは特定のチャンネルだけを強調してしまう傾向が強く、また、それを各人の好みと混同しているようです。音楽をより深く感じようとすれば、こういった強調は逆効果になりかねません。 人間の感覚というのは、突出した部分に対し敏感です。何か違った部分に対して、敏感に集中するようにできているのです。つまり、再生時に特定のチャンネルを強調すれば、その部分にのみ「集中=気持ち」が魅きつけられ、そのほかの部分での音楽表現を見過ごすおそれがあります。これが高じれば、もはや音楽を聴いているのではなく、作り替えられた音、装置のエフェクトが付加された音楽を聞いているにしか過ぎなくなります。 「特定の機器で聞く特定の音楽は最高だ」とか「絶品だ」とかと言う人の自宅におじゃまして聞かせてもらいますと、そこにあるのはもはや「私の知る音楽」ではなく、その人によってアレンジされた別の音楽であるといったケースも、多々あるのです。 まあ、それはちょっと過激かつ特異なケースとしても、自分の好みを追究した結果そういったパラドクス(相反する真実)やラビリンス(迷宮)に陥り、結果として音楽を見失うことはありがちなことです。客観的に音楽を再生して聴く。これは、すごく大切なことだと思います。私自身は、過去に「そういう過ち=自作自演を楽しんでいた」を犯していた自分を知っており、だからこそ、「その過ちを繰り返して欲しくない=主観的になりすぎないで欲しい」と思っています。また、そのような客観的な「ステレオ=音楽の聴き方」を続ければ、そこから得られるさまざまな体験を通じて、「自分の感性=自分自身とはいったい何であるか」を知ることにつながって行くのではないかと思います。
例えば、クラシックに用いられる音楽表現とPOPSやフュージョンに用いられる音楽表現や、それぞれに使われる代表的な楽器、「アコースティック楽器と電子楽器」には明確な違いがあります。 音楽表現法においては、クラシック/JAZZ/ROCK/POPS/フュージョンなどの音楽を比べた場合、PP以下の非常に小さな音の階調の重要性が全く違います。クラシックコンサートでは、演奏会場の静けさが重視されることからもそれは分かります。それは、音楽表現にとって「小さな音が重要な役割を占める」からに他なりません。 アコースティック楽器と電子楽器は、楽器そのものの階調表現力(音色の変化幅)をとっても明らかに違うと思いますが、有音から無音にかけてのコントロールできる階調(音色)の幅がアコースティックな楽器と電子楽器では決定的に違います。電子楽器とは違って、人間が楽器の一部となるアコースティック楽器は奏者によって音(音色)が変わります。チェロやバイオリンなどは指が直接弦に触れるわけですから、演奏者の皮膚構造が当然音に反映されますし、ギター奏者ならもちろん爪の固さが直接楽音に反映されます。 銘器と呼ばれる楽器を名人が弾けば、楽器の種類に関わらず「音楽を聴いている」のか「楽器の音そのもの」に聞き惚れてしまっているのか、分からないほど魅力のある音が出ますが、このような「誰もが素晴らしい=普遍的によい」と感じられる「楽器の音」を分析すれば、「非常に整った倍音構造」を持つことが分るのです。 「倍音構造」について簡単に説明しましょう。弦楽器の音の源は「弦」ですが、ある長さの弦を振動させれば「その長さに応じた周波数」の音が出ます。仮にこの周波数を「100Hz」とした場合、この周波数を基準に楽器からはその整数倍の波長の音が発生しますが、これを「倍音」と呼び、「その倍音の並び方=構造」を「倍音構造」と呼ぶのです。 つまりこの場合は、「100」を基本に、「200/300/400/500/600・・・」 ところが「最初の「100」が決まらなければ、そのときに生じた誤差は、「周波数が高く=音が高くなればなるほど」文字通り「誤差が倍増され」てしまい、それでは「高音が濁り=不透明でもこもこした音」になってしまいます。 逆に、音楽自体が電子楽器の音の構造の簡略さを音楽表現に取り入れていたなら、いちいち細かな音を出さないシステムのほうが、より良く音楽を表現できる=電子楽器に向いている場合すらあるのです。反対の例としては、周波数特性の悪いシステム(フルレンジスピーカー等)を用いて音楽を聴く場合、アコースティックな音楽の再生(倍音構造=音色の表現)には優れても、ワイドレンジで周波数特性に段差がないシステムで再生することを前提として作られた電子楽器には、不向きであるということも考えられます。(デジタル以前の古いステレオの音質をご想像下さい) このように、再生時に使用する音源(音楽)と再生装置は、常に密接な関連を持っているため、聴く音楽の種類が違えば、装置の評価は逆転したり異なってしまうのです。つまり、「偏った種類の音楽=電子楽器」しか聴かなければ、「ステレオの再生音を客観的かつ総合的」に評価することなど、とうてい出来ないことをお分かりいただけると思います。 先ほど、「楽器の倍音構造と音階の関係」について簡単に述べましたが、我々が現在用いている音階「12平均律」に至るまでに、音階は20種類以上の変遷を経ています。それは、「数字で割り切れる倍音の音階」や実際の楽器が発生する「基音、倍音、それらの合成による差音」これらが全て整って聞こえることは物理的にあり得ないからです。 話をオーディオに戻しましょう。残響と「聴こえ」に対する感覚ですが、最初に「ド」次に「ミ」最後に「ソ」と順に聴く場合と、「ド・ミ・ソ」を前の音の残響が残っている中で、次の音を聴く場合では「音の高さ=音程自体が変わって感じられること」をご存じでしょうか?残響成分の量(音の大きさ)や残響時間は、「様々な音程の集合である」「ハーモニーの美しさ=透明度」に大きく影響しているのです。 また、人間の聴覚はあくまでも「相対感覚」です。残響の長さによる聞こえ方の変化以外にも、ピアノとフォルテの対比なども、沈み込ませるときの深さはあくまでも無音に近く、そこからフォルテに移行するときに、いかに瞬時に(驚かすように)大きいと感じる音を出せるか?その「対比」こそが最も大切な音楽表現であり、ステレオに求められるのは「音の大小表現力」ではなく、「瞬時に大きい音が出せるかどうか=過渡特性が良いかどうか」が重要であることが分かるはずです。 正確な音楽表現には、音を入れるタイミングや音量、音色、数々の要素全てが重要です。また、直前にどのような音を聞いていたか? そこからどのように、音が変化したか? ステレオの再生音がいかに素早く「立ち上がり」、いかに素早く「立ち下がるか」が、音楽に緊張感(ダイナミックレンジの拡大)を与え、ハーモニーに色を付けずに(分解能S/N感の向上)再生するための、最も重要なポイントになることは間違いありません。私が、最近特に「小型スピーカー」をお勧めするのは、この長所が「大型スピーカー」に優るためです。大きい音が出ず、低域も伸びていない「小型スピーカー」が、音楽表現の精度とダイナミック・レンジで「大型スピーカー」に優るのは、「過渡特性が良いから」「キャビネットの鳴き=共鳴音」が少なく、「音楽的に無駄な音を出さないから」それ以外に理由はありません。 私は小型スピーカーの愛用者ですが、なぜ小型スピーカーを好むのかは、今までの文章の内容でご推察いただけると思います。しかし、様々なメリットを持つ小型スピーカーにも、唯一弱点があります。それは「低音が不足する」ということです。誤解しないで頂きたいのですが「低音が出ない」こととは違うのです。俗に「低音」といわれる楽音には「相当高い周波数の成分」が含まれていますから、小型スピーカーは、大型スピーカーに比べ「低音楽器(ベース・ドラム)などの音階=リズム感」と「音がでるタイミング=緊張感」は、遙かに明瞭に再現できます。 しかし、「低音楽器の量感」これだけは不足しがちです。そこで、誰もが考えつくのが「スーパーウーファー」だと思います。では、現在市販されているスーパーウーファーは違和感なく、きちんとつながってくれるのでしょうか? 本来、スーパーウーファーが、正確に40-50Hz以下の周波数しか再現していないのであれば、ただブーブーというような音しか聞こえてはいけないはずです。つまり、ほとんどのスーパーウーファーは、店頭で?その存在を主張するためにあからさまに、鳴りすぎているのだと思います。 高域成分が漏れていたり(カットされていなかったり)、箱鳴きによってあってはいけない倍音成分が作り出されたり、あげくには「バスレフ方式」を採用したために音を濁らせてしまったり、そのためにメインスピーカーとのつながりが悪くなり、スーパーウーファーを付加するときの問題点になっているのだと思います。 もし本当に、メインスピーカーの音のないところに、立ち上がりの良い低音のみを付加できれば、音はうまくつながるはずですが、メインスピーカーが受け持っている音域にスーパーウーファーの音が、あからさまにかぶってくるようです。その問題を解決できれば、あらゆる音楽の再生においてスーパーウーファーは、あった方が絶対に音も音楽も良くなると思います。 スピーカーに関わらず、オーディオには動く製品=振動する製品が多いですが、スピーカースタンドを変えたり、ラックを変えたり、インシュレーターを変えたりして音が変わるのは、「物理的なアース」の違いによる部分が大きいと考えます。 よく、アンプやCDなどの電気的なアースの重要性が語られていますが、これはアース(基準となる電気的0V)がしっかりしていないと、アースを基準として変動する電気信号(音楽信号)が揺らいでしまい、結果として音の濁りや解像度の低下を招くからです。 では、スピーカーのセッティングを考えたときには、スピーカーを支える床→スタンド→エンクロージャー→ユニットのフレームという順序で、大地からのアースがとれている=振動板が支えられているわけです。スピーカーをしっかり鳴らすには、まずユニットのフレームがしっかり固定されている必要がある訳です。この場合、振動板から見たフレーム(マグネット)が振動の基準点、つまり「物理的なアース」となるわけです。 振動板以外は、全く振動せず強固に動かないこと。これがスピーカーの物理的なアースが理想的にとれた完全な状態ですが、実際には理想通りにスピーカーが製作されていないので、振動板以外の所も盛大に振動したり、振動板の背面に出る音もエンクロージャーに共鳴したりして、高音、中音、低音を濁らせるのです。 例えば、バックロードホーン方式の大型スピーカーなどはユニット背面から出た低音を、エンクロージャーの鳴きを利用して前に回しリスニングポイントに向けて放射する訳ですが、当然、位相や時間的なずれが生じソリッド感は損ねられます。量は確保できますが質的な問題が生じるのです。勿論、一口に低音や高音と言っても量と質の関係が音楽の種類によってかなり異なるため、音楽や演奏家あるいは録音を特定しないと、本当に細かな情報交換やアドバイスは難しいのですが、低音楽器のリズムの刻みを音楽の骨格とする、JAZZやPOPSなどのジャンルの音楽が、緊張感の殺がれた感じの演奏になりがちな傾向があります。 話が、少しそれましたがオーディオ機器の再生音を、清潔な音=歪みの少ない音に保とうとすれば、電気的・物理的なアースは絶対揺らがない方が良いに越したことは間違いありません。 ただし、誤解しないで頂きたいのはこの両アースは理想的に、完全にはできないということです。 1)スピーカーの位置決め(物理的アース)をしっかりさせる。 この二つを試して見られれば音質はかなり向上するはずだと思います。また、2)に関してはメジャーで実際にリスニングポイントからスピーカーまでの距離を測り、正三角形(2等辺三角形)を描くようにスピーカーを設置することです。耳からツィーターまでの距離の対称性を1cm以下に追い込むことで、ステレオイメージ(音の広がり)に相当な改善が見られるはずです。聞きながらやるよりも、メジャーで測る方が簡単・確実です。(その後レーザーセッターを開発) 小型スピーカーにはどうしても置き台が必要になります。しかし、すでに大型スピーカーを持っている場合、そのスピーカーの上に小型スピーカーを置いてはいけないのでしょうか? (効果) (逆効果) スピーカーの下にどのようなインシュレーターを使用すれば効果的でしょうか? 重要なのはスピーカーのキャビネットは木製であるため、スパイクピンなどを使うと面圧が上がり過ぎて、キャビネットを変形させ音質低下を招く恐れがあるということです。スピーカーの重量にもよりますが、小型スピーカーの場合は一点あたり2×2cm以上の面積で、支えてやるのが良いのではないかと思います。 3点支持か4点支持かはスピーカーの重量配分(重心点)を考慮して(同じ重さがかかるように)試されるのが良いのではないかと思います。 インシュレーターに使用した素材そのものの音がスピーカーの再生音に乗るようです。全く鳴かないインシュレーターがあれば理想なのですが、そううまくいかないので音を聴きながら総合的なバランスを取ることが大切です。 基本的に置き台の影響を受ける順位は、動きの大きいものからです。 デジタルケーブルとして配慮すべきポイント。 映像ケーブルとして配慮すべきポイント。 音声ケーブルとして配慮すべきポイント。 電源ケーブルとして配慮すべきポイント。 コンタクト圧の高い(面圧が高く、プラグがしっかり固定される)医療用コンセントも、相当な改善効果が認められます。 CD=デジタルが世に出てから、15年が経過しました。未だに「レコードしか聴かない」「デジタルには音が堅い、色気がない」とおっしゃるお客様がいらっしゃいます。現時点までの自分自身の経験をふまえた上で、私個人はデジタルとアナログの良否について次のように考えています。 結論から申し上げると、現在入手できるメディアとして「アナログ」と「デジタル」を比べた場合、一部の順位は逆転しますが「アナログ」がよりもとの演奏に近いと思っています。しかし、今後の技術の進歩を考慮すれば、デジタルにより大きな可能性を感じます。それは、ノイズ、ワウフラッターなど聴覚に重要だと考えられるデーターがデジタルの方が優秀であること。人間の耳の構造=ハードウエアがデジタルに似ていること。なぜなら人間が「音を感じる=耳の中の音波に対応する部分」の絨毛細胞(細胞から生えている毛の長さに対応した、波長に共振して音を感じる細胞)はそれぞれが固有の周波数に対応していること、つまり「無段階ではなく、デジット=有限の単位」を持つこと等の理由によります。 しかし、現在私が「デジタル」は「アナログ」を上回っていないと考える理由は次のような問題点によるのです。 話は少し変わります。MDやDCC等は、この人間の「聞こえ=聞こえにくさ」を基準として「聞こえにくい音」を切り捨てて「データーの簡易化=圧縮」を行っていますが、この方法も「音楽的」に見れば、「あきれるほど乱暴な方法」であるとしか考えられません。今回、細かな内容に言及することは避けますが、「非常に乱雑・乱暴」であることは間違いないと思います。 スタンダードとなるべきA/D変換・D/A変換方式が未確立。 デジタルが世に出てからどれくらいの種類のD/A変換方式(D/Aコンバーター)が発表されたでしょう? もちろん、A/Dコンバーターもです。デジタル方式が確立されるためには、いつ誰がどのように使っても、きちんと「アナログ」を「デジタル」に変換できる、つまり音が絶対に変わらない「A/Dコンバーター」が必要です。(もちろんD/Aコンバーターも同じです)なぜなら、「アナログ−デジタルの移行時に音が変わる」ことはすなわち「情報コンバートの不備」を示唆しているからに他なりません。簡単にいえば、「アナログはきちんとデジタル」に変換されていないのです。ということは、「変換を行わないアナログ」の方が音質的に有利だということになるではありませんか。 A/Dコンバートの際の、アナログ・フィルターの設計。デジタル領域での、情報処理方式の最適化。これらはすべて、音楽を聴きながら開発することが理想的です。 私は、デジタルの専門家ではありませんので間違いもあるとは思いますが、以上のような問題点(他にもあると思います)を考えつきました。 ここまではある意味では理想論です。デジタルとアナログの現実に関しては次のように考えています。CDの簡便さや簡単にある程度の音が安定して出せる点は、現在ソフトがレコード時代より多く売れていることにより、ユーザーがCDを支持したことを示しています。ソフトが多く売れればより多くの人が音楽を聴く(楽しめる)ことになります。第一段階としてはデジタルは大成功です。 次の段階としては量から「量+質」への変遷が望まれますが、「質を上げる」ことは「コストの増大」を伴いますし、「ユーザーがどこまでの質を要求するのか?」が製品の質を決める重要なポイントになりますから、現状のCDで利益が出ている間メーカーの腰は重いでしょう。 今になってアナログを持ち出して来るのは、アナログへの回帰を目的とするのではなくアナログとデジタルを対比させることにより、アナログとデジタルの持つ長所と欠点をより明確にするためです。そして、それを一人でも多くの人に知って欲しいと思うのです。デジタルの問題点を知り「デジタルに更なる質」を要求するユーザーが一人でも増えることが、メーカーの腰を上げさせ「デジタルの質の向上=音楽の質の向上」に向かわせることにつながるからだと思うからです。 最近、簡単に作れる「真空管アンプのキット」が続々と発売されています。では、「いったい何を目的に自作」をするべきなのでしょうか? 私は次のように考えています。自作を考えたきっかけは、自分が使っている装置の音質に不満を持ったことと、オーディオに関する全てを自分自身で納得行くまで探求したかったからです。決して、完成品より安く販売されているからとは考えませんでした。また、自分の作った物が「市販品より良い音になる」等とは考えもしなかったのです。実際に何種類かの真空管アンプのキットを購入し、組み立ててみましたが「有名メーカーのキット」ほど、音質が結構お粗末で、聴くに耐えない製品が多かったようです。 機器を作り始めて、音が出ても「その音は不満の固まり」だったので、いろいろな場所を自分なりにアレンジし作り上げたキットを改造して自分の思い通りの音にする事に夢中でした。 でも、趣味としてではなく職業(プロ)としてはそれで終わらせることはできません。人の好む音を知らねばなりません。自分の好みと違う好みがあり、音はどのように変えることもできる。そうして、大きな疑問が生じました。ではいったい、「真実=元の演奏」はどうであったのか? このようにして、自作という経験はそうしなければ知り得なかった様々なことを私に教えてくれたのです。 聴く→買い換える→セッティングする→自作する。ほとんどの人はこういう形で進んで行かれるでしょう。 自作に最も必要とされること、それは音楽を客観的に聞き分けることではないでしょうか? 後に録音してみることが残ります。現在この録音に取り組み始めました。自分で録音した演奏を、再生して初めて、オーディオの完全なループが完成します。後はこのループを永遠に回りながら、より認識を深めるだけです。音楽につての認識、自分についての認識をです。それを楽しみながらやって行くことが、バランスのとれたオーディオと音楽とのつきあい方ではないかと、私は考えています。しかし、もしこのループのどこかに捕りとどまるなら、オーディオを通じて音楽という芸術の深みを知る機会を失うことになるかも知れません。 今年後半、録音から再生という「オーディオのループ」の完成を目指し最後に残された課題である録音の実験に取りかかりました。手始めに小ホールで、レコーディングの実験をしてみました。 使用マイクは、 SONY/C38 × 2 最初に感じたことは「マイクの位置」「2本のマイクの幅」「マイクの角度(方向)」でかなり音質が変わってしまうということです。無指向性と称するマイクにも、かなり指向性があるようです。 ある程度は予測されたことですが、予想以上の変化です。マイクの立て方と方向で音楽そのものまでが変わってしまいます。距離感、音色、残響の長さ、中央に位置する楽器の実在感・etc・・・。たった2本のマイクでも立て方だけでこれだけ細工できるのですから、もっと多くのマイクを使って(マルチマイク)録音をすれば、それはもはや演奏者とは関わりなく、レコーディング・エンジニアが自らの意のままに作り替えることすら可能だと思います。 昔の録音に素直で良い物が多いのは、エンジニア自身のやれるべきことが少なく、マイクの位置調整でどこまで追い込めるかという試みが、好結果に通じたからではないでしょうか? 逆に、マイクを増やしミキシングコンソールを使い初めて、マルチマイク・レコーディングになってからは、装置が複雑すぎて専門知識のない音楽家はレコーディングに口を出せなく(口を出しにくく)なり、エンジニアの自分勝手な暴走を止められなくなったようにも思えます。 ステレオの再生音に「定位感」を求めすぎる危険性については、たびたび指摘を続けてきましたが、ここでおさらいをしておきたいと思います。 クラシックのコンサートに行かれたとき目を開けているときは、楽器の位置が特定できるのに目を閉じれば楽器の位置は特定できなくなることに気が付かれたことはありますか? あるいは、テレビで交響曲のコンサートを見ているとき、目を閉じれば音はずいぶん奇妙(広がりがなさ過ぎるように)に聞こえるのに、目を開けてテレビの画面を見ながら音を聞いているときには、それほど不自然には感じられない、このような体験をお持ちでしょうか? この二つの事柄より、視覚情報を伴わないステレオの再生音に、一部のオーディオマニアや評論家の言うような「一つ一つの楽器が見えるように定位する等」ということは、現実にはあり得ないことが分かります。これは、目を開けていると視覚情報と聴覚情報が、脳の中で合成されるため聴覚のみによる音源位置の特定とは、全く違った認知がなされる証拠なのです。 目を閉じて、つまり視覚情報を伴わずに音源の距離や音源の方向を知覚しようとした場合、その精度は視覚情報を伴う場合に比べ、比べ物にならないほど低く、また錯覚も起こしやすいと思います。 音源から直接耳に届く音=すなわち直接音と、何かに反射してから届く音=間接音の割合。反射する面の材質や音の高さ、鋭さ(高音の倍音の量)音量、etc・・・。様々な要素により音の聞こえは変わります。 実際に生録で体験したことをご紹介しましょう。ある時、クラシックの練習風景を録音することになり、中規模のホールで後ろから1/5くらい(かなり後ろです)の場所にマイクを立て、録音したのですが、なぜか舞台のかぶり付きで聴いているような音で録音されていました。 再生音を聴くと、まるで眼前(3−5m)にステージがあるようにきこえるのです。ちょっと、ショックでした。録音が失敗した事にではなく、見事にだまされることにです。考えてみれば望遠マイク等という物もあるのですから、録音時のマイクの種類や方向により音が変化し聞こえが違って感じられるのはあたりまえなのですが、今までは、CDを聴いてこれはマイクはどの位置にあるのではないか? などと、確信を持って想像していましたが、この一件以来全く自信がなくなりました。 では、なぜ「定位感」を「演出するような録音時の改変」が「危険」なのでしょう? 例えば、実際のコンサートなどで、第一、第二バイオリンをバックにコンサートマスターがバイオリンを弾くとき、「はるかに数が多い=音も大きい」他のバイオリンにその音が混ざらないのは、コンサートマスターのバイオリンの楽音の倍音構造が異なるからです。 もう少しわかりやすく説明しましょう。交響曲でトライアングルが入ったとき、「音は小さいはずのトライアングルの音」が「非常にハッキリ」と聞こえることをご存じでしょうか? これは、「トライアングルの出す音波の構造」が「他の楽器の音」とは「明瞭に異なる」ため「油が水に混じらないように」全く他の音に埋もれることなく「異質な情報として認知=聞こえる」からです。 先に述べた、コンサートマスターのバイオリンは、他のバイオリンに比べて「ハッキリした音」なのです。つまり、バイオリンの倍音に明確な隈取りをつければ、楽音の明確感=定位感は強調することができるのです。しかし、そのようにすればその楽器の音だけが異質さを増し、他の楽器と混じり合いにくい=ハーモニーを形成しづらくなくなります。ハーモニーの美しさを重視するなら、楽器を弾くときその位置をピンポイントに感じさせないよう弾くことが要求されます。 もう一つ例を挙げましょう。コーラスを想像して下さい。一人だけ「金切り声の人」がいたら、どうでしょう? その人だけが浮き上がってしまいますよね? それも同じ理屈です。 私の音楽の師である指揮者は、チェロとフルートはプロを凌ぐ腕前ですが実際にホールで「楽器の倍音を変えて演奏し」ピンポイントに定位する楽音と、明確な定位感を持たずに大きな空間を形作る楽音とを弾き分けることができます。 なぜそのような引き分けの技術が必要かと言うことに対し、彼はこのように答えてくれます。 「フォルテを演奏する場合に、音の大きさだけで表現するより、音が大きくなると並行して楽器がもたらす音の空間を大きくすることにより、フォルテの表現力ははるかに大きくなる。」と。実際にこのようなことを目の前で体験すれば、「マニアの要求する定位感=楽器の隈取りの強調」が「正しく行われた空間表現」をいかに阻害するかが理解できるのです。 彼曰く、「オーディオマニアが定位を要求するのは大成功の素晴らしい演奏を、失敗に終わった演奏にしてしまうことである。」そうです。私ももちろんこの意見には100%賛成ですが、ここには大きな問題があります。それは、市販されているほとんどのオーディオ機器「特にスピーカー」が正しい空間表現ができないからなのです。このような空間表現が苦手なシステムで、「空間表現に優れた演奏のソフト」を再生しても、「その実力はほんのわずかしか発揮」されないからです。 つまり、「素晴らしい演奏が」「他の普通の演奏と同じ」ように聞こえてしまうのです。少し例を挙げてみましょう。フルトベングラーのモノラル盤の多くやワルターギーゼキングのピアノ等は、こういった「完璧な空間表現」につながる「素晴らしい演奏の記録」ですが、これらのCD盤をお聴きになられたとき「単に古い録音の記録」としてしか聞こえないようなら「私から見れば、そのシステムの音楽性は十分ではない」と判断できます。 自画自賛になりますが、こういった「古い録音やSPをCDにした盤(ワルター・ギーゼキング/アルフレッド・コルトー)」等を、「AIRBOW」でお聴きになれば、それを「瞬時にご理解」いただけるはずです。そこから流れてくる(再生される音)は、「美しく、素晴らしい音楽」以外の何ものでもないからです。 これは「体験しなければ絶対分からない」ことですが「体験すればこれほど簡単にわかる」ことも少ないと思います。「AIRBOW」は、「楽音に色を付けない=再生時に細工をしない」からこのようなことが可能になるのです。 では、いったいどのような録音が「素直な良い録音」でどのような録音が「問題点のある録音」なのでしょうか? まず、アコースティックな楽器を用いる音楽でそれぞれの楽器に専用マイクを使い、ミキシングによって作り出された音楽は聞いていて不自然に感じられます。 JAZZを例に取れば、名盤の誉れ高い「ビル・エバンスのワルツ・フォー・デビィ」は、客席の騒音やコインの音をわざと被せるなど「音楽の流れにまったく無関係で不自然なレコーディング・エンジニアの意図が明確に感じられます。更には、エンジニアが「自分が音を支配したい」がために、複数のマイクを使いミキサーで楽音を合成した結果、「一つ一つの楽器の音像が重なって自然な広がり感が損なわれ」ていますが、これはマルチマイクを使った大きな弊害です。そのため「各奏者の楽器のはいるタイミング」がずれ「スイング感・テンポ感」が明確に殺がれてしまい「清潔で気持ちのいいノリ」が感じられないのです。 しかし、音楽家自身が「音楽表現として積極的にミキサー」を用いた録音もあります。例えば、JAZZ音楽では「カサンドラ・ウィルソン」や「ホリー・コール」などがそう思われます。しかし、そういう録音のディスクは、「音楽表現に使用されているチャンネル数」が限られるため、「音楽的表現の深さ=解釈表現の広がり」も限定され、結果として「表現が更に深い音楽」よりは「聴き飽きる=解釈をし尽くしてしまったような気になる」のも早いようです。 このように、JAZZやPOPSなどの比較的小編成の音楽で、「直接音が音楽表現の中心となっているもの」つまり豊かなホールトーン(残響感)が不必要な音楽では、マルチマイク・ミキシングされた録音でも、不自然には感じられずに聴くことができます。しかし、ホールなどの残響のある場所で行われるべき音楽=クラシックでは、できるだけ本数の少ないマイクで加工しない録音をしなければ、残響音が幾重にも重なって自然なハーモニーを完全に破壊してしまうのです。絶妙の楽器の重なり感が大きく阻害され、ハーモニーがバラバラになってしまえば、もはや音楽とは呼べない代物になってしまうでしょう。 人間の聴覚は、「残響のある=前の音階が残って聞こえる状態」と「残響のない=前の音階が重ならずに次の音を聴く状態」で音程の感じ方が変わることは前述しました。では美しいハーモニーを形成しようとする場合には、奏者はどのような点に最も注意しなければならないでしょう? それは言うまでもなく「音の重なり=エコーの減衰量です」ピアノなどは、音程は変化させられませんが、ペダルでエコーを調整することができます。ペダルを踏み込んだまま音を重ねて行く場合と、ペダルを全く使わないで演奏する場合には、「次の音に移るタイミング」を全く変えなくてはいけないでしょう。 また、フレットのない弦楽器などは、音程自体を自由に変えることができますが、このような場合は、ホールの状態の変化(残響量の変化)に応じて奏者が音程やビブラートをコントロールしていますから、マルチマイク録音で残響の時間やバランスが変わってしまえば、当然、彼らが苦労してコントロールした楽音は「エコー=残響成分」の変化と共に意味がなくなり、ハーモニーが濁り、音楽が破壊されるといっても良いでしょう。 もちろん、そこまでの要求に応えるにはもともとの演奏が「完璧に配慮され成功している」必要があります。そういった素晴らしい演奏が非常に少ないことも事実ですが、そのようなすばらしい演奏を「エンジニアのエゴ」で破壊されてはたまったものではありません。 再生装置の精度を落とせば、録音のあらは消えて行きますが、しかし最上級のソフトの再生精度も同時に落ちて行きます。 EMIから私の大好きな「チェリビダッケ」の「正規盤」が発売されました。とりあえず最初に発売された、「ロメオとジュリエット&展覧会の絵」を買ったのですが、「海賊版」とは「録音」が明らかに違うのです。私自身は、「海賊盤」がより好ましいと感じたのですが、いろいろな人に聴くと意見が明確に分かれました。その原因を考えてみました。 まず、「3号館」で何人かに聴いてもらったときには、「正規盤」が楽器の輪郭感が妙に強調されて、奥行きが乏しく感じられるという部分では感覚が一致しました。 逆に、「楽器の輪郭感が強調されるため」個々の楽器の音は「海賊版」の展覧会の絵よりもハッキリと感じ取れます。 出だしの金管楽器も「海賊版」に比べ、隈取りがきつくかなり前方から聞こえてしまいます。ただこれと同様の変化(隈取り感の強調)は程度の差こそあれ、市販されているほとんどのステレオの再生時にスピーカーで発生しています。もし、そのようなシステムで再生すればこのディスクは不自然には聞こえないと思いますし、逆に、ハッキリしている分録音が良いと感じられても不思議ではありません。 そこが最も大切なポイントだと思います。そして、その部分が「定位に対する要求」「空間表現力」で感じ方の違いを生んでいる原因であると、断定しても差し支えないと思います。つまり、マルチマイク録音とワンポイントマイク録音の違いや、ステレオ装置の再生音に対する「定位感」への要求、これらはすべて「同様の変化=再生音への隈取り」の度合いであって、録音エンジニアや再生装置の使い手が、ある程度なら自由自在に換えられる部分だと思うのです。 大切なのは、「隈取り」を好まないリスナーにとってソフト自体の音が「隈取り」されていると元には戻せないということです。 ここまで、さんざん言いたい放題のことを書いてきましたが、私も「突然このような考え方」に行き着いたわけではありません。私が音楽を聴いて「楽しい=この曲を聴いていたい」と初めて思ったのは、10才くらいの時パイオニアのモジュラーステレオで、「サウンド・オブ・ミュージック」を聞いたときだったと記憶しています。当時の年齢ではもちろん英語など分かるはずはありませんが、レコードの歌詞カードを見ながら、聞き覚えの発音でレコードに合わせて、歌ったりして楽しみました。 次の記憶は13才くらいの時、「吉田拓郎」や「井上陽水」・「かぐや姫」等のフォークソングに触れたときです。このころ、フォークギターを独学で練習したりしました。その次は18才くらいの頃です。「山下達郎」をはじめ、ニューミュージック(今でいうJ−POP)を聞いていました。 しかし、私は今までずっと「ただぼんやりと音楽を聴いていた」訳ではなく、その時、その時の自分の求めるものを与えてくれる音楽を自分から探し求め、聴いてきました。そして、今ここに挙げた、それぞれの音楽はどれもが、「その音楽に熱中しているとき」には、世界最高、唯一無二に感じられたのでした。当時は自分の好きなディスクを気に入った音でならしてくれるステレオを探して、「誰がなんと言おうとこれが最高!」だと思って聴いていましたが、オーディオ熱が更に高じた結果、やがて市販の機械では満足できなくなり、市販機をチューンナップしたり、機器を自分で作るようになったのです。 このようにして出来上がった機器を製品として販売することに着手し始めた頃、その一つである改造したDAC(TUBALOG)が音楽家(指揮者)の手に渡り、それがきっかけとなり彼と交友を持つようになりました。ある日、自分が作り上げた最高のアンプ(自分が最高と信じていたアンプ)を彼に聞いてもらったのですが、彼は「素質は良いけれど、これは私が聞いたアンプのなかで最高の音ではない」と言ったのです。 もし、この時点で私が彼を信頼し、また尊敬していなければ、彼の言うことには全く耳を貸さなかったと思います。なぜなら、それまでに年代を問わず相当な数のオーディオ機器(販売した中古品はほとんど聞いていましたから)を私なりに聞いてきたのですから、オーディオ装置における見識は十分に専門的で、オーディオセット全般における音の評価という分野では、彼よりも遙かに自分が上回っている自信(過信でしたけれど)があったからです。 しかし、この一件でその見識が誤ったものであり、自分自身の「音=音楽への評価法」が「普遍的に正しいとは認められない」ものであることを知ったのです。彼の教えを受けて生の音楽を聴き、音楽を作る現場を知り、音楽に「何を学ぶべきか?」を考え、知ることができました。そのときから、私のステレオの音作りは180度変わっていったのです。 これは約2年ほど前のことですが、それ以前は、お気に入りのソフトを自分の気に入った音で鳴らしてくれる装置が最高で、そのソフトが「気に入らない音で鳴る装置」は評価しなかったのです。 しかし、現在はそのような再生音楽の聴き方を好みません。なぜなら、それは「あるソフトを用い自作自演の演奏を楽しんでいる」のであって、音楽を楽しんでいることは間違いないのですが、「音楽から演奏者の真意を聴いている・聴きとろうとしている」とは考えられないからです。 今、私のステレオによる音楽の聴き方は、「再生された楽音から演奏者の真意を感じ取る」ことに向けられています。そのための装置は、「色づけを廃した完全なモニター」であることが要求されますが、装置だけではなく当然、「ソフト=録音」にも装置と同様に色づけがあっては困るのです。このような「色づけのないモニター」で音楽を聴けば、録音時に極端な色づけや改変が行われたソフトは、「心地よく=自然な感じ」に聞こえなくなってしまうからです。 昔は最高の音楽だと信じていたニューミュージックなどが、この装置では「録音や演奏のあら」が見え心地よく聞けなくなる場合もあります。以前なら、それを装置のせいにしてその装置に「失格」の判断を下していたでしょう。 しかし、実はそうではなく、彼らの音楽がもともと何らかの加工を前提として作られていたり、(例えば、カラオケで、エコーをかければ、実際よりも上手に聞こえる)ラジカセ・ミニコンポ等の装置で再生することを前提に、「加工して録音=不自然な録音」をされていたのがそのまま聞こえていたことに、気づかなかっただけだったのです。このような経過があって、今では人によって同一の装置の評価が大きく異なっても、あるいはまったく正反対になっても矛盾に感じることはありませんし、また装置に対する見解を統一する必要もないと思っています。 「そのまま聞くか」あるいは「自分の好みで聴くか」どちらが、より優れた音楽の楽しみ方である等と言うつもりは全くありませんが、「演奏者の真意を理解しようとするための聴き方=演奏(楽音)を作り替えずそのまま受け入れるような聴き方」に対し、「再生音を好みで判断する=自作自演の演奏をしているような聴き方」と、それぞれの位置づけを明確に考え分けるようになりました。そして、自分の中では、前者を「音楽を聴く=音楽から学ぶ」。後者を、「音楽を楽しむ=自分も音作りに参加する」といった意識の区別ができつつあるようです。 大変長くなり、また大変難しい話ばかりで恐縮です。しかし、「オーディオ熱の高まり」が「音楽熱の深まり」をもたらさなければ、「趣味として意味がない」のではないかと思うのです。なぜなら、音楽の歴史に対してオーディオの歴史は非常に浅く、そこから何かを学びとるためには、音楽文化に比べてまだまだ未熟ではないかと思えるからです。 くだらないことも重要なこともあったとは思うのですが、「何かヒントを感じ取って」いただけたなら本当に嬉しく思います。また、様々な先入観を呼ぶようなことばかり書いてきましたが、「音楽を聴くときに最も気をつけるべき」だと思うことを、ある年輩の友人よりから頂いたメールを転載すること、私達それぞれへの「自戒=戒めの言葉」としたいと思います。 最も大切なこと、それは「先入観を捨て、自分で判断すること」だと思います。そして、「自分で判断」することによって、成功や失敗が「血となり肉となって」自己の成長を促すのですから。それが、趣味としての「本来のあるべき姿」だと思うのです。 (なお、これは英のBBC Musicという雑誌の掲載されたものからの引用です。) |
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