「わが街わが友」
東京新聞(2001年3月21日から4月3日)10回連載 (新聞をクリックすると該当する記事のテキストにジャンプします)











東京新聞 朝刊 20010321 東京発面 028頁
わが街わが友(1) <全十話> 
黒田杏子 向島百花園 感性研ぎ澄ます“ 恩場”

 その場所から与えられる大きなよろこびにふさわしい恩返しをしたいと思う。長く
生きてきて、そう思う場所がいくつかある。向島百花園はその中でも私にとって第一
の恩人、いや恩場(?)となってきている。
 この二十年余り、私はどんなに忙しくとも、最低月に一度はこの空間に身を置かせ
てもらってきた。ひとりでも来るが、園内の御成(おなり)座敷を借りて、一年ごと
にメンバーのかわる月例句会を重ねている。その名も「八千草の会」「都鳥句会」「
一木一草の会」「百花の会」「百草の会」などなど。一年十二回ここに通いつめると
、誰でも俳句が上達する。何より季語感覚がするどくなって、俳句づくりの醍醐味(
だいごみ)がぐんと深まる。二月十四日にはたった一輪ひらきそめたばかりの節分草
をしっかりとまぶたにおさめた。三月十五日には雪割草とおきな草が咲いていた。桃
の花にはどこからやってくるのかちいさなちいさな目白がつぎつぎ集まってきて、身
をさかさまにしては花の蜜(みつ)を吸う。
 御成座敷と休けい所は席亭「さわら」がその運営に当たっている。女主人佐原洋子
さんの江戸ことば、心のこもった、しかし実にさりげないもてなしにつつまれたくて
、私は向島にやってくる。長子の滋元さん、その長女まどかさんにも洋子さんの流儀
がしっかり伝わっている。予約すれば誰でも借りられるこの日当たりのいい日本家屋
の畳に机を並べ、障子の外にひろがる花の雲、草木の花々を見はるかしながら、百千
鳥(ももちどり)に耳をあずけ、とりよせてもらえるお弁当を頂いて、句を案じ、句
会に没頭する。春の七草かご、七福神めぐり、虫ききの会、仲秋お月見の会と折々の
たのしみもたっぷりある。みんな心の慰められる催しばかりだ。
 ローマ大学教授マリーア・オルシーさんとここの茶室「芭蕉の間」で対談と会食を
したことがある。窓辺の青芭蕉の広葉を打つ雨の音をとてもよろこんで下さった。(
くろだ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010322 東京発面 030頁
わが街わが友(2) <全十話> 
黒田杏子 杉並区和田本町 生涯の先達との出会い

 杉並区和田本町三丁目。雑草園と称された山口青邨先生のお住まいのあったところ
。いまその家は庭木もろとも、岩手県北上市の日本詩歌文学館の前庭にそっくり移築
されている。
 医学生の兄と私は雑草園まで歩いてゆける妙法寺門前の洋館を間借りしていた時期
があって、ある晴れた日曜日、スカートに素足の下駄(げた)ばきという女書生風い
でたちでお邪魔した。東京女子大白塔句会の幹事として、ささやかなお中元をお届け
に上がったのだ。奥さまが「ちょっとお待ちになって」と引っ込まれると、ざるにい
っぱいの杏(あんず)の実を持ってこられ、縁側でキズのない大粒の実を選んで、新
聞紙に包み、手渡して下さる。「あなたのお名前のものですから。うちでは私がジャ
ムを作って、一年中頂いてます」とにこにことされた。
 その日からおよそ十年。三十を目前にした私が再び雑草園の玄関の昔式のベルを押
していた。内側から灯る。木下闇、青葉闇などという季語のその頃、あんず色の昼の
灯の色と奥さまの声がなつかしく胸がつぶれそうだった。
 「杏子さん、大きくなられて、主人は出てますがどうぞどうぞ。何も替えてないの
よ。どこも昔のまんま、雑草園は」。山鳩が軒端近くきて啼(な)いている。寄って
くる蚊の声まで昔のままだ。
 「おつとめお忙しいんでしょ。共ばたらきっていうのね、今は。あなたお偉いわね
え」
 たっぷりといれて下さる濃い目の緑茶を頂きながら、この日、夫人が私の三廻り上
の寅歳(とらどし)であることを知る。卒業と同時に俳句と無縁になり、自分の生涯
を貫く表現手段をさがし求めてさすらいの旅を続けてきた私が、「もう一度、ほんと
うにゼロから本気で句作にとり組んでみよう」と決心できたのは、山口いそ子夫人の
広大無辺の人間性と慈愛に触れ得たこの日のお蔭だ。九十六歳の大往生を遂げられた
青邨師を見送られてのち、ご自身も九十一年にわたる人生を悠々と歩まれた。私の生
涯の先達、恩人、その人はいそ子夫人である。(くろだ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010323 東京発面 032頁
わが街わが友(3) <全十話> 
黒田杏子 西荻窪 大学での幸運な出会い

 東京女子大に行くことを強く望んでいたのは母だった。私は女子大ではなく、国立
の共学の大学に行きたいと考え、兄も駿台予備校の入学案内まで送ってくれていたの
だが、五人の子供を東京に下宿させて大学を出させるということは、いわゆる赤ヒゲ
的ゆき方の野の開業医であった父には負担が大きかったようだ。「女の子は浪人せず
一年でも早く卒業してほしい」という父の望みに従い、女子大生になった。入学と同
時に、学生部の杉森エイ先生に直談判して、日本育英会の奨学生にしてもらった。友
だちのひとりに、「田舎の医者の娘がおかしいわねえ」といわれた。杉森先生は救世
軍のリーダーもつとめておられた方だが、「将来にわたって、経済的自立を図りたい
」という私の考えにじっくり耳を傾けられ、申請をして下さったのだ。
 その父が結婚に当たって、返済はまかせなさいと言いだしたので言い合いになった
。父の言い分は「借金を背負った娘を人にはやれない」。私はずっと仕事を続けるの
だからと主張して、自力で返済を果たした。その奨学金返済のナンバーは忘れもしな
い。32−9687。ひそかに私は「昭和三十二年以来苦労やなあ」と暗記、面白が
って記入して送金してきた。
 いま振り返ってみて、東京女子大に入学したことはとてもラッキーだった。生涯の
師、俳人山口青邨に私は十八歳の春めぐり会えた。同級生もすばらしいが、俳句の縁
で、大学創立期の大先輩数人にめぐり会い、終生の教えを受けた。また、得度間もな
い瀬戸内寂聴さんにめぐり会い、インドをはじめ、国内各地の旅にお伴させて頂いた
ばかりでなく、十七年前から、寂庵サガノサンガという開かれた道場で先生命名の「
あんず句会」の講師をつとめ、毎月一度は東京から京都にゆくという至福の時間を授
けられている。入学手続最終日に、気乗りせぬまま、入学金を持たされて西荻駅に降
りた。幸運な出会いは、すべて、あの日からはじまっていたのだ。(くろだ・ももこ
 題字も)


東京新聞 朝刊 20010326 東京発面 030頁
わが街わが友(4) <全十話> 
黒田杏子 本郷 一葉に続け 女性の『塾』

 本郷に暮らしていた両親の第三番目の子として五人きょうだいのまん中に生まれた
。戦時疎開で六歳の秋からは栃木県に移住、高校卒業までを県内で過ごしたのである
から、正確には本郷育ちとはいえない。しかし、本郷ときけば心が騒ぐ。胸が灯る。
年を重ねるごとにこの感情は強まってくるようだ。
 博報堂で「広告」編集室長という役割を頂いた日、東京に仕事場を持とうと思った
。不動産会社の担当者に、本郷という地名のところを探してと頼む。案内されて、「
ここにします」と言いきるまで一分とかからなかった。東大赤門ななめ前、机の前の
窓から安田講堂の大時計が見えるから、時計も要らない。キャンパスの緑を見下ろせ
るので目にもいい。
 すぐそばに文京一葉忌を修する法真寺(ほうしんじ)がある。伊川浩永住職のご好
意で、二階の客間を無料で借りて女性たちの勉強会「落鱗塾(らくりんじゅく)」を
続け、さらに編集者、ライターを中心とする「東京あんず句会」も定期化した。この
句会の発起人幹事に柳原和子、久田恵。メンバーに島崎勉、大久保憲一、下中美都、
柿内扶仁子、田原秀子、上林武人、林渡海、橋本白木、出井邦子、土肥淑江、曽根新
五郎、佐山辰夫さんほか名前を挙げきれないすぐれた人々が花の雲のごとく参集され
た。現在、俳人などという肩書でどうやら仕事をしていられるのは、この句座の連衆
から与えられた有形無形の教え、授けられた「気」のお蔭(かげ)だと思っている。
 「落鱗塾」の事務局は私がつとめたが、代表は増田れい子さん。筆一本での女性の
自立を発心した大先達、樋口一葉が幼少時にこの寺のほとりに住んだという事実をな
つかしみ、さまざまな分野の専門家を毎回招いては活気のある学習会が重ねられた。
中村桂子さんもゲストスピーカーのその一人だった。文京一葉忌の縁で親しくなった
のは森まゆみさん。この人の縦横無尽の活躍ぶりはいま見るだに胸がすく。(くろだ
・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010327 東京発面 030頁
わが街わが友(5) <全十話> 
黒田杏子 高円寺 “夢の川”をのぼる心地

 中央線高円寺駅前はすっかり変わっていた。北口に出て、左にゆく。狭い道を進ん
でゆくと、なつかしの中通商店街にぶつかる。そこをこんどは右に折れて進む。パー
ルという映画館があって、などといえば年が知れる。ともかく、変わり果てたような
、いや昔のままのような。キョロキョロしながら、いい匂いのする焼きとり屋の前の
竹床几にちょっと座らせてもらって一服。さてとまた歩き出すと、ありました。
 「陶寿苑 大河原」の看板が。医学部の兄、東京女子大の私、栄養大学の妹の三人
で大河原家の所有する店裏の新築のアパートを借りて暮らしていた。長女の光塩女学
院に通っていた己美子さんを私が、弟の現当主、友之さんを兄が家庭教師もつとめさ
せてもらっていた。勉強が一段落すると、お母さんが天津めんとか五目中華そばをと
って下さる。それがたのしみだった。
 電話がかかってくると、いちいち呼びにきてくれる。ずいぶん長話もしていたのに
、お店の誰もいやな顔ひとつされなかった。
 すっかりモダンになった店内の奥の方に友之さんの奥さんらしい人の姿が見えた。
店の先を左に折れると、昔のままだ。アパートもリニューアルされていたが、そっく
り残っている。向かい側のお屋敷もそのまま。夢の中の川をさかのぼってゆく心地が
した。昔もあったパン屋でメロンパンを買ったりして、また駅に戻る。二束百五十円
だけど、三束二百円にするよといわれて、地物のほうれん草をもらう。当時、我が家
はデモ学生の巣窟。私は安保鍋と呼んでいた豚の三枚肉とちぎったほうれん草の水た
きを連日作っていた。七味を振りこんだ大根おろしに生じょう油でいくらでも食べら
れた。
 文芸哲学書専門の「都丸」支店に入ってホッとする。欲しい本があまりにも安いの
で宅配便にしてもらう。住所をみて、あごヒゲの若い店主が「僕も市川にいました」
とニッコリしてくれる。(くろだ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010328 東京発面 028頁
わが街わが友(6) <全十話>
黒田杏子 お茶の水 母の黒髪 桜の花びら

 自転車から私をおろした兄は、腰に手を当てて、しばらくその木の枝ぶりを眺めて
いたが、幹にからだをもたせかけ、右腕をぐっと伸ばすと、花とつぼみをびっしりと
つけている枝を折りとった。つづいてもう一枝。桜の枝を私に抱かせ、兄は自転車を
ひいて道を渡り、病院の玄関に着く。一本ずつ花の枝をさげて兄のうしろから部屋に
入る。「おみやげ」と兄が花の枝をかかげると、花びらが母の黒髪にこぼれた。
 春の日射しがあふれる清潔なベッドの上に、ガウンをまとった若い母がほほえんで
いた。兄に手招きされて、ベッドに沈みこむように昏々(こんこん)と睡(ねむ)っ
ている赤ん坊をのぞきこむ。「誰に似てるの」とつぶやくと、母が「さあ、モモちゃ
んかも知れない」と答えながら、私の髪をなでてくれる。全員三つ違いの私のきょう
だいは五人とも順天堂医院でこの母から生まれた。本郷元町一ノ七。のちに内科に転
じたが、歯科医院を開業していた父のもとで、看護婦さん、お手伝いさんたちと大勢
のにぎやかな暮らしだった。末っ子のこの弟が生まれてまもなく兄は学童疎開、母と
私と妹と赤ん坊の弟は縁故をたよって、兄の疎開した栃木県北部の芭蕉ゆかりの城下
町黒羽に移住。だから、あのときは、昭和十九年の四月で、兄は小学三年生、私は六
歳だったのだ。お茶の水が格別私に親密な駅となっているのは順天堂医院、そして兄
と桜狩りをした記憶が重なるからだ。私は産後の母に崖(がけ)っぷちの染井吉野の
枝を届けようと思い立った幼い兄をいまも尊敬している。桜を見ると、あの日の兄の
行動の一部始終を心の内になぞり懐かしむ。
 御茶ノ水駅は、その後の私の人生にとっても大切なところ。この駅で乗降を重ねつ
つ、三十七年四カ月という長い歳月、私は神田錦町の博報堂で働かせてもらった。こ
とし母は九十四歳。医師である兄と弟に守られて、ことしの花を待っている。(くろ
だ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010329 東京発面 032頁
わが街わが友(7) <全十話>
黒田杏子 池之端 美しきものめぐり歩き

 JR上野駅で降りる。公園口に出ると、たのしい予感がしてくる。文化会館のロビ
ーを抜けて近代美術館の前をゆっくりとゆく。森の中の小径をたどって、百千鳥(も
もちどり)の声を身に浴び、噴水のあたりに出る。ベンチに坐って春風に吹かれ、博
物館前にゆく。車道を左に折れて進むと、東京芸術大学に着く。左手に大きなこぶし
の木。例年見事な花をつける。美術館が出来てキャフェテリアもある。桜の頃のこの
空間はすてきだ。通りの反対側は音楽学部。滝井敬子先生がおられるので、奏楽堂の
コンサートにもしばしば伺う。
 上野の山の星空、月のよろしさは格別だ。通りをさらに進めば和菓子の桃林堂につ
き当たる。料理研究家の故阿部なを先生としばしば待ち合わせをしては能や歌舞伎、
伝統工芸展などにご一緒したところ。右手にゆけば寛永寺。私はたいてい左に進む。
どんどんゆけば五条天神下。石段をのぼって健康を守ってくださいと拝む。道をわた
って不忍池に出る。この水辺の景は句材になる。雪の日もいいし、春夕焼も豪華。芦
の芽、青芦、枯芦、よしきりの遊び場。蓮の浮葉、青蓮、蓮の花、蓮は実に、蓮の実
とぶ、破蓮、枯蓮。水鳥の宝庫。鴨、都鳥、かいつぶり。渡ってきてみなまた帰って
ゆく。桜も多いから朝桜、夕桜をたのしめる。弁天堂ついでに聖天さまにもお詣りを
して、「健康・文運・黒髪」と唱える。願い事はいつもこの三つ。
 散歩の締めくくりは「くしの十三や」。磨き抜かれた重たいガラス戸を引いて店内
に。畳に腰かけてあるじの竹内勉さんと長子の敬一さんが並んで坐り、すすめてゆく
本黄楊の櫛づくり、その靜謐きわまりない時間の中に私も身を置かせてもらう。材料
の黄楊は国内産だけを仕入れている。鹿児島の屋敷の黄楊を立木のときに契約、頃合
いをみて剪(き)って送ってもらう。輪切りにしてから乾燥に何十年もかける。勉さ
んが春昼の灯の下でいま磨いている櫛も先代が仕入れた黄楊なのだ。(くろだ・もも
こ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010330 東京発面 032頁
わが街わが友(8) <全十話> 
黒田杏子 銀座 40年近くも通う美容室

 ファッションライターの南部あき先生にお目にかかれたのも、会社の仕事のお蔭(
かげ)である。
 雪谷のお宅で先生から頂いた原稿を鞄(かばん)に収め、立上がろうとした時だっ
た。
 「あなた、ずっとお仕事なさるおつもり? それだったら、洋服より靴より鞄より
大切なのは髪ですよ。ヘアスタイルよ。私がご紹介しますから、銀座の名和美容室に
いらっしゃい。そして私の担当者の黒田茂子さんに髪のことは一切お任せなさい。い
いですね」
 以来なんと四十年近くにもなるが、髪を剪(き)ってもらうために定期的に私は銀
座に出かける。
 黒田茂子さんは何才か年上だ。お互いに無駄口は利かないので相性がいい。
 二十年ほど前、第一句集『木の椅子』で文化出版局が出していたミセス三賞のうち
のひとつ、現代俳句女流賞を頂いた。俳句を作っていることは職場でも一切口にして
いなかった。瀬戸内寂聴さんと永六輔さんが仰天知人中の両雄で、びっくりされたそ
の時以来、強力に支援して下さる有難い応援団で、常に励まして下さっている。
 大鏡の前でたまたま私が開いた頁(ぺーじ)に、ミセス三賞の人々という写真入り
の特集記事、ふっとのぞきこまれた黒田さんが、「あら、黒田さま、あなたさまじゃ
ないですか」と鋏(はさみ)を置いて、「拝見します」とぶ厚い雑誌を手にとった。
「おめでとうございます。全く存じ上げませんでした」「私がいちばん驚いているん
です。失礼しました」
 ほどなく、私はきもの研究家の大塚末子先生に取材でめぐりあい、大塚さんデザイ
ンのもんぺスタイルでゆくことを決心する。
 「大塚先生のおっしゃるように、もんぺにパーマはそぐわないのです。染めるのも
よくないです。白髪も抜かないで下さい。カットだけ生涯担当させて頂きます」こん
なことを言って実行してくれる美容師さんは二人といない。さすが銀座である。(く
ろだ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010402 東京発面 028頁
わが街わが友(9) <全十話> 
黒田杏子 神保町 常連客、『著者』に昇格

 東京で学生々活を送り、勤めた会社に定年まで籍を置かせてもらった。仕事でもよ
く出歩いていたし、俳句づくりにかかわって、東京の折々の行事や祭、さらには廣重
の遺(のこ)した江戸名所百景のそのビュー・ポイントをくまなく仲間とたどったり
もしたのだから、東京をいろいろと知っている方なのではないかと思う一方、いや全
く分かっていないと実感させられたりする。簡単に断定することはよくないと思うが
、勤めた会社が神田錦町にあり、神保町とつながっていたことは幸運だった。私は神
保町という町が好きだ。神保町に住む人々、ここで働いている人々が好きなのだ。
 まず第一にここは本の町である。どんどん町が変化してきているとはいえ、これだ
け数多くの書店、古書店が並んでいる町は日本でほかにはないだろう。会社員の私は
、毎日欠かさず本屋を巡っていた。古書店の匂(にお)いをたのしんできた。喫茶店
も多いし、食べ物屋もいろいろある。界隈(かいわい)ということでなじみの店を挙
げれば、駿河台の山の上ホテル、小川町の平和堂靴店、洋菓子のエスワイル。駿河台
下うなぎの寿々喜、天ぷらの魚ふじ、和菓子のさゝま。画材と雑貨の文房堂、額ぶち
の清泉堂、洋紙のミューズ社、和紙の山形屋、甘味の大丸焼。生花の花豊その他…書
いてゆけばきりがない。どこの店も主人、女主人、店長、番頭さんといった人々が客
をひとりひとりよく覚えていてくれる。つい十日ほど前のこと。すずらん通りの東京
堂書店にゆくと、店長の佐野さんが近づいてきた。「新しい本にサインしてもらえま
せんか」。びっくりした。私はこの店の長年にわたる外商の客である。エレベーター
で五階に上る。立派な会議室の大きな円卓に二つの出版社から出てまもない私の本が
山積みになっている。あっという間に八十冊もの本にサインさせてもらった。外商の
客が著者に昇格したはじめての日だった。(くろだ・ももこ 題字も)


東京新聞 朝刊 20010403 東京発面 028頁
わが街わが友(10) <全十話> 
黒田杏子 伝通院前 『お顔、輝いていますよ』

 「そこの文章は幸田文さんに書いて頂きたいですね」と発言した私の顔を「本気か
ね」という表情で見つめたのは上司の奥本篤志さんだった。「幸田さんの原稿なら説
得力ありますよ。何といっても名文ですもの」と私。「駄目でもともとだ。じゃあ、
杏ちゃん行ってみるか」という結論で会議は終わった。
 都電の17番に乗って、伝通院前で降りる。電話で教えて頂いた道順をたどると、
「小石川の家」のその前に。お座敷に通される。先生を囲んで、いかにも編集者とい
う雰囲気の男女が何人か坐(すわ)っている。
 「それで、あなたのお話は」幸田先生の目がまっすぐに私の顔に向けられた。
 「新聞の一頁(ページ)を使う連合広告で、下段に広告主の情報、残りの広いスペ
ースは賢い消費者になるためにというコピーとイラストレーションの組み合わせで構
成します。そこの空白の部分に、買い物という題で先生に六百字のお原稿を頂きたい
のですが」
 「分かりました。でも、それは広告文案家のお仕事ね。私にはとても書けません」
 「広告のコピーはこちらで別に作ります。先生のお写真と随筆を右肩にぜひかかげ
たいのです」
 「ごめんなさい。私にはとっても書けないわ」
 「買い物をしない人なんていません。新人の私は、先生にお原稿を頂いて来ますと
部の人たちに約束して出て来たのです。お願いします」
 「分かりました。一週間後にとりにいらしてね」
 うれしくてありがたくて走り出し、都電に乗りかけてバッグをお座敷に置き忘れて
来たことに気付き、とんで引き返す。
 そのビニールのバッグを手に先生がお玄関に出てこられた。何という美しい立ち姿

 「いまのあなたのお顔、輝いていますよ。そういう時は二度とはないの。とても短
いけれど、ほんとうにきれいですよ。必ず書いておきますから」
 涙があふれてきて、この世のすべてがぼーっとかすんでしまった。(くろだ・もも
こ 題字も)=おわり




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