藍生ロゴ 藍生8月 選評と鑑賞  黒田杏子


八月六日ピン残し友白骨に

(広島県)坂本 華波
 広島に原爆が投下された日の句です。坂本さんは九十六歳になられます。親友たちが瞬時にしてこの世から消え去った日の事を詠み続けておられます。私は「明日の友」の俳句勉強会(自由学園明日館)でお目にかかっておりますが、「藍生」の京都勉強会でもお目にかかっています。ご友人と読書会を重ね、句会をまとめ、「友の会」でジャムやクッキーをつくられ、私にもお届け下さっておられます。坂本さんのような方の証言にすべての人間は耳を傾け、核廃絶に向け日本こそ先頭に立つべきです。どんな句よりも貴重な句だと思います。



一人にも日の降り注ぐ躑躅かな

(愛知県)三島 広志
 三島広志さんの句として拝読しますと、現在のこの人の人生観が表明されている一行なのだと思われ、いろいろと考えさせられます。つつじは何ともむつかしい文字。しかし、日本中どこの土地でも見られる植物。そのつつじがこの句の中心。六十八歳の三島さんはこの花のほとりに佇ち、この花をじっくりと見つめて、(一人にも日の降り注ぐ)のだという想いに至ったのです。そんな事当り前じゃないの。と思う人にこの句は無縁。それがどうしたの。と思う人は俳人とは言えない。太陽の恵み。日光のありがたさ。あらためてその事実と恩寵に感じ入っている一人の人間の存在に共感する人が俳人です。三島さんの句を何十年も読み続けてきました。この作家はいま新たな地点に到達されたと感じ、選句、選評という機会に恵まれている自分を幸運な人間であると感動しております。



春の鯉跳ね上がるとき眼のあひぬ

(島根県)但見 靖啓
 この方の句はとてもユニークです。むつかしい表現は一切ありません。どの句にも真実が語られていて、教えられる事が多いのです。池の鯉が水から跳ね上った。そのとき、作者とその鯉の眼が合ったと。事実なのです。ただ鯉と眼があったという瞬間を俳句に詠んだ人は私は知りません。但見靖啓さんの庭の池に長年生きている鯉。但見さんも鯉も友情で結ばれている。犬や猫とちがって、これは鯉という生き物。池の主とも言うべき鯉が春の到来をよろこんだのか、大きくジャンプ。その瞬間に池の主の男性と眼を合わせた。と感じ取り、その瞬間を句に詠まれた。人間も鯉もその瞬間、ともかくとても幸せであったのだと私は思います。


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