THE SPECIAL REPORT OF MODEL SPEEDLIFE 
THE GHIA DE TOMASO STORY 
AND 
TAMIYA'S KING COBRA

なんでも面白発見!

「タミヤの“キング・コブラ”と“ギヤ・デ・トマソ”との関係は!?」


TOP : THE 1/24 SCALE STABO'S KING COBRA.
(C) Photograph by Dr.K.

 今回この企画ページを“MSL”に緊急企画として、急遽組み入れることにいたしました。
1966年以来ですから、すでに35年の月日が経っておりますが、少年時代からの謎でありました「何故タミヤのキング・コブラは、キング・コブラという名前で発売したのか?!」についてわずかなりとも分かってまいりましたので、私の個人的主観も含めて検証してみたいと思います。
 “キング・コブラ”というと皆さんは何を思い浮かべられるのでしょうか?!
蛇の王様である“キング・コブラ”だよ・・・とおっしゃる方はこのHPの読者の方にはいらっしゃらないとは思いますが・・・。「もちろん、タミヤ模型のスロットカーである“キング・コブラ”だ!」といわれる方もいらっしゃるでしょう。
また、「1964年頃のアメリカのレースで活躍していたクーパーベースの2座席スポーツカーであった“キング・コブラ”だ!」と言われる方もいらっしゃるでしょう。
当の私は、当時(1966年)まだまだ実車の知識が乏しく、このタミヤが発売しました“キング・コブラ”というモデルカー・レーシングについては、短に前作であった“ロータス40”に次ぐ新作ぐらいにしか思っておりませんでした。
そして、当時ちょっとへそ曲がりでありました私は、人気だったロータス40も欲しかったのでありますが、みんながほしがっているものに対しては少々抵抗があり、そんな理由がもとで親にこの“キング・コブラ”を買ってもらったような思い出があります(右の写真は、Dr.K氏所有の貴重なキング・コブラのキットであります)。
ところが、中学生になり、少々実車の知識が少なからずわかってきた頃になりますと、この“キング・コブラ”というレーシングカーの正体を知りたい衝動にかられて当時の私が出来る範囲ではありますが、調べてみたわけであります。
しかし、どうにも正体が掴めないのです。“キング・コブラ”という実車は、私が考えていたクルマではなく、クーパーベースのレーシングカーだったりと遂に当時は分からないままいつしか興味が薄れ、またモデルカーレーシングやモータースポーツとも疎遠となってしまいその疑問は頭の片隅へと消えて行ってしまったのでした。
 何年間が過ぎたのでありましょうか。私が次ぎにキング・コブラを見たのが1993年のことでありました。
ある古本屋に置いてありました洋書に「1965年トリノ・ショー」というが特集されており、何の気なしにページをめくっておりますと、私を瞬時に釘づけしてしまうような1枚の写真があったのです。
真っ赤な“キング・コブラ”そのものでありました。名前は、「ギヤ・デトマソ」。
残念ながらその時の写真は手元に持ち合わせておりませんが、白黒写真は、後年当時の海外誌で見つけることが出来ました(右写真は、当時発表されたばかりの“ギヤ・デトマソ)。
いろいろ調べていくうちに、ある事実がわかってきたのでした。

1)本当の名前は、「ギヤ・デトマソ」である。
2)デザイナーは、「ヒノ・サムライ」や「デイトナ・コブラ」で有名な“ピーター・ブロック”である。
3)当初は、アメリカの“シェルビー・アメリカン”が関与していた。
4)ショーで発表された時のカラーリングは、イタリアン・レッドであった。

しかし、以上のことだけでは実車が存在したことしかわかりません。
薄々シェルビーとピーター・ブロックが関与していることで「コブラ」の名前が入ることについては分かるよう気がするのでありますが、これだけではタミヤ模型が「キング・コブラ」として売り出すわけがありません。
決定打を欠いた証拠だけでは結論を出すわけにはいかず、そうこうしている内にある知人から私も見たことがありませんでした1965年発売のAUTO SPORT誌NO.7を譲り受け、そして驚くべき内容が書かれている記事を同誌から見つけることに成功するのでした。

 事実解明!?オートスポーツ誌1965年WINTER NO.7 
 それでは、私が目を見張った特集記事でありましたオートスポーツ誌NO.7からいつものように引用活用させて頂きたいと思います。
 
ルマンを狙う66年コブラ 
by Don Nichols

TOP : From a winter No.7 of AUTO SPORT.
 “キング・コブラ”
 65年のGTカー・チャンピオンとなったシェルビー・アメリカン。その社長であるキャロル・シェルビーとチーフ・デザイナーのピート・ブロックが66年のルマン制覇を狙って写真のようなニュー・カーを作った。
 というのも、GTプロトタイプのチャンピオンシップはいぜんフェラーリに握られており、来年こそはプロトタイプの牙城をもくつがえそうというわけだ。
 シェルビーとブロックが、この夏前、イタリアの秘密工場から野獣のような試作車を持ち帰ったとき、これぞ待望の“キング・コブラ”にちがいない・・・・といわれたものだった。
 しかし、“キング・コブラ”の名称はシェルビー自身が長年のあいだあたためてきたもので、最初のコブラ289ロードスター(コブラ1)はいわずもがな、かの有名なコブラ・デイトナ・クーペ、65年のチャンピオン・カーとなったフォード・コブラGT、それに続く7000cc・600馬力のコブラII にいたるまで、シェルビーは“キング”の名を冠することをかたくなに拒み続けた。
 あの“シークレット・コブラ(コブラ427クーペ)”でさえ、いまやシェルビー・アメリカンの66年レース計画に加えられるかどうか疑問視されるにいたった。この車が積んでいる7000ccのフォード・コンペティション・エンジン“427”は600馬力にまで引き上げられ、とても危険で扱いにくい車であることがわかったからだ。このエンジンは、もともとナスカー用の高性能エンジン。7300rpmで600馬力というスペシャルなものであった。
 こんどベールをぬいだニュー・カーは、しかし、今までとは事情が違う。シェルビー自身、66年のルマン24時間レースに、総合優勝はむろんのこと性能指数賞までさらおうと狙っている車なのだ。
 おそらく、誇り高き“キング・コブラ”の名は、この車につけられるのではあるまいか・・・。

 

 そして、さらに続きます。
 
 “エンジンは2台用意”
 このプロトタイプ車はイタリアの北部デトマソ( De Tomaso)のモデナ工場で秘密裡ニ製作された。設計はいうまでもなくピート・ブロック、資金はシェルビーのポケット・マネーから出された。ロサンゼルスのコブラ工場はいまやフォード・プロダクションカーの一支社となり、そこではコブラとかムスタング"350GT"といったフォード系の高性能車だけが作られているからだ。
 “デトマソ・コブラ”のエンジンは2台用意され、ひとつは最初のコブラに使った4700ccエンジンをチューンしたもの、もうひとつはフォード・ロータス・コルチナの1544ccエンジンを性能アップしたものである。
 したがって車のかたちは同じでもパワーは段違いだ。その狙いとするところは、ごく単純で、しかもドラマチックなものである。この2台の車を使って、シェルビーは66年ル・マンを席巻し、性能指数賞までを獲得しようとしているのだ。ロータス・コルチナをチューンした車は4700ccの車より、はるかに軽いはずである。
 両車ともオプションとして4、5、6段の“デトマソ・トランスアクスル”が用意されている。
・・・途中文省略・・・
 “ボディ前部の大きなベント”
 ・・・ボディの前面には大きな通風孔( hood vent)が開けられている。・・・フード・ベント(通風孔)の目的は、車体上面すれすれの空気の流れの層を乱して高速走行中に浮力がつくのを押さえることにある。
 “自由に動く水平尾翼”
・・・垂直スタビライザーが固定していて動かないのに対して、水平スタビライザーはドライバーからのコントロールで自由に動く仕組みになっている。

TOP : The Front Section of Ghia De Tomaso.
 “スリップ・ストリームの特性”
 “リング・スタビライザー”の翼の部分の予想される働きはおよそ次ぎのとおりである。
1. ハイスピード走行時における車の姿勢をだたす。
2. あらゆるスピードに合わせて車の方向を調整する。
3. レース中、ガソリン・タンク内の燃料が激少し車の重量配分が変化するのに応じての調整。
4. ボディがダメージを受けたときの車の姿勢とハンドリングを調整する。
5. コーナリングや緊急時に翼を垂直に90度回転してブレーキの役目を果たす。(1952年のル・マンに出たメルセデス・ベンツと同じ装置である)
6. コース上の強風に対する調整。
7. “ドラフティング”(速い車の直後の低圧エリアに入って実力以上の速度で走る、いわゆるスリップ・ストリーミングのこと)をさまたげるために後の気流を乱す試み。
・・・。

TOP : The Rear Section of Ghia De Tomaso From AUTO SPORT Winter'65 NO.7.

 この“ギヤ・デ・トマソ”は、最終的にはシェルビー・アメリカンの手を離れて、ギヤ(Ghia)との共同製作となる運命にありました。その経緯については、ピーター・ブロック氏が説明しています。
 さて、この“ギヤ・デ・トマソ”のシャーシーについても少し説明させて頂こうと思います。
このシャーシーは1965年当時では画期的なエンジンを強度メンバーに使ったバックボーン・フレームを持ち、フレームの中に燃料タンクを収納してしまうという革新的なフレーム構造であり、コーリン・チャプマンのF-1カーである“ロータス49DFV”やブルース・マクラーレンのCAN-AMカー“M8A”よりも早い段階で作り上げた“ピーター・ブロック”の才能をあらためて見させてもらった“ギヤ・デ・トマソ”のテカニカル・インフォメーションでありました。


TOP : The Back-Bone Flame of Ghia De Tomaso at Torino Show in 1965.
 さてここで、タミヤから発売された“キング・コブラ”に付いておりますモデルカー・レーシング・カードに記載されている内容を御紹介しましょう。
 上の文章が田宮模型が「キング・コブラ」のために作りましたレーシング・カードであります。
ところが、1966年科学教材社発行の「モデル・スピードライフ」NO.11 9月号に紹介されていた「キング・コブラ」の解説文(下記文章)と上記文章とは微妙に内容が異なっていたことが判明したのです。
 
 この車はイタリア北部のデ・トマソのモデナ工場で秘密の内に製作されました。デザインはコブラ・デイトナクーペのピーターブロック、ボディーはギヤ製です。ボディーはローラ70やロータス30などにひけをとらない低さで、高速走行中に浮力がつくのを押さえるため、ボディーの前面の大きな通風孔とボディーの後端にある水平尾翼が特長です。この水平尾翼はドライバーからのコントロールで自由に動く仕組みになって、コーナリングや緊急時に翼を垂直に90度回転してブレーキの役目をはたしたり、高速走行時においての車の姿勢をただすのに役立ちます。さらにうしろからくる他車に、この水平尾翼を動かすことにより気流を乱して妨害したり、様々な働きをするのです。

 オートスポーツ誌に書かれている内容と上のタミヤ製“キング・コブラ”の説明文は異常に似かよっているように思われますが、皆さんはどう思われたでしょうか。そして、「モデル・スピードライフ」誌の解説文も明かにオートスポーツ誌を参考にしていることがわかりました。
さらに、このオートスポーツ誌NO.7(1965年11月25日)が発売されてから約1年後の1966年11月号(10月25日発売)にはなんと田宮模型の広告として“ポルシェ・カレラ6”と共に“キング・コブラ”が堂々と「新発売 キング・コブラ “シェルビーがイタリアのデ・トマソのモデル工場で製作したニューカーです”」と掲載されておりました。
ただし、実際にこの田宮模型製“キング・コブラ”が発売されたのは当時のモデル・スピードライフ誌1966年7月号(6月1日発売)の広告で初めて新発売としてキング・コブラが紹介されておりましたので、約半年の企画製作期間を経て商品化されたのではと思われます。
 これらのことを合わせて考えてみますと、当時の時代背景からして模型メーカーが実車を研究するということは今と違ってこのようなオートスポーツ誌などからしか得る事が出来なかったのではないかと多分に想像されます。
ちなみに、長谷川製作所製1/24スケール「フェラーリ ディーノ166P」などの説明文やボックス・アートなどは全て当時の“カー・グラフィック”誌からのものだったと想像出来ます。そう考えてみると1965年にCOX社がチャパラル・カーズとスポンサー契約を結んだという事実は当時として驚異的な出来事だったといえるのではないでしょうか。
 しかし、よくよく考えてみますとなんとものんびりしていた時代だったのありましょうか。そして、本当に良き時代だったなあ〜と感じると共に、リアル・タイマーとしてその時代を経験出来たことに感謝する気持ちが今さらのように沸いてまいりました。
ということで、「何故タミヤのキング・コブラは、キング・コブラという名前で発売したのか?!」の検証を終わらせて頂きたいと思います。

編集長

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(C) 26/DEC/2001 Text Reports by Hirofumi Makino.