1971年1月31日、富士スピードウェイでは、恒例となっていた「オートスポーツ トロフィーレース第1戦」が開かれていた。
実は、このレースのジュニア7レースに栄光の歴史を刻んでいるマシンが1台出場していた。そのマシンの名は、“ポルシェカレラ6”。1966年のマニファクチャラーズ世界選手権の2リッター以下スポーツカーチャンピオンとなったマシンであり、ポルシェ歴代のマシンの中でも特に傑作と言われたレーシングカーである。
71年当時においてカレラ6は、すでに5年落ちの旧車であり、特に説明する必要はないのだが、このカレラ6に限ってはそういうわけにはいかない。
実は、このカレラ6は、1967年第4回日本グランプリで、名手TETSUが乗って優勝した栄光のマシンそのものなのだから・・・。グランプリ終了後は、関西のある人物が大事に保管、その後レースにはただの1度も出場していなかったという。
そして、2度目となるこのレースではその栄光を汚すことなく優勝を飾り、その後も国内のビッグレースに出場続けていくことになる。
ところで、この栄光のカレラ6をドライブしたドライバーを紹介しよう。前年までワールドAC7などで活躍していた若手ドライバーで、その名を“高原敬武”という。
 「桑島(当時黒いフェアレディZ432で活躍していた桑島正美のこと)の話を聞いていてどうしても欲しくなったんだ」
若武者“高原敬武”は、1971年8月15日に開催された富士グランチャンピオン第3戦「富士500Kmレース」に、ライバル関係にあった田中 弘のシェブロンB19と共にブランニューマシン“ローラT212”をエントリーさせた。
 高原がこのマシンを購入するきっかけとなったのは、桑島の話からだったと言う。内容は、前年、桑島がZ432をを持ってブラジルに遠征した時、当時のF-1トップドライバーであった“エマーソン・フィッティパルディ”がドライブする“ローラT210”の速さにビックリしたという。高原は、この話を聞いているうちにこのローラなら日本のレースにうってつけではないかと判断し、即日購入を決心したと言われている。
 ところで、ローラの処女レースであった富士500Kmレースの戦績は、総合3位。まあまあの成績である。しかし、ライバル田中のシェブロンは総合2位。実に悔しいと高原はあとで語っていた。
この富士500Kmレースをきっかけに高原敬武という若手ドライバーの名は日本中に知れ渡っていった。丁度風戸 裕が歩んできた道と同じように・・・。
 高原と田中が日本に持ち込んだ2リッタースポーツ。この2台が日本モータースポーツ界に与えた影響を実に大きい。
翌72年になると、富士グランチャンピオンシリーズは、レース規約を変更、今までのエンジン排気量2リッター以上のマシンはオープン参加待遇となり、タイトルは全て2リッター以下のマシン(SOHCエンジンは、2500ccまで)に懸けられることになった。これを契機に、富士グランチャンピオンシリーズは、10数台の2リッターマシンが随時参加するという人気イベントに成長していくことになる。
 ところが、高原敬武が選んだ72年シーズン用のマシンは、意外なことにマニファクチャラーズ世界選手権で活躍していた3リッターマシン“ローラT280 DFV”であった。
彼の意図は、なんだったのだろう?!シリーズ全戦の優勝賞金のみを狙うマシン選定だったのか、はたまたグランチャン規約が改定される前にオーダーしてしまったためなのか・・・。
とにかく、71年初代チャンピオンの酒井 正が駆る“マクラーレンM12”と共に、高原は、最初のチェッカーだけをめざして72年シーズンを走ることとなった。

TOP : Shigeteru Asaoka ( 2nd from leftside) and Noritake Takahara ( Yellow Jacket ).
(C) Photograph by Joe Honda.
 ジョーホンダが久々に日本に戻り感じたことは、「やっと日本のモータースポーツも良い意味で欧米並みの華やかさを持ち始めて来たな」ということだった。富士グランチャンピオンは、今までにない日本を代表するレースに成長するだろうと同時に感じていた。なぜならば、メーカー色に染まらなかった若手ドライバーや若いファン層が確実に増えていたからだ。
そして、今まで興味さえ示さなかったマスコミ連中もこのグランチャン人気を放っておかなかった。さらに、モデルやタレント、そして女性歌手などがサーキットに出入りし始めたのも60年代の日本では考えられないことだった(60年代も全くなかったわけではないが意味が違っていると思う)。
 ところで、マスコミとモータースポーツとの係わり合いは、TETSU IKUZAWAの存在なしでは絶対に語ることは出来ない。60年代日本グランプリで初めて生沢 徹が自らスポンサーを獲得しレースに参加したことにより、それまでレース大会などと呼ばれスポーツとは認識されなかった自動車レースをスポーツの1つとして定着させてくれたのはまさしくTETSUの貢献だった。もちろんTETSU自身もスターとなっていった。
そして、70年代に入り日本グランプリ中止などの理由で、メーカー色が消え、風戸 裕や高原敬武などの新人類ドライバーたちが台頭してきた。そう、やっと本来あるべきクラブマンレースの本質を取り戻し始めたのだ。ジョーホンダは、日本モータースポーツ発展の原動力となるであろうそんな若手ドライバーたちの生き様を写真を通して追っていこうと心に決めていた。エマーソンやジャッキー・イクス、そしてロニー・ピーターソンを追っていた時のように・・・・。
若武者と花・・・・「当時は、サーキットに花があった!」 ジョーホンダ 

 孤独を愛する風戸 裕とは対照的に高原敬武のそばにはたえず“花”がいた・・・。
絵になる“男と女”。2人は青春を満喫していた・・・。
そう言えば、67年のTETSUも絵になっていたなぁ・・・。
日本に帰ったジョーホンダは、グランチャンを通してモータースポーツカメラマンから、本来目的としていたアーティストとしての自分を取り戻しつつあった・・・。

Noritake Takahara with Jeana Matsuo in '73 Fuji.
(C) Photographs by Joe Honda.

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(C) Photographs by Joe Honda.