(C) Photograph by Joe Honda.
 1972年シーズンをシリーズ成績に関係ないオープンクラスで出場していた高原は、73年シーズンを前に大きな転換を迎える。
先に記述したブリヂストンタイヤの全面的なバックアップを受けて総合優勝に向けてスタートする事になったのだ。
排気量での差で優勝することはもうない。全ては同じ2000ccマシンによって争うことになった73年富士グランチャンピオンシリーズに向けて高原敬武は、乗りなれたローラのマシンを選択した。
この年は、前年ヨーロッパF-2選手権出場に集中していた風戸 裕も帰ってきていた。
そして、最大の強敵は初登場ながら4台参加していた新興メーカー“マーチ”の処女マシンとなる“マーチ73SBMW”だった。

Noritake in Fuji's banking 1973( Leftside) and Noritake with March 74S in 1974.
(C) Photograph by Joe Honda.
 この年高原は、マシンをローラからシェブロンに変更したものの、優勝1回、3位1回、4位、7位がそれぞれ1回づつで合計46ポイントを獲得。誰もが予想さえしなかったシリーズチャンピオンとなる。それも強力なマーチBMW勢を押さえての快心のチャンピオン獲得であった。
高原は、それ以後「高原時代」とまで言われるように富士グランチャンピオンシリーズに連戦連勝する。
74年は、わずか1ポイント差で長谷見昌弘にチャンピオンを譲るものの、75年シーズンは、5戦中開幕から4連勝、最終戦も2位となりチャンピオン奪還。
76年も開幕2連勝と快進撃は続く。まさに高原は“時の人”となっていた。
その間、ノンタイトルながら日本人初のF-1挑戦や76年全日本F2000選手権チャンピオン獲得などまさに“高原フィーバー”に染まった。
しかし、いつしか高原の闘争心は消えかけていた。

TOP : Noritake Takahara and Hiroshi Kazato in '73 Fuji GC.
(C) Photograph by Joe Honda.

 2人は何を語り合っているのだろう。2人の未来は余りにも違っていた。
静かに消えていった高原。そして、あまりにも突然消えてしまった風戸。そんな2人の神話は、今も語り継がれている。

「彼は気が強くて負けず嫌いだった。そして寂しがりやだった。彼の存在は僕がレースをしていく上で、いつも大きなウエイトを占めていた。だから僕自身、当面のライバルを失って空白感でいっぱいだ」・・・高原敬武。

 上のコメントは、1977年 中央公論事業出版社発行 ビル大友著作 「レクイエム風戸 裕ー栄光への爆走」より抜粋引用させて頂いたものだ。

END



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