"Joe Honda" This is my life ------ “ジョーホンダの軌跡を辿る!!” 世界のモータースポーツシーンを撮り続けて、来年でちょうど40周年を迎えるジョーホンダ氏。日本のモータースポーツファンに与えた影響力は、計り知れないものがある。そして、未熟ながらもこのホームページを作らせて頂いている私も、まさにジョー氏の写真を見て育った世代である。当時のジョン・サーティーズやジム・クラーク、グラハム・ヒル、そして、生沢 徹などの走りや表情を記憶しているのは、ジョー氏の写真を通して記憶していることに他ならない。それだけジョー氏の当時の活躍は、ワールド・ワイドであったのだ。 1月のモンテカルロ・ラリーから始まり、モンツァ1000Km、シシリー島のタルガ・フロリオ、そして、モナコ・グランプリを取材した後すぐにアメリカのインディアナポリスでインディ500マイルを取材、行き着く暇もなくヨーロッパに舞い戻り、ベルギーのスパ、ドイツのニュルブルクリンクを経て、当時世界最大のレースと言われた“ル・マン24時間”にたどり着く。その間、生沢 徹のF3レースやF1レースの取材も含まれる事は言うまでもない。本当に当時のグレーデッド・ドライバー並の行動力で、世界を駆けずり回ったジョー氏の取材活動には、本当に頭が下がる思いである。 そんなジョーホンダ氏の40年にも及ぶ取材活動を記念し、その軌跡を細かく辿ってみたいと思う。
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上の写真は、1967年フランスのマルセイユ港にて日本より遥々運ばれてきたカローラをジョー氏が受け取った時のものである。
当時は外貨持ち出しが500ドルまでと決められていた時代、日本で購入し船でヨーロッパに運ぶことが最良の方法であった。余談だが、あの生沢 徹も1966年に初めて渡欧した際には、ロータスF3を日本で購入してイギリスに持ち込んでいた。 ところで、このカローラのカラーリングに注目したい。カラーは赤。そして、ドアサイドには日の丸国旗が描かれ、“JOE HONDA”と書かれている。 ジョー氏の本名は、“定塚信行”。しかし、このままで果たして皆が自分の名前を覚えてくれるだろうか・・・とジョー氏は考えていた。日本にいても定塚という苗字は覚えにくい名前であり、どうしてもインパクトがある名前をつける必要があるとジョー氏は考えたと言う。 そこで、定塚の“ジョー”と当時F1で注目されていたホンダF1の“ホンダ”を付けてしまえ!!という今考えてみると考えられない発想だったが、外人からすると“ジョーホンダ”という名前はとても覚えやすい名前だったようで、ジョー氏の最初の作戦は見事大成功。幸先の良い出だしであった。 |
![]() TOP : '67 Pau F2 Grand Prix in France. (C) Photographs by Joe Honda. |
上の写真は、ジョー氏がヨーロッパに渡り、初めて取材したフランス ポーで行なわれたF2レースの模様である。この写真は、当時のカー・グラフィック誌に掲載されていた。
ところで、日本では、ジョー氏がヨーロッパに渡ってから、初めてモータースポーツの取材をしたように思われているようだが、実際のところはどうだったのであろうか?そんな私たちの素朴な疑問をジョー氏に投げかけてみたところ意外な答えが返ってきた。 「もちろん日本でも写真は撮っていたよ」とジョー氏。 どんなレースなのか聞いているうちに、私は絶句してしまった!! 1966年、富士スピードウェイで盛大に開催かれた、あの“日本インディ200マイルレース”を取材していたのだと言うのだ。 大変なことになってきた! 私は、なんとかジョー氏にこの時の写真を紹介させて欲しいと頼み込み、遂にこの秘蔵写真を公開出来る運びとなった。本当に主宰者冥利に尽きる思いである。サイト上ではあるが、この場を借りて、快く写真をお貸し頂いたジョーホンダ氏にお礼を申し上げたいと思う。 さて、注目のジョーホンダ版「日本インディ200マイルレース」写真集は、次のページをご覧頂きたい。 |
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(C) Photographs by Joe Honda.